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20230626学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第14章-1 社会民主党と労働運動の高まり

20230626
『三つのインタナショナルの歴史』

【第2部 第2インタナショナル(1889-1914年)】
[第14章 二つのインタナショナルの中間の時(1876-1889年)]

1876年に第1インタナショナルが解体し、第2インタナショナルが創立される1889年まで13年。この期間は、世界資本主義が急速に成長し拡大した時期であった。特に工業の発展はイギリス、フランス、ドイツ、アメリカで著しく、アジアでは日本で目覚ましい工業発展が始まっていた。ロシアでも労働者数が70万人(1865年)から143万3千人(1890年)と、大幅に増え、大製造工場と鉄道が盛んだった。
国際関係では大体において安定した時期だった。1871年にフランス=プロイセン戦争で一連の民族戦争は終わり、後に起こる帝国主義的大戦争まで、すなわち1905年の日本とロシアの帝国主義戦争が勃発するまでの35年間、ヨーロッパではたいした国境の変更は起こらなかった。
資本主義列強でも、その国内では相対的に安定し、大きな革命的蜂起もほとんど起こらなかった。

[労働運動の発展]

この時期、先進資本主義諸国では賃金労働者の数が激増し、熟練労働者の生活水準がいくらか向上した。イギリスの大資本家たちは、労働貴族へのわずかな譲歩によって、労働者の戦闘的な連帯をさせないようにしていた。それにもかかわらずこの時期はなぜか多くのストライキが起きていた。規模、規律、組織、期間のどの点でもかつてないほどであった。フランス、ドイツ、ベルギーでよく起きていたが、とりわけアメリカでのストライキはひどかった。
アメリカでは1877年に鉄道労働者の激烈なゼネラル・ストライキが起き、1886年には8時間労働日を要求する全国ストライキが起きた。イギリスでもストライキは多く起き、1889年の港湾ストライキが最も大きかった。
ロシアでも労働者が組織を作り、ストライキ闘争を始めていた。1881年から1886年の間に48件のストライキが起き、8万人の労働者が参加した。しかし、そのどれも暴力で潰された。ロシアの革命的プロレタリアートが国際労働運動の舞台にあらわれようとしていた時期だった。

この時期にはまた、労働組合運動が大きく拡大した時期でもあった。
イギリスの労働組合は1889年までに約140万人という空前の組合員数を数えた。
アメリカでは労働騎士団が終わりに近づき、その代わりに1886年にはアメリカ労働総同盟(AFL)が結成された。

さらに、各国で社会主義政党が創立された。
1869年ドイツ
1870年オランダ
1871年デンマーク
1872年ボヘミア
1876年アメリカ
1879年フランス、スペイン
1880年イギリス(党ではなくグループ)
1883年ロシア(グループ)
1887年ノルウェー
1889年オーストリア、スイス、スウェーデン
1890年オーストラリア、フィンランド
1892年ポーランド、イタリア
1894年ブルガリア、ハンガリア、チリ
1896年アルゼンチン
1901年日本
1903年セルビア
1904年カナダ
1911年中国
1916年ブラジル
と続く。
前半の社会主義政党の大部分は、第1インタナショナルの古い組織やグループから生まれたものであった。

これらの新しい党の多くは、さまざまな弾圧を受けることになった。特に代表的なのは、ドイツ社会民主党である。
ドイツ社会民主党は、宰相ビスマルクによる「社会主義者取締法」で党を非合法化された。これは、二度にわたるドイツ皇帝襲撃事件を利用したものだった。いずれも社会民主党とは何の関係もなかったのだが。
社会民主党を非合法とする期間は1878年10月から1890年末まで続いた。その間多くの指導者は投獄され、活動も党機関紙の発行も禁止された。ビスマルクは、労働者に対する機嫌取りとして、うわべだけの社会保険制度をつくった。党は国内で活動できないので外国で会議を開催したり新聞を発行したりした。そうして成長していき、得票数は1878年に約49万票だったのが1890年には約142万票となった。労働組合も成長した。組合員数は約5万人から28人にもなった。ビスマルクは退陣させられ、社会民主党禁止令も撤廃されることとなった。

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