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20240504学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第28章-2 党の革命綱領と臨時政府の改造

20240504

[党の革命綱領]


 3月革命のとき、レーニンはスイスにいた。レーニンはこの革命を、闘争の第一段階に過ぎないとみていた。『遠方からの手紙』の中で、レーニンは労働者階級に次のような言葉を寄せた。最初、1848年の革命の時にマルクスが述べ、そして1905年にレーニンが説いた、永続革命の理論である。トロツキーは自分が最初にこの理論を作ったと言っているが、これは嘘である。

「早晩、(おそらくは私がこの手紙を書いている現在でも)諸君は、帝国主義戦争をやっている地主や資本家の権力を転覆するために、どうしてももう一度前と同様な英雄的行動の奇蹟を発揮しなければならなくなるだろう」


 1917年4月3日、レーニンと20人のボリシェヴィキの一団が、秘密列車に乗ってスイスからロシアに帰ってきた。ドイツがこれに協力したのは、自分たちの利益に役立つだろうと踏んでいたからだ。レーニンは、ペトログラードにつくや否や、11月のプロレタリア革命への道を明示した、あの有名な4月テーゼをまとめあげた。『ソ同盟共産党(ボ)小史』によると、「レーニンの4月テーゼは、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ移行するための、革命の第一段階から第二段階へ、すなわち、社会主義革命の段階へ移行するための天才的な闘争計画を党に与えた。これまでの全ての歴史によって、党はこの偉大な任務に向かって準備されていたのである」という。テーゼは、労働者に対して、政府や政府の戦争計画を一切支援するなど呼びかけた。

 テーゼは、地主の所有地を没収して土地を国有化すること、銀行を労働者・兵士ソヴェトの管理下に置くこと、そして工場に対する労働者の管理を樹立することを要求した。また、ブルジョア民主共和制から、プロレタリアートと貧農層に基盤置くソヴェト共和制へ前進すべきだと述べた。全ての権力をソヴェトへ、軍隊に代わり人民を武装せよと提案した。「歴史上もっとも偉大なプロレタリア革命なしには、戦争を真に民主主義的な道で終わらせることはできない」と宣言した。そしてテーゼは、党の名称を投稿量を的確に表す「共産党」に変えるよう提案した。これは、マルクスとエンゲルスが、自分たちの組織を「共産主義者同盟」と名付けたのと同じ根拠に立っている。テーゼはまた、第2インタナショナルに代わって、共産主義インタナショナルを確立せよと要求した。

 中央委員会は、レーニンが辞表を出したことによる内部闘争が一時起きたが、のちに撤回され、委員会はレーニンの革命的4月テーゼを承認した。反対したのは、カーメネフ、ルィコフ、ピャタコフなど若干名であった。その後、ジノブィエフ、ブハーリンも反対側に立った。


[反動的臨時政府]


 1917年4月18日、ロシアの外務大臣ミリューコフが、「全国民は、決定的な勝利を得るまで世界戦争を続けるつもりだ」と、人もなげな声明を出した。政府にこの趣旨の誓約をさせた。

 1917年5月、臨時政府の改造が行われた。この時、立憲民主党(カデット、主要なブルジョア政党)、メンシェヴィキ、社会革命党(エス・エル)からなる連立政府が作られた。この政府の綱領は、資本家と地主の利益の擁護、労働者と農民の革命的要求の妨害であった。これは第2インタナショナルの右翼改良主義者の方針と同じものである。政府には連合国側諸政府の大きな支持があった。ペトログラードには右翼社会主義指導者を含む連合国諸政府の代表団が詰めかけ、ロシアの革命が左に走らないよう説いた。このためには、ロシアには戦争を続けさせる政府の政策が必要であった。

 6月、政府は反動的な誓約を実行するために攻勢を始めた。しかしその結果は、ロシアの軍隊にとって恐るべき惨害をもたらすこととなった。


 ケレンスキー政府は、労働者や農民の全ての要求に対して、憲法制定議会を開くことをちらつかせた。しかし議会の開催は何度も延期された。スターリンはこの政府について「農民は土地をもらえない、労働者は生産管理を得られない、ロシアは平和を勝ち取れない」と述べた。

 このころ、政府によるボリシェヴィキへ弾圧が始まった。ボリシェヴィキは地下に追い込まれた。8月にはコルニロフ将軍がツァーリの復活を目指す反乱軍を組織した。この危険な反乱は、のちにボリシェヴィキの活動によって抑えられることとなる。



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