全日本人「風雲児たち」読んでね、という話・あるいはみなもと太郎先生ご逝去によせて

※本記事は新型コロナウィルスとは関係ございません。

漫画家みなもと太郎先生がご逝去された。

今回のnoteで伝えたいことは「みんな~~~!!『風雲児たち』読んでね~~!!」以外にないのでこの一文ですべての役割は終了している。
あとはいつものブリブリと漏れ出たうんこなので適当に読み飛ばせばいいと思うよ。

おれは場末のイチ漫画読みにすぎぬ身の上であるがため、もちろんみなもと先生にお目通りしたことはないが、「BSマンガ夜話」などのメディアを通じてそのお人柄に触れ、勝手に「滅多に会わないけど話をするとスゲー楽しい親戚のおじさん」くらいに思っていたフシがある。失礼な話である。
みなもと先生の読者世代というのは多分、おれよりふた回りほど上になるんであろうと思う。代表作である「ホモホモ7」が1970年の発表で、wikiによれば連載時は高年齢層(当時の20代くらい?)から支持されたらしいので、そんなもんではあるまいかとの予測である。

余談だが、おれは「ホモホモ7」は読めなかった。
70年代以前の漫画を読もうとするとままあることなのだが、やはり今の漫画とテンポ感というか、リズムが違うのだ。
ギャグが古びるのはまあ仕方がない。「あたり前田のクラッカー」なんて今言われても何一つ面白くはないだろう。笑いというのは時代と密接に関わり合い変化していくものなので、昔のお笑いが面白く感じないのは当然のことである。いや普遍のお笑いというものもあるだろうという向きもあるかもしれないが、おれ個人の偏狭な考えを述べさせてもらえればいつ誰が見ても面白いお笑い、というものは存在しない。
ここに突っ込むのは今回の主題ではないので飛ばさせてもらう。ついでに今後、普遍のお笑いはない、というテーマについで述べることはないと言い切らせて頂く。めんどくさいから。
何の話だっけ。
えーと、ギャグが古く感じてしまうというのはおれにとってはそれ自体が漫画を読めなくなる原因ではない。原因はテンポだ、という話だ。
テンポでもリズムでもなんでもいいんだけど、要はコマとコマ、ページとページ、その間にある『間』というやつの話である。

漫画は静止した絵の連続で擬似的に時間の経過を構成するメディアである。かっこつけた言い方をした。
文字の読める賢いチンパンジーであるおまえたちにもわかるように説明すると、漫画ってアニメみてーに動かねーじゃん。代わりにコマAで描いた次に何が起きたかをコマBで描くわけ。そしたらなんかコマとコマの間で時間が流れたっぽく見えるじゃん? そういうコト。
漫画というのはまず1コマから始まり、4コマ、1ページ、数ページ、十数ページ、というふうにコマの数を増やし、流れる時間を増やしていった。そうして漫画は長大な物語を描くことのできる機能を得たわけだが、コマとコマの間に流れている時間、てものも昔の漫画と今の漫画では結構違っている。
スゲー簡単かつ雑に言っちゃうと昔のほうがコマとコマの間は流れる時間が長く、今のほうが流れる時間は短い。例外はある、何事にも。

画像2

田河水泡「のらくろ」より

画像1

久住太陽「ウマ娘 シンデレラグレイ」より

画像は引用の範疇であると思われるが怒られたら消す。

両者は共に「ウマが走るシーン」(ここ笑うところですよ)であるが、のらくろの方が1コマの間で流れる時間が数秒から数十秒といったところであるのに対し、ウマ娘はほぼ一瞬である。
この比較はもちろんネタだが、戦前漫画と現代漫画でコマ間の速度というのは時にこれくらい違ってくる、という一例だ。これを以っておれが「コマ間のテンポ」というものについて言いたいことが少しわかってくれたものと思う。え?わからん? そう・・・。
というかガニ股で馬(犬)から投げ出されるのらくらがクソほど愛らしい。たまらん。

漫画における表現技法はやれ手塚(の新寶島)以降がどうした、大友以降がどうのと言われるが、ぶっちゃけた話このコマ間のテンポに関しては生理的なものも大いに関連してくる、というかあんま時代関係ないようにも思う。
1970年代ともなればあしたのジョーはあるしドラえもんだってもう始まっている。手塚だってブラック・ジャックを始めてるし、このあたりの名作の速度感は現代漫画とそう変わるところはない。
もっとも、手塚にしろ藤子不二雄らにしろ、トキワ荘時代あたりの漫画はやっぱ今読むとちょっとテンポがだるい(面白い面白くないとは別の話だ)
横山光輝なんかも「伊賀の影丸」あたりは普通に読めるが、初期の鉄人28号なんかはやっぱりちょっと「遅い」 コマとコマの間のビート、BPMと言えるだろう。言えるのか? まあそういうことにしてほしいが、やっぱ昔と今ではBPMが違うんですよ。それが「生理的なもの」だ。
一流の漫画家は一流で天才だから時代に合わせてBPMを上げてったりできる。
じゃあおれが「ホモホモ7」を読めなかったみなもと先生は天才じゃないのか?と言われればもちろん否で、「風雲児たち」は現行で書かれたものは現代漫画の速度感で読むことができる。
時代には時代に合わせた速度があり、かつ、作家にもそれぞれの速度がある。読み手とそれが合致するかどうかは読み手の感じ取れる速度感と、いつ読んだか、という時代が持っていた速度に依るところが大きい、とぼくちゃんはおもったのだった。
おれが「ホモホモ7」を読もうとしたのはもちろんリアルタイムではなく、わりと最近の話なんで、みなもと先生が、とかおれが、とかの問題ではなく、この50年くらい離れた時間の問題なのである。
どうしても悪が必要なら俺が悪いことにしていいです。はいはいわしのせいわしのせい。

えっと、悪いんだけどここまでの話って全部余談なんだよね。いつもながら書き出すと脳が暴走して関係ないことでも全部言いたくなっちゃうんだよね。病気だよ。いいカウンセラー知ってたら紹介してくれない?

主題。みなもと先生の現在における代表作であり、晩年まで連載を続けられていた未完の大作が「風雲児たち」である。

「風雲児たち」は1979年から開始された歴史漫画だ。
テーマは「幕末」であったが、みなもと先生は幕末から明治維新に至る過程には、まず関ヶ原の戦いまで遡る必要があると判断され、関ヶ原の戦い~徳川幕府樹立から物語はスタートする。読めば確かにわかるのだ。西軍、すなわち敗者の側に立った薩摩、長州らが倒幕の旗手であったことは明白であるし、徳川治世300年の間たっぷりと虐め抜かれる薩摩武士の姿などが倒幕の原動力となったことが容易に想像できるよう描かれている。

みなもと先生は歴史とは瞬間と瞬間の連続である、と捉えられた。因があれば果があり、川の流れを論ずるにはその大本を知らねばならない。
明治維新、という日本屈指の大事変にはひとつではない、無数の契機があったことを「風雲児たち」はそりゃもうこれでもかと詳らかにしていく。本作で描かれる無数の維新への伏線にはひとつとして無駄なものはない。

「解体新書」の翻訳はのちに海外へと啓く目の契機となり、高山彦九郎、林子平らといった奇人たちは直接に維新の志士たちへ影響を与える。
涙なくしては読めない大黒屋光太夫のエピソードも「海の向こうには日本以外の国がある!」という啓蒙だし、のちのジョン万次郎の話も同じだ。

伊能忠敬、大塩平八郎、間宮林蔵、シーボルト。これらの日本史の教科書とかで名前は知ってる、とかちょっと歴史の好きな子なら何をしたかくらいは知っているレベルの人々が如何に歴史において大きな役割を果たしたか。

ぼくぐらい歴史に疎いとペリー来航まで日本はオランダ中国以外とは一切絡みがなかったと思っていたのだが、イギリスは来るわロシアは来るわ、日本人だってロシアに行くのである(漂流なんだけど)シーボルトはドイツ人だってことも知らんかったし娘がいることも知らんかった。

とかく、多くの人物、多くが事件が描かれ、それらが次代に与えた影響は何か。幕府の権勢が徐々に弱まっていく背景には如何な時代の背景があったか。1ページのムダもなく(平均1ページに一回はギャグが挟まるんだけど)丹念に、濃密に描かれていく。

1979年から始まった連載は掲載誌を変え、2020年の休載まで実に40年。ワイド版20巻に加え、幕末編34巻、54巻に及ぶ長期の大作である。
でも今の感覚からすると54巻て大したことなく感じちゃうね。まあ読んで見ればわかるけど情報量すごいんだわ。多分風雲児たち一冊読む時間で刃牙なら10冊は読めるよマジで。

歴史とは一つとして欠くべきところはない。「風雲児たち」ほどそれを雄弁に語る「歴史書」はない、と言っていい(司馬遼太郎)
故にみなもと先生の生涯を持ってしても語り終えることは叶わなかった。
なんせ「風雲児たち」では徳川慶喜は将軍になってないし、新選組も出てこない。坂本龍馬はやっと勝海舟と顔を合わせたとこだし、桂小五郎も高杉晋作も頭角を現す前である。「風雲児たち」はみんなが知ってる幕末、にとうとう到達し得なかった。

では本作はだめなのか?つまらないのか?と言われればNOである。
先に述べたとおり、歴史とは過去の積み重ねだ。「幕末」や明治維新に至るまでに何があったのか、何が契機となって本邦一の大事変は起こったのか?それを詳しく知る人間がどれほどいようものか。
「風雲児たち」は歴史群像劇である。とにかくすごい数の人物が入れ代わり立ち代わり登場しては退場するが、どれも活き活きと描かれている・・・とかつまんねえ講評みたいなこと書いちゃうけど、端的に言えばキャラが立ってるわけよ。
おそらく本作中最もキャラ立ちしてるであろう吉田松陰のイッちゃってる感(目も原作のコロ助みたいにロンパってる。ロンパってるってわかんない?ググれ)といい、高野長英、間宮林蔵あたりのクセの凄さ。
渡辺崋山のように善なる人が弾圧されていく悲劇もあるが(というか作中でクローズアップされる多くは悲劇の人物が多いのだが)キャラを追いかけていくだけでも十分読めてしまう。扱っている題材の骨太さ、複雑さを感じないほどスッキリと読めてしまう超一流の漫画家の仕事だ。
作中のギャグが非常に時代性とリンクしているものが多いのが玉に瑕だが、ワイド版には「ギャグ注」なる古びてしまった昔のお笑いを丁寧に解説してくれるおまけが付いてるので勉強になるぞ(なるぞじゃないが)
幕末編ともなるとネタが新しくなって「魔法少女まどか☆マギカ」とか艦隊これくしょんのネタなんかも入ってくるので・・・って十代あたりにとったらこの辺も古典の範疇に入ったりすんのかしら・・・。歳は取りたくないものじゃて・・・。老いたな・・・そのように醜く老いさらばえた貴様を見たくなどなかったぞ・・・。

面白いんですよ「風雲児たち」は。
現代にも通じるテーマ性がミチミチと詰まってる。
長く続きすぎてすっかり腐ってしまった幕政は甘い汁を吸い、他者を蹴落とすことしか頭にない政治家を無数に産み、善良なる人々は悪に立ち向かい、多くは敗れ、わずかに残った善なる人は次の世代への種を蒔く。
いや、現代には通じませんかね。なぜなら現代には悪に抗する善なる人などいないのだから・・・(これはウルトラセブンの「我々人類は今、宇宙人に狙われる程、お互いを信頼してはいませんから」のパロディですね)
作中にもこうあります。
「悪は孤立して栄えることは決してありません 見て見ぬふりをする人間が増えた時に悪はどこまでものさばってゆくのです!」
(ワイド版15巻より)
みなもと先生はまた、史上の人物を評価する基準として、特に政治家に顕著なのですが「弱者の味方」だったかどうかを重視していらっしゃるようでしたね。
徳川秀忠の隠し子で会津藩主として善政を敷いた保科正之などが挙げられるでしょう。保科正之のエピソードは誕生も含めてドチャクソにエモエモのエモなのでみんなぜひ読んでほしい。
というか「弱者の味方」であることを除いても、先生は時代の主流の考えに疑問を持たず、杓子定規に慣習や慣例に従う人物を良しとせず、自分の頭で考え、行動し、自らの規範を作り上げる人物を是としていたと思うのです。


で、そろそろ前から何となく書きたかったことに移るんだけどさ。
まだ書くのかって? まだやるよ。

君がッ!泣くまで!書くのをやめないッ!

みなもと先生の訃報を聞いた時、不謹慎にもこう思っちゃったんだよね。

「誰か別の人が続き書いてくんねえかなあ」って。
すぐにその考えは打ち消した、というより、誰が描くんだ?としか思えなかった。絵といい、ギャグといい、「風雲児たち」を継ぐにふさわしい作家は簡単には思い浮かばなかった。

というかほぼすべての、といっていいと思うが、漫画は作者本人以外には描けないと思う。理由はやはり、先述のテンポ、リズムである。
コマ割りは多分にテクニックであるが、どれだけ絵が似てもコマ間のリズムは絶対に似ない。どれだけ消しても滲み出てくるものこそがその人の個性である、というが個人的には「間」こそ個性の最たるものではないかと思う。

そうでなくてもネーム、セリフなどは感覚に依るものが強く、これも消すことの出来ない個性であろう。
おれは故ちばあきお先生の「キャプテン」「プレイボール」が大好きなのだが。
https://www.chibaakio.jp/
最近コージィ城倉先生が「プレイボール2」「キャプテン2」描いてるじゃん。
http://grandjump.shueisha.co.jp/manga/playball2.html
いや絵とかメチャクチャ寄せてるっつうかかなり完コピに近いと思うんだけど、やっぱリズムがちばあきおじゃないんよ! コージィ城倉なんよ!
台詞回しとかやっぱコージィ城倉のクセなんよ! 谷口くんが凡田夏之介なんだわ!
コージィ城倉先生はやっぱ超一流の作家だと思ってんだけど、だからこそか個性が滲んじゃうんだよ。それが「ちばあきおのプレイボール」を期待して読むと、違うッってなっちゃうんだわ。いやまあコージィ先生はだいぶクセ強いほうの作家か・・・。

もう少しクセのない方で行くと「ドラえもん」とか今は(映画のコミカライズなど)元チーフアシのむぎわらしんたろう先生が手掛けてるじゃん。
最近の作品なんかは藤子不二雄オタクのおれから見ても違和感の少ない絵になってるんだけど、やっぱな!なんかな!超失礼なこと言ってるの承知で申し訳ないけど!ちょっと違うんだよな!すいません先生!
おれのようなオタクなんかどうでもいいんで、先生ドラえもん頑張ってください!応援してます!マジで!

ドラゴンボール超とかもそうね。悟空はメチャクチャ似てるけど、「鳥山明のドラゴンボール」ではない。まあ鳥山明は世界一絵が上手くて死ぬほど漫画が上手いので他人に描けっつうのが無茶なんだよな・・・。

てか他人に描かせる続編とかスピンオフって「絵をそっくりに描く」て方がレアケースだったじゃん。聖闘士星矢とか、進撃の巨人とか。
多分「カイジ」のスピンオフである「トネガワ」「ハンチョウ」あたりの成功があるせいなのかもしれんが・・・。

「風雲児たち」の続きはみなもと太郎先生にしか描けないなあ、と思ったのでしたというお話だ。

「風雲児たち」はNHKでドラマ化もされている。
https://www.nhk.or.jp/jidaigeki/fuuunjitachi/
脚本はみんな大好き三谷幸喜だ。おれは映画を撮るようになってからの三谷はあまり好きではない。
DVD、ブルーレイでソフト化されているのでレンタルとかあれば見るといい。蘭学事始編は「風雲児たち」序盤の長編で名エピソードなので、多分ドラマも面白いんじゃない?知らんけど。見てないから。

というかNHKは「風雲児たち」を大河ドラマでやる・・・のは絶対に無理!だから、N教(Eテレっていうんですよ今は)でアニメ化してくんない?
三年位かけて。監督は水島努で。ガルパン終わってからでいいから。

最後に。
おれは「風雲児たち」の続きが読めないことがとてもつらい。この文章は全てそのつらさを怒りに変えてキーボードに叩きつけた怨念であり愛と怒りと悲しみのシャイニンフィンガーソードである。
現在、ちょうど同じくらい続きが読みたくて悲しくてつらかった「ゲッターロボアーク」のアニメが放送されている。
どんなに出来がアレでもいい、あなたたちの思う「でたなゲッタードラゴン」の続きをおれに見せてくれ。

誰しもが、道半ばに終わった作品の続きを夢に見る権利があるのだから。
そうでしょう早乙女博士!
ワシの敷いたレールも最後じゃ!!あとはお前たちの手で切り開け、人類の、未来を!!

オワリ

忘れてたので追記。
マンガ図書館Zで「宝暦治水伝 波闘」がまるごと読めるのでリンク。
https://www.mangaz.com/book/detail/43421

これはワイド版3巻に収録されているが元々は「1996年3月31日に「財団法人・河川環境管理財団」によって発行された、みなもと太郎先生の治水事業PRマンガ」とのこと。(引用元https://kenakamatsu.hatenablog.com/entry/20120913/p1)

同じ題材を平田弘史先生が描いたのが「薩摩義士伝」である。断じてひえもんとりの漫画ではない。見比べてみるのも面白いかもしれません。コアなマンガマニアしかやらないと思いますが。

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