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20231001学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第20章-3 ボリシェヴィキとメンシェヴィキができた

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『三つのインタナショナルの歴史』


[ボリシェヴィズムの誕生——ロンドン大会(1903年)]


1901年から1903年にかけて、ロシアは産業恐慌の年であり、国内のいたるところで大きなストライキが相次いで起こった。ストライキは酷くなるばかりで革命的な調子を帯び、ツァーリ政府は残忍な暴力で対抗した。

1902年、ストライキは農民の間にも広がり、地主の屋敷に火をつけたり土地を占拠したりした。学生もこれに巻き込まれ、多くの大学で戦闘的なデモが行われた。


このような中、1903年7月30日、党のロンドン大会が開かれた。当初ブリュッセルで開かれたが、警察の追及によりロンドンに移ったのだ。参加者したのは26の組織、43名の代議員であった。レーニン、プレハノフ、マルトフ、アクセリロード、ザスーリッチ、トロツキーらが出席した。スターリンはシベリアに流刑中だったため出席できなかった。

レーニンは、このロンドン大会で党の建設のための準備を始めた。機関紙『イスクラ』や著書『なにをなすべきか』などにより、マルクス主義グループの間で広範な教育運動を進めた。


第2インタナショナルに加盟していたどの党も、ロシア社会民主労働党の綱領に「プロレタリアートの独裁」を入れることに反対した。しかし、レーニンはプレハノフの協力を得て反対派を破り、革命的な「イスクラ」綱領が採択された。


この大会での中心的な闘争は、党規約のことだった。大会では二つの対立する流れができた。

片方はレーニンの方針で、プレハノフが支持した。その規約は「党の綱領を承認し、党を物質的に支持し、党の基本組織のどれか一つの一員となるものは、すべて党員となることができる」というものだった。革命的で、強い前衛党を望んだ。

これに反するのはマルトフの方針で、トロツキーの支持を得ていた。党としては幅の広い無定形の党を望み、党員となるには綱領を認め、党を物質的に支持するだけで良いとするものだった。実際に党に加わって活動する必要はないとした。西欧の日和見主義的な社会民主党を模範とし、厳しい規律のない党を望んだ。


ロンドン大会で、レーニンは完全勝利することができなかったが、その後の中央委員会と「イスクラ」編集部の選挙の時にはレーニンのグループが多数を占めた。この選挙の時に、ボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)という二つの分派ができたのだ。

1905年1月までに、ロシア社会民主労働党は分裂し、この二つのグループがそれぞれ中央機関と機関紙を持つようになった。このころ、レーニンは『一歩前進、二歩後退』という著書を発表し、ボリシェヴィキを指導することになった。

メンシェヴィキは、マルトフがプレハノフとトロツキーの援助をうけて指導することになった。


[インタナショナルの干渉]


1904年のアムステルダム大会で、第2インタナショナルは一つの国からは一つの党の加盟だけを認めると決定した。このため第2インタナショナルはロシアの党の分裂に干渉してきた。1905年2月、国際社会党事務局は調停委員会を設けることを決定した。委員長はベーベルとした。この委員会設置の提案をメンシェヴィキは受け入れたが、レーニンは反対した。ドイツの党がロシアの党の分裂闘争に干渉することをレーニンは拒んだ。この問題は調停委員会ではなく党大会が解決すべきだと主張した。

レーニンのこの態度を、ドイツ社会民主党の主な機関紙「ディー・ノイエツァイト」で、ローザ・ルクセンブルグは冷ややかに批判した。機関紙の編集者であったカウツキーは、レーニン側の論文を掲載することを拒否した。この対応にレーニンは、ルクセンブルグの論文を「組織の解体と裏切りを誉めそやすものだ」と述べ、カウツキーに対しては「パンフレットのボイコットといったような聞いたこともない野蛮な機械的な策略によって、ドイツ社会民主党の出版物から我々の声をかき消そうとする企てだ」と非難した。


第2インタナショナルは、ロシアにおけるボリシェヴィキ運動が大変な政治的意義を持っていることに気が付かなかった。


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