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納井豆信 vs 納井豆信【幽霊船日記】

・六月になっているじゃん!ということはそろそろ梅雨がやってくるのか。私の基本的な移動方法は自転車なので雨が大変困る。昔、自転車乗る時専用のレインコートを買ったけど、なんか使わなくなっちゃったな。着る手間と、脱ぐ手間が私には重く感じた。とくに雨に濡れたレインコートをたたんで収納する手続きがどうもうまくできない。布(?)生地に施された表面コーティングによって微妙に固く、また、外出先で畳むとなると空中でその行為を行わないといけないので、手間取るに手間取って全然コンパクトにならないびしょびしょの塊を抱えることになる。だから着なくなった。他の人はどうやっているんだ。

・雨と言えば。私が洗濯物を干そうとすると決まって雨が降っているというジンクスがある。ここ数週間はずっとそうだ。今コレを書いているときもそうです。雨降りのせいでバスタオルが生乾きになっている。ちゃんと天気予報見て洗濯の予定を立てなさいという指摘はもっともだし、私もそう心掛けているのだけど。雨が降っているんですよね。逆に言えば、私が服を干そうとすると雨が降るわけなので、俺の洗濯サイクルを紐解けば天気の動向を知ることができる。非効率だし、天気予報を見ろや。


・オススメされてからはまりに嵌っている。すごい。知らない名前の女の子が、自分と全く同じ姿の何者かと戦っている曲。タイトルが秀逸ですよね。ボカロの曲のMVには女の子が描かれがちだけど、基本名無し、または曲のテーマにあった「キャラクターの名前」なことが多い。「東別院カナ」という名前はアイコニックでもなく、一般的な名前ではないがフックとしては弱いライン。もしかしたらこの世のどこかに存在しているのでは、と思わせることで曲から漂う不穏な空気がよりリアルに伝わってくる。これがたとえば曲にからめて「金剛調ゾン美」とかになっていたら現実感は失われる。東別院カナ、良い名前ですね。

・ひたすら名前を考えるコミュニティにいるせいで、創作上の名前にちょっと敏感になっているかもしれない。言葉から「作者が伝えようとしていること」を受け取ろうと無意識に態度を整えてしまう。名前だけでなく歌詞や短歌などの、限られた文字で表現する創作は「不完全」であることが魅力だと思う。伝えたいことは直接言葉にすれば間違いなく伝えられる。しかし、あえて文字を削って、表現を遠回しにして、不親切な形になって受け取り手に伝わってくる。そのため、作者の伝えたいことは歪んで、取りこぼされて、剰え失われるかもしれない。しかしその欠陥こそが想像力をかき立てるし、受け取り手によって違う印象を与えることができる。

・端っこが無いジグソーパズルみたいなものかもしれない。普通のジグソーパズルは凸凹が三つや二つしかない四辺から確定させていき、徐々に内へ内へとピースをはめていく。小説はこっちだろう。外堀から埋めていき、クライマックスにパズルの全貌が明らかになる。一方、歌詞などの限られた言葉の創作は端が無い。バラバラな全体をざっと見て、絵柄が似ているものを寄せ集め、勘で当てはめていくしかない。サイズも分からない。分かるのはなんとなくの色合いだけ。なんと不親切なんだ!

・納豆を食べた。納豆の一口目はとても美味しいのに、なんで途中からいまいちになるんだろうと考えていた。多分だが、温度が関係しているんだろうと結論付けた。一口目はまだ納豆が冷蔵庫から出したてでちょっと冷たい。しかし、食べ進めていくとごはんの熱によって徐々にあったまっていく。納豆は冷たい方が美味しい気がする。これって共感される感覚なのだろうか。納豆の温度について人と話すことがないから分からない。

・そういえば、幽霊船日記をマガジンにまとめてみた。そろそろ50記事になるらしい。一日一つのペースであれば二か月で書ける量なんだ。なんか少ない気がしてきた。

・baba is youをちょっとずつ進めている。kekeかわいい。ぬいぐるみ買おうかな。

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