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20230607学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第11章-2 クロポトキン

20230607
『三つのインタナショナルの歴史』

[クロポトキン、バクーニンのあとをつぐ]

1870年代の半ば、バクーニンは病と革命計画の失敗に意気消沈し、第一線から引退した。バクーニンはジュラの労働者に別れの手紙を送っている。その中で、「マルクスの社会主義はビスマルクの外交と全く同様、反動の中心であって、労働者はこれに対しあくまで闘争しなければならない」と書き、死ぬまでマルクス主義に対して激しい敵意を持ち続けた。また、マルクスのバクーニンへの敵意も変わらなかった。1876年7月1日、バクーニンはベルリンでその命を閉じた。享年62歳であった。

当時の無政府主義運動家には著名な人物がたくさんいたが、その中でバクーニンの指導権のバトンを受け継いだのは国際的闘争の分野での新人、ロシアのクロポトキンであった。
ピョートル・クロポトキン(1842-1921年)は、公爵で、ツァーリ・ロシアの有名な一貴族の家の出身であり、地理学者としても有名な人物であった。1872年、革命運動に関心を持っていた彼はスイスでインタナショナルに加入し、バクーニン派に加わった。この活動のため、数年間ロシアとフランスで刑に服した。ボリシェヴィキ体制に対して徹底して反対していた彼は、プロレタリアの政党と政治活動の敵、プロレタリア独裁の敵とみなされた。クロポトキンは自らを共産主義的無政府主義者と称し、「自然発生的暴動による革命」と「自由権に基づく社会の自主的建設」というバクーニンの考えを推し進めた。また、クロポトキンにとって主要な敵は、資本家階級ではなく国家だった。

バクーニンとクロポトキンの違いといえば、その活動形態だった。バクーニンは行動的で反乱や暴動に加わったが、クロポトキンはそうではなく、ほとんど調査や理論、宣伝に没頭していた。これは、クロポトキンの時代は資本主義が安定していたためである。

[なぜ無政府主義運動はおとろえたか…無政府主義の解体へ]

多くの国で労働者階級が発展していたものの、無政府主義インタナショナルは失敗し、崩壊した。その理由はいくつかある。
・理論上の不健全さ
・最後まで「革命近し」と考えていた見通しの焦り
・階級闘争に対する誤解
・国家の役割についての間違った解釈
・プロレタリア独裁の実態についての無知
・組織の過小評価と大衆の自然発生性の過大評価
・資本主義体制下の実際的な日常的階級闘争の必要の無理解
などであり、暴動にすべての希望を委ね、労働者の日常闘争を実際上無視したのだ。そのため、無政府主義運動は拡大できず、セクト(宗派・派閥)に陥っていった。
各国の労働組合や政党、協同組合が増え、さまざまな種類の部分的要求(選挙権、賃金引き上げや労働時間短縮、工場立法等)のための闘争を労働者が起こし始めていたころ、無政府主義者はその部分的要求は労働者を欺くものだとしてすべて軽蔑して見ていた。自分たちが「万能薬」だと信じる暴動以外には目もくれなかったのだ。更に、ストライキにもほとんど協力せず、労働者の選挙権闘争にはサボタージュを行なった。

無政府主義者にとって命取りとなったのは、当時、プロレタリアートは急速にその勢力を増し、次々と選挙権を獲得していったことだった。そうしてヨーロッパの大衆は政治活動の方向に向き始めたのだ。それでなくともバクーニンの反政治主義は、ラテン系諸国の労働者が選挙権を持っていなかったこと、また、これらの国ではプロレタリアートの数がそもそも少なかったことから、選挙の投票では多数派になる期待が持てなかった。これはロシアでも同様で、1870年代以降のロシアでは無政府主義の考えに影響を受けたテロリスト「人民の意志」派が、10年間ほど活動していた。

1860年代後半以降のヨーロッパとアメリカでは資本主義体制が安定し、その後数年間において急速に発展した。労働者階級が多少の暴動を起こしたところでびくともしない状態になっていた。無政府主義者は個人の解放が重要という考えだった。個人が解放されるには自然発生的に暴動が起きて成功するという見通しを持ち続けていたため、このような資本主義体制の安定という状態は大きな打撃だった。暴動は、自然発生的には起こらないし、起きたとしてもすぐに消えてなくなる。
無政府主義者は、なぜ「プロレタリア革命がすぐにやってくる」と信じて疑わなかったのか。しかもこの点に関しては、無政府主義者だけでなくマルクスもエンゲルスも誤った見方をしていた。
1859年から1871年までの間、いくつかの戦争が起きていた。オーストリア=フランス戦争、オーストリア=プロイセン戦争、フランス=プロイセン戦闘、アメリカ南北戦争など。また、イタリアの統一、スペインの革命、パリ・コンミュン、ロシアの農奴制度廃止なども行われた。ヨーロッパ全体は、このような急速な労働運動によって革命的な空気にあふれていた。マルクス主義者も無政府主義者も、革命が近いのではないかと勘違いした。ただ、マルクス主義者はその科学的な理論のおかげで誤りを正すことができた。それとは逆に、無政府主義者はブルジョア的な観念論で身動きが取れず、見通しの誤りを正すことができなかった。こうした理由から、無政府主義インタナショナルの没落は避けられないものであった。

1870年代から1880年代にかけて、無政府主義運動は組織上でも実践上でも衰え、やがて内部での理論上の諸派や分派に陥り始めた。分派としては「哲学的無政府主義」「個人主義的無政府主義」などができ、次第に小ブルジョア的な「サロン革命家」や、急進的な革命を謳歌する口舌の徒になっていった。さらに一時期は、強大なテロリストの傾向も生まれた。テロリストは国家の要人を暗殺することで大衆を動かそうとはっぱをかけた。その結果、1900年前後の2、30年間に起こったさまざまな爆弾投下事件や政治家の暗殺などについて、無政府主義者の仕業ではないかと非難が浴びせられた。無政府主義者のテロリストの動きは、自分で自分の首を絞めることとなった。

そうこうしているうちに、第三の無政府主義の動きが出てきた。これは、小ブルジョア的無政府主義インテリよりも、はるかに実際的な無政府主義思想を持つ労働者であった。彼らは、無政府主義を労働組合運動に応用した、アナルコ・サンディカリズム(無政府主義的労働組合主義)であった。しかし、アナルコ・サンディカリズム(無政府主義的労働組合主義)の組合は無政府主義の個人主義の考えとは衝突するものであるし、彼らの考える未来社会は事実上労働組合国家であり、無政府主義者の反国家主義の考えとは反しているものだった。彼らの規律は、無政府主義の原則から外れていた。
この、無政府主義的労働組合主義という流れは、解体していく無政府主義の中での主流となり、のちに多くの国で重大な役割を演じるようになる。

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