見出し画像

20240324学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-1 第3インタナショナルの設立

20240324
第3部 第3インタナショナル(1919〜1943年)

第27章 ツィンメルワルド運動(1915〜1917年)

 第1次世界大戦で、第2インタナショナルは組織的・思想的にいくつかのグループに分裂した。組織的分裂は、同盟国側の党、連合国側の党、さらに中立諸派の党、そして、これらのうちどれにも当てはまらなかったロシアの党に分裂した。思想的分裂としては、右翼、左翼、中央派の分裂が第2インタナショナルで終始問題となっていたが、戦争が長引いたことによってより国際的組織としてはっきりとしてきた。
 ひとつは、階級平和と帝国主義戦争の全面的に支持する、復活した右翼の第2インタナショナル。もうひとつは、ブルジョア的平和を求める中央派の第2半インタナショナル。そして、左翼の共産主義インタナショナルである。共産主義インタナショナルは、シュトゥットガルト決議、コペンハーゲン決議、バーゼル決議の精神に従い行動し、大衆の反動的な気持ちを社会主義のための革命的戦いに転化しようとした。

[第3インタナショナルの始まり]

 第3インタナショナルが初めて根を下ろしたのは、ロシアでのボリシェヴィキ・グループの結成であった。第1次世界大戦以前に書かれたレーニンの多数の著作は、マルクスの著作とともに、ボリシェヴィキ・グループの革命的思想の基礎となった。

 第1次世界大戦が勃発した時、レーニンはロシアに近いガリチア(オーストリア領)に亡命していた。9月5日にスイスに着くと、ボリシェヴィキのグループが結集し、新聞「ゾツィアル・デモクラート」を発行するようになった。レーニンは9月6日に準備的なテーゼを作成し、戦争についての宣言を書いた。これは1914年11月1日、中央委員会によって発表された。この宣言の基本方針に従い、ボリシェヴィキはロシア革命と共産主義インタナショナルの創立を成し遂げたのである。宣言は次のように断じている。「第2インタナショナルの指導者たちは、軍事予算に賛成投票し、「自国」のブルジョアジーの排外主義的な(『愛国主義的な』)スローガンを繰り返し、戦争を正当化し、擁護し、交戦諸国のブルジョア内閣に入閣したりして、社会主義に対し裏切りを行った」「日和見主義者たちは、シュトゥットガルト、コペンハーゲン、バーゼルの諸決定を破棄した」。さらに、アナルコ・サンディカリズムも同罪として、それを「日和見主義の当然の『補足物』」と呼んだ。

 宣言はドイツ、オーストリア、ロシアの君主制を覆し、ヨーロッパ合衆国を作るよう呼びかけたが、これは正確ではないとしてのちに撤回された。帝国主義戦争を国内戦争に転化せよ、というのが正しいスローガンであり、コンミュンの教訓であり、1912年のバーゼル決議での方針であった。第2インタナショナルは崩壊したのであり、新しいインタナショナルを作ることが必要である。
 ロシアでは、戦争反対というボリシェヴィキの主張は迫害された。ボリシェヴィキの国会議員や中央委員は投獄され、「プラウダ」は発行を停止された。多くの党機関も破壊された。だが、党の勢力はすぐに再組織された。

[社会主義者の反戦諸会議]

 戦争による恐ろしい虐殺によって大衆の反戦感情が強まると、あちこちで反戦運動が巻き起こった。1914年12月に党幹部会で14名の委員が軍事公債に反対票を投じたが、その中でカール・リープクネヒトただ一人が、ドイツ国会において、愛国主義者の陣笠議員たちの怒号の中で勇敢に演説した。

 このころ、社会主義者による反戦国際会議が多数開かれた。
 1915年1月にはコペンハーゲンで中立諸国の社会主義者の会合が、ウィーンではドイツ、オーストリア、ハンガリアの社会主義者の会合が開かれた。また同年2月にはロンドンで協商国(英仏露)の社会主義政党の会議が開かれた。しかし、反戦会議といえども、それぞれの国の平和主義のうえに平和の確立を訴えることは、レーニンの革命的方針を否定するものだった。なお、アメリカでは前年の1914年9月にアメリカ社会党が会議を提案していたが開催されなかった。
 そのような中、重要な反戦勢力の会議が1915年3月28日、ベルリンにおいて婦人たちの手によって開催された。国際社会主義婦人会議である。この指導者は、第2インタナショナル国際社会主義婦人局の書記であった、クララ・ツェトキンである。この会議には主な交戦国すべての代表者が集まった。ボリシェヴィキは、ナデジダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤ(レーニンの妻)、イネッサ・アルマンド、ジナイダ・レリナ、オルガ・ラヴィッチなどを会議に送った。にもかかわらず、会議はボリシェヴィキの決議案を否決した。採択された決議は、資本主義を非難し社会主義賛成を表明しながらも、ただ一般的な戦争反対を宣言するだけにとどまった。

 1915年4月5日には国際社会主義青年同盟がベルリンで会議を開いた。この会議でも、主役は左翼だったが、代表者たちはレーニンの綱領を採択せず、婦人会の方針に従いロシアの決議案は否決された。また、この会議では、国際社会主義青年局を設立することと、機関紙「フライエ・ユーゲント」(自由青年)の発刊が決まり、レーニンがこれに寄稿することとなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?