浮世に浮かれよ

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ほんとに(一部の)スポーツ選手ってやつは自分のことしか考えられない奴が多いとつくづく思う。

東京五輪の時の体操の内村にしろ、自分たちの権利ややる気を主張するばかりで、その裏で亡くなって傷ついてる人の事は想像できないのだろう。

国民に不安や不信感を与えても試合に出たい、五輪をやりたい、という図々しさは尊敬に値する。

私はスポーツが嫌いだし、スポーツを見ない立場なので出場しようがしまいがどうでもいいが、

唯一フィギュアスケートだけは私の中でスポーツというより芸術という立ち位置に近く、羽生選手目当てで見る事が多かった。

だけどやはり今のウクライナ侵攻を見ていたらロシア勢が出て、そして優勝し、プーチンを喜ばせる事には不快感以外の何者もない。

新たに北京五輪で締め出し食らったロシア関係者側が猛反発しているらしいが、ロシア各地でもデモが起こっているような事なのになぜスポーツ関係者に関してはそんなにも自分達の権利ばかり主張するのか。

こっちだって巻き込まれた側なのに小麦粉も高くなるし電気代も跳ね上がるけど、そんな事今戦ってるウクライナの人々に比べたらどってことないから我慢する所存だ。

当事者国なのだから試合に出れない事くらい甘んじて受け入れるべきである

ロシア人を非難しているわけではない。人の痛みや心情を理解しないスポーツ関係者を非難しているのである。

大体スポーツスポーツって、何の為にやるのか。人の心に余裕がある時は楽しめるかもしれないが、有事の際にやらないといけない事とは全く思えない。

こんな状態でのんびりスポーツ鑑賞なんてやってる場合なのか。

年がら年中体を鍛えて来る日に備えて練習を重ねているスポーツ選手からしたら一大イベントなのかもしれないが、私のような一般人からしたら「それがどうした」てある。

彼らはスポーツで人々に勇気を与えられると本気で思っているのかもしれないし、「国民のために頑張りたい」なんていう発言もチラホラ出るが、もはやその考えが自惚れに近い。

音楽家や画家が「人々の心に勇気を与えたい」「国民の為に」なんて言っているのは聞いたことがない。

それがスポーツ選手になると、「人々の心に勇気を与えたい率」は跳ね上がる。

国を背負っているのだから、国の代表なのだから、という意見も確かにあるのだろう。

但しそれなら単純に「国」を「国」とひとまとめにして欲しくないのである。
背負っているのは国ではなく、「人々の心に余裕がある状態のみに限られたそれも一部の日本国民」の期待であって、大半はどうでも良いと思っている。という事に気付いて欲しい。

まぁそれがコロナの東京五輪開催するか問題の時に顕著に現れたと思う。国民の半分以上は反対していた。当たり前である。

スポーツ選手から勇気なんてもらわなくても私たちは普通に頑張って生きている。

そんなことより身の危険や、今まさに残虐に殺されている方々の思いに寄り添うことが優先である。

となるともう、そんな状態でも自分たちの権利を主張するスポーツ選手は本当に己の事しか頭にない奴なのだとレッテルを貼られても文句は言えまい。プルシェンコに至っては虐殺犯のプーチンを支持している。

もちろん全てのスポーツ選手がそうだとは思っていない。実際ウクライナ侵攻に勇気を持って抗議している選手もいるし、東京五輪の時だって、コロナをどうにかするべきだ、という意見の方もいた。

人々の神経を逆撫でする一部の選手、関係者のおかげでスポーツ選手全体が「そう」なのだと思われるのは可哀想でもある。

早く何の問題もなく呑気にスポーツを楽しめる時が来て欲しい。そんな平和さえ戻ってきてくれれば、「人々の心に勇気を与えたい」発言が愛おしくすら感じるだろう。




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