後出しの処方箋【幽霊船日記】

今現在、エッセイの本を読んでいて、それは20年も前の出来事や心情が書かれているのに、どうして当時の様子を仔細に書き記すことができるのだろう、と思わずにいられない。人間の脳はまあそれは容量だけ高性能なのだが、検索性がクソであり、欲しい時に関係のない在庫を持ってきて、全く思考の外であるものが配達ミスで届けられる。時には配架ミスしていることもある。不便としか言いようがない。

メモがなければ思い出せない。火種がなければ火事は起きない。
だから日記が必要なのか。

日記というのは記憶を二つの面から固形化する。舗装とランドマーク。
舗装。日記を書く上で、私は過去の出来事を再解釈を行う。見落としていた情報をしっかりと考えで踏み固めていく。あれこれこういう行動をしたが、その動機はこういったもので、その結果私は何かを得て、こう感じたのだった。理論づけ、道を作るように、道に迷わないように、現実を言葉に直していく。その作業によって体が覚えていくのだ。
ランドマーク。看板を作ること。これは思考の癖のようのものだ。ある出来事が起きた時、そこから想起する内容はひとによって異なるだろう。私が「鳴き砂」と聞いたら「らき☆すた」を思い出すように、意外なところで脳のシナプスはつながっている。それは、遠くからも見える高い高い塔のようなもので、そこから発せられる特定の波長は電波障害を起こして無関係な受信機に作用する。その塔を作るのだ。日記は、私みたいなレトリックで包まれた人間が書くと、どうしても曲がりくねった表現であふれてしまう。ほんま、なんで俺はランドマークとかいう微妙に分かりづらい比喩してんねん。とにかく、日記を書くと塔、キーワード、特徴的なトリガーが生成される。すると、ふとした時に思い出すきっかけになるわけだ。

つまり何が言いたいの。
日記はただの過去の出来事が陳列した記録なんかじゃなくて、それはずっとつけっぱなしの機械で、過去と現在をずっとつなげてくれている。

なんで思い立ったように久しぶりに日記を書いてんのよって、それは最初に言ったエッセイを読んで、文章が書きたくなったからだ。なぜか参ってしまって形を保った現象のようになっているので、言葉にして抽象度を下げて、ちょっとしたことで気を紛らわしたかったのだ。ぐちゃぐちゃな地面よりきれいな道の方が歩きやすいじゃない。良いか悪いかは置いといて、言語化は心をすっきりさせてくれるので、健康にバフを与えてくれる。

で、健康になったんですか?
一晩寝たら回復しました。一過性の鬱だったようです。最初の方は鬱いだ時に書いたんですが、普通に放置しちゃって、平生の私を取り戻してからコレを書いています。意味ねえな。

文章を書くのは楽しいですね。さっきも言ったんですけど、私が文章を書くと場違いな喩えとかこだわりのある読みづらい主述関係の文とかにまみれちゃって、読者を一方的に表現で殴ってしまうのですが、私が書く表現は私が好きなものばかりなので気持ちいい。リズムゲームです。脳から流れてくるノーツをタイミングよくタイピングしています。舞台杯の文章とかね、俺が好きな言葉だらけで「ああ~俺だな~~」と思いながら読み返してました。

口調が変わってきた。
このあたりで止めておきます。


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