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マンガの配信の歴史 前編 (マンガの誕生〜週刊少年誌の台頭)

未来を作る為に、まず過去を知る

by RECOMAN

こんにちは。株式会社RECOMANのCMO兎来と申します。
CMOは一般的にはChief Marketing Officer(最高マーケティング責任者)ですが、弊社においてはChief Manga Officer(最高マンガ責任者)です。

現在RECOMANは、
「マンガの力で世界を変える」
というヴィジョンを持ち、
「人生を変えてしまうような、人とマンガの出会いを一つでも増やす」
「世界中の人々が、マンガを読める・描ける世界にする」
というミッションに挑むため、新しいマンガアプリ「RECOMAN」を開発しています。

そんなRECOMANにはどんなメンバーがいて、どんなことを考えているのかを知っていただくためにこのノートを立ち上げました。

今回は、コアメンバーであるCEOの細川とCMOの私による対談形式で、「マンガの配信の歴史」というテーマについて全3回で語っていきます。



マンガの始まりはどこから?

細川
今日のテーマは、マンガの配信についてです。
配信と言っても、雑誌を始め、色々な形がありますよね。

兎来
ええ。紙の雑誌に始まり、最近はWEB雑誌的なものや、アプリなどもあります。

細川
まずはマンガそのものの歴史を追っていきますか。
いわゆるマンガという形で普及したものは、『のらくろ』が始めなのかなと認識しているんですが、どうでしょう?

兎来
『のらくろ』の前にもいくつかありまして。
本当にその大元をたどっていくと、「絵巻物」にたどり着くっていう説もありますね。

細川
なるほど。そこらへんは、諸説ありそうですね。

兎来
『鳥獣戯画』が元祖という認識の方も多いですね。
ただ、それより前にも絵巻物という形式で描かれていたものがあったと、みなもと太郎さんなどが指摘されています。
奈良時代の『絵因果経』が現存する最古のもので、絵巻物の原型と言われていますね。

細川
なるほど。
ただ、ルーツを語るには、それが現在まで繋がっているかも大切な観点ですよね。

『鳥獣戯画』が重要なのはわかりますが、じゃあ『鳥獣戯画』が今のマンガ文化にどう繋がったんだっけ、というところはちょっと気になりますね。

絵物語からマンガへ

兎来
はっきりとした繋がりという意味でいうと、大正時代に岡本一平という方がいます。
その方は絵物語なども描きつつ、漫画家としても知られている最初期の人なんですよね。

細川
大正時代にまだ絵物語を描いている人がいたんですね。

兎来
黎明期の『サンデー』や『マガジン』には、本当に色々なものが載っていたんです。
その中の絵物語的な形式のものが、現在のマンガの一つの始まりのようです。

細川
例外としてセリフのないマンガもありますが、基本的にはセリフと絵がセットになったものがマンガだと思います。
絵物語をベースに、岡本一平さんは吹き出しみたいなものもやったということですかね?

兎来
吹き出しマンガについては、海外ではもう少し古くから事例があるようなんですが、実は日本では2023年がちょうど100周年と言われています。

樺島勝一さんの『正チャンの冒険』というマンガが吹き出しマンガの元祖とされ、1923年から連載が始まっています。
(樺島勝一さんは、荒木飛呂彦先生の初代担当編集である椛島良介さんの祖父)

一番最初は『アサヒグラフ』という雑誌や『朝日新聞』などに載せていたそうです。

細川
100年前に、今のマンガの基礎がもう出来上がっていたんですね。

手塚治虫の登場、雑誌と貸本

細川
100年前の1923年に吹き出しのマンガが出てきて、『のらくろ』は何年ですかね?

兎来
『のらくろ』が1931年でした。

細川
そこから第二次世界大戦(1939年〜1945年)が始まるんですね。

兎来
そうですね。そして戦後に手塚治虫さんが出てきて。

細川
『のらくろ』は博物館などで本になっているものが置いてありますが、貸本が基本だったんですかね?

兎来
『のらくろ』は雑誌に連載されていました。
『講談社』が当時『大日本郵便会』という名前だったんですが、そこの『少年クラブ』という雑誌に連載されてたんですよね。

細川
でも当時って紙が今より高いじゃないですか。

兎来
高かったと思います。
雑誌は、1935年ぐらいの時に50銭だったそうです。
今でいうと、1000円ぐらいですかね。
子供がお小遣いから1000円出せるかというと、高いものではあったと思います。

細川
子供には高いですが、思ったより安いですね。
逆に言うとそれで採算取れてたんですかね? 紙の質が悪かったとか?

兎来
発行部数は多かったみたいですね。
1936年の時点で75万部くらいだったらしいので。

細川
その段階で雑誌という配信形態は確立していたんですね。

兎来
そうですね。日本においては。

細川
どっちかというと戦後が一番お金がなかったんですかね。
一回そこそこ日本にも豊かな時があって、第二次世界大戦がやってきて。
まさに『のらくろ』とか手塚先生が戦争に巻き込まれているわけですよね。

戦争から戻ってきて、手塚先生が描いたのが『新寳島』とかですか?

兎来
そうですね。
1946年に、少国民新聞(現・毎日小学生新聞)の『マアチャンの日記帳』でデビューして、その後に『新寳島』や『火星博士』などを描いています。

細川
雑誌の前には貸本があるというイメージがあったんですが、そこはどうなんでしょう?

兎来
戦後から1960年代前半は、貸本文化が発展していました。
そこで、様々な才能が花開いていきました。

1959年に『サンデー』と『マガジン』という週刊誌が発刊され始めます。
今のようにマンガばかり載っているわけではなくて、雑誌の中にあくまでちょっとだけマンガが載ってるみたいな形でした。

雑誌 ⇛ 戦争 ⇛ 貸本 ⇛ 雑誌(週刊誌)
という流れですね。
戦争によって雑誌から貸本主体になった時期があったようです。

細川
京都国際マンガミュージアムで、当時の貸本を見ましたよ。
中身は見れなくて、表紙だけなんですが、エログロ系も多かったみたいですね。
女性の妖怪が、妖怪なんだけどちょっと色っぽい、みたいな。
小難しいものよりも、わかりやすいものがやっぱり受けていたのかなと。

そしてそこから手塚先生の作品などを筆頭にマンガの文化がどんどん高度化していくんですね。

トキワ荘

細川
手塚先生といえば、トキワ荘の話も外せませんね。
時間軸で言うと、いつ頃でしょうか?

兎来 
トキワ荘ができたのが1952年12月で、手塚先生が入居したのが1953年ぐらいですね。
作品としては、『リボンの騎士』、『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『ぼくの孫悟空』、『冒険狂時代』、『ロック冒険記』などを書いていた時期ですね。

手塚先生は元々八百屋の二階に下宿して描いていたらしいんです。
ひっきりなしに編集者などが出入りするので八百屋の人に「もう勘弁してくれ」と。

トキワ荘は、加藤謙一さんという方の存在が大きいです。
戦前から『少年倶楽部』という雑誌の編集長を務めていて、戦後は自分で学童社という会社を起業して『漫画少年』という雑誌を立ち上げた方なんです。

その加藤謙一さんの息子さん夫婦がトキワ荘に住んでいて、入居したらどうかと。
そこからトキワ荘の歴史が始まっていって、加藤謙一さんや、トキワ荘のリーダー格だった寺田ヒロオさんの求心力もあって、すごい才能が集まっていった。

細川
そんな経緯があったんですね。

兎来 
藤子Aさん、藤子Fさんが『新寳島』を見て、なんてすごいものがこの世の中にあるんだと感動して、『漫画少年』に投稿したそうです。
石ノ森章太郎さんや赤塚不二夫さんなども同じく『漫画少年』に投稿していた。

ただ、トキワ荘には入るためには、試験みたいなものもあったみたいです。
マンガ家として優秀な人で、人間的にも最低限の協調性がないと集団性活にそぐわないと見なされて入れないという。

締め切り間際になると、お互いにお互いの原稿を手伝ったりとかもしていたそうなのでやっぱり協調性も大事だと。

細川
すごい話ですね。

兎来
そこに、水野英子さんや『恐怖新聞』とか『空手バカ一代』のつのだじろうさんなども加わって。
一緒に生活しながらマンガを描いたり談義を交わしたり、そしてたまには飲んだりして色濃い青春時代を送ってたんでしょうね。
いいですね。

細川 
やっぱり漫画家先生同士の交流も大事ということですよね。

兎来 
大事ですね。
やっぱり漫画家の方ってどうしても孤独な作業になりがちなので、すぐ近くに一緒にずっと戦ってる人たちがいるっていうのは刺激にもなりますし、いいですよね。

少年誌の台頭とサブカル路線

細川
元々、三大少年誌は、『マガジン』『サンデー』そして、少年画報社の『キング』ですよね?

兎来
ええ、1959年に『サンデー』と『マガジン』、1963年に『キング』ですね。
『ジャンプ』と『チャンピオン』は10年ぐらい後ですね。

今でこそ『ジャンプ』が一番強いですけど、『チャンピオン』が一番人気だった時代もありました。
割と大人も楽しめる作品が多く、実は『ジャンプ』よりも先に200万部に到達しています。

細川
『ブラックジャック』や『ドカベン』が原動力ですか?

兎来
『がきデカ』や『キューティーハニー』、『750ライダー』、鳥山明さんにも大きな影響を与えた鴨川つばめさんの『マカロニほうれん草』などもありました。

細川
『マカロニほうれん草』かぁ。なるほど。

兎来
かと思えば萩尾望都さんが描いていたり。
荒木飛呂彦さんが影響を受けた『バベル2世』なども『チャンピオン』で。
『恐怖新聞』や『魔太郎がくる!』や『エコエコアザラク』などは、ホラーブームだった時代にも合っていましたね。

細川
雑誌『COM』はいつぐらいの時代なんでしたっけ?

兎来
『鉄腕アトム』のアニメの後なので1967年くらいですね。

細川
そのころにはもう花形の雑誌とは別路線で、そういうサブカル的なものもあったと。

兎来
読んでみるとそのころ既に
「最近のマンガはもう大衆に迎合しすぎて面白さを失ってる」
みたいな評があったりして。

先に出た『ガロ』に対抗して、しっかり大人の鑑賞にも堪えるマンガを我々は作っていくべきだと手塚先生が立ち上げたそうです。

細川
『COM』とか『ガロ』は伝説ですもんね。
そこら辺はやっぱり雑誌だけでは黒字にできなくて、単行本モデルだったんですかね。

兎来
雑誌の部数もそこまで出ず、かといって単行本の売上も芳しくはなく苦労したと聞きます。

細川
言ってしまえば、文化の下支えみたいなポジションだったんですかね? 
でもそういうもののがなければ、『ブラックジャック』みたいな作品も出てこなかったかもしれないですね。

兎来
そうですね。

細川
長くなってしまったので、前半はここまでとしますか。
次回は、『ジャンプ』の全盛期から話しましょう。

中編に続く

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