スター性の話

先日、家族で「アメリカン・アイドル3」を見ていた。ずいぶんなご長寿番組だ。今の審査員はライオネル・リッチー、ケイティ・ペリー、あとルーク・なんとかというカントリー歌手。あの有名な怖い人(サイモン・コーウェルというらしい)はいなくなり、ずいぶん穏やかに審査をしていた。見るからにヤバそうな奴、イケメンで歌も上手いけどやたら自信過剰な奴、テンションが高すぎて周りを置いていく奴、など様々な参加者が現れるが、罵倒することもなくうまく扱っている。ライオネル・リッチーの顔のデカさに爆笑したり、過剰なヤラセ感をボヤいたりしていたら、1人の参加者がふっと目に留まった。

ネパールから夢を追ってアメリカに来たという青年は、浅黒い肌にパーマがかった黒髪、チェックシャツに黒のジーンズ。ひょろりと背が高い。少し訛りはあるが、英語はきれいだ。何より印象的なのはその目だった。真っ黒で澄んでいる。哲学者のような深淵と、子供のような純粋さを同時に感じさせるといえばいいだろうか。

「お、この人なんか凄そう」

両親も私と同じ感想を抱いたらしく、身を乗り出した。はにかみながら会場に現れた彼は、素朴な雰囲気のままギターに手をかける。

そして披露したボブ・ディラン、ちょっとかなり凄かった。その細い体から放たれているとは思えない、獣の咆哮にも聞こえる歌声。それでいて無理のない伸びやかな雰囲気がある。刹那的で激しくてワイルドだ。歌う時白目になっちゃうところも没入感があって良かった(そのあと指摘され、きちんと直せていたのもすごかった)。

審査員は大興奮。「君は紛れもないスターだ。来てくれてありがとう」という最大級の賛辞と共に、ハリウッド行きのチケットを手渡した。このあとどうなるのか、目が離せない。しばらく毎週見てしまいそうだ。

よく考えると「スター」って不思議な言葉である。「芸能人」とか「俳優」とか、そういう職業的なカテゴリではないと思う。カリスマともなんか違う気がする。前置きが長くなったけど、このスター性について今回はつらつら書きたい。

本物のスターとは、「自分はスターである」とか「注目されたい、輝きたい」みたいなエゴが全然ない人と私は勝手に定義している。まあもちろん、歌やダンス、演技などに従事する人が「スター」と呼ばれやすい以上、「いや表舞台に立ちたい人じゃん」と思うひともいるかもしれないけど、単純に表現することが好きが先行してるというか。まあ星って、自己意思で光ってないもんね、、そういうことなのかな、、

「カリスマ」は正反対だと思う。彼らは自ら光ろうとして光っているし(本能的であっても、後天的であっても)、その術があって初めて輝きを放つ。

例えばサッカー選手のクリスティアーノ・ロナウドはよく「スター選手」と形容されるが、彼の揺るぎない自信が磨き上げられた体躯(もちろん競技用だが、魅せる側面も少なからずある)、白い歯、眼光、話し方、そういったものに見事反映されて、圧倒的なオーラを放っている。これは「カリスマ」じゃなかろうか。

スターは本当に、全身しまむらで猫背でもなんか光ってしまうのだ。だからカリスマより優れているとか、そんなことは全くないのだが。しかし、Niziプロジェクトで餅ゴリ御大が「カリスマ性」でなく「スター性」を候補に入れていたのは正しい。彼が探していたのはノーメイク、Tシャツにジーンズで現れてもキラキラが溢れてしまう女の子。原石ってやつですな。

スターにのみ、「原石」という概念が存在するんだと思う。カリスマの原石。うーん。俳優とかは「卵」だしね。磨けば絶対に光る、という期待感が込められる人のことを、スターというのか。卵は全て孵化するとは限らない。カリスマというのは完成されている人のことなので当てはまらない。ふんふん、いいぞ、解像度が上がってきたぞ…えでも待てよ、これみんなにとってはめちゃくちゃ当たり前のことなのではないだろうか!?バカの巨大独り言をかましてしまっているのか私は、やっぱ深夜はダメだな…



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