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20230604学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第11章-1【無政府主義者インタナショナル】

20230604
『三つのインタナショナルの歴史』

【第11章 無政府主義者インタナショナル(1842-1877年)

ハーグ大会で除名されたバクーニン主義者たちは、インタナショナルはニューヨークに移って解散したと声明し、自分たち自身の組織をつくることにした。したがって、インタナショナルのニューヨーク移転後数年間は、二つのインタナショナルが存在していたこととなる。

[サン・ティミエ大会]

1872年9月のハーグ大会の数日後、9月15日から17日にわたり、スイスのサン・ティミエで無政府主義勢力の大会が開かれた。参加したのは、スペイン4名、イタリア6名、スイス2名、フランス2名、アメリカ1名の代議員であった。彼らは、自分たちこそがインタナショナルだと主張し、インタナショナルの名前で活動した。新しく生まれ変わったような顔をしていたが、その中身は古い社会民主同盟に他ならなかった。

サン・ティミエ大会での宣言は、
「労働者階級の各支部および連合の自主と独立は、労働者解放の本質的条件である」
「あらゆる種類の政治権力の破壊は、プロレタリアートの最初の任務である」
「万国のプロレタリアートは、社会革命の達成にあたってあらゆる妥協をしりぞけ、ブルジョア政治にたよることなく、革命的活動の強固な力をうちたてなければならない」
というものであった。

ニューヨークへ移転したインタナショナル、そして、無政府主義者のインタナショナル、この二つのインタナショナルのどちらかを、労働者は選ばなくてはならなくなった。ベルギー、オランダの連合が無政府主義者のインタナショナルに加盟し、イギリスの連合の一支部もこれに加わった。彼らは日和見主義的な労働組合主義者で、無政府主義というよりも、反マルクスの派閥闘争が目的だったようである。
マルクス主義のインタナショナルに賛成したのは、フランス、ドイツ、オーストリア、ポーランド、デンマーク、ハンガリア、アメリカの連合だった。これだけの国の連合が旧インタナショナルにとどまったのだが、これは形式だけのことで、ヨーロッパのマルクス主義者はインタナショナルがニューヨークに移転したのと同時に終わったのだという認識だった。ドイツ、その他の一部のマルクス主義者は、それぞれ自分たちの国で労働運動と政党を育てる方向へ歩き始めた。

[無政府主義者の衰退]

バクーニン主義のインタナショナルが活発に活動していたのは1872年からの5年間程度で、それ以降は「死の間際の痙攣」のようなものだった。しかも、活動といってもこの5年間に何度か大会を開き、公式な機関紙は『ジュラ連合会報』1紙であった。
1881年7月に、無政府主義者はロンドンで大会を開き、この時に「黒色インタナショナル」(のちの国際労働民衆協会)を設立した。彼らは自分たちの活動を国際的に復活させようとしたが、結局、ヨーロッパで再び力を得ることはできなかった。しかしアメリカでは大きな反響を得ることとなった。シカゴでは外国生まれの労働者の間に大きな支持を得ることができた。この外国生まれの労働者たちは、たいていは市民権を持たず、最低賃金の仕事に従事し、工場内では暴力行為にさらされ、恐慌のたびにその犠牲者となっていた。そのため、無政府主義者の宣伝に動かされたのである。

無政府主義インタナショナルの行なった大衆闘争はごく僅かであり、その中で重要なものは1873年と1874年の、スペインとイタリアでの革命的運動だった。
スペインのバルセロナでは、無政府主義インタナショナルの会員数は約5万人にものぼるといわれていた。スペインは革命的気運に満ちていたのである。1873年にはスペイン共和国が誕生した。無政府主義者は非革命的であったためにこの時の大衆運動には加わらなかったが、小さな都市ではゼネラルストライキを起こした。しかしそれは失敗に終わっている。
イタリアでは、1870年代の初め頃はバクーニン主義の根拠地となっており、2年間の間に60にも及ぶ小さな暴動を起こしていた。1874年7月のボローニアの反乱を最も重要視していたが、これも失敗に終わっている。

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