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勃記(2021/5/12 神奈川県Y市)

 レジ打ち中いまだに所謂アベノマスクを付けた老人がやってきて思わず笑ってしまった。笑った、とは言っても声をあげて笑ったのではない。心の中で嘲笑したのだ。もし嘲笑で声が上がるとしたらそれはどんな笑い声だろうか。
配布が為され既に一年を越えるアベノマスクは路上の吐瀉物を思わせる黄茶色に変色し、洗濯を繰り返したらしく老人の大きく歪なじゃがいものような顔に見合わぬほど縮んでしまっている。ただただ気持ちが悪い。プラ板の障壁がレジに付いていなかったらと考えるだけでゾッとしそうだ。恐らくこの老人は知的障碍者、それも定型と非定型のちょうど狭間に位置する俗にボーダーと呼ばれる部類の人間であろう。マスクを含めたその身形は正常な思考能力の持ち主とは思えないが逆に親であったり施設であったりといった保護者がいるとも考えづらい。恐らく黄茶色のマスクを咎められない程度には人と関わる必要の少ない単純作業の業種に勤め生計を建てているのではないか。

俺は、そんな、己に生まれながらにして纏わりつくそれを障壁と捉えられているかさえ怪しい認知でありながら保護者の後ろ盾がある様子もなく、ただでさえ散々批判され尽くしたマスクを本来の機能があるか怪しいほどに縮み明らかに健康に影響を及ぼすほど変色しきってしまうほどに使い続ける老人の姿を見て、嘲笑してしまったのだ。


 次に来た客は恐らく大学生だ。モンスターエナジーに菓子パン2つ、まさしく大学生といった取り合わせではないか。しかしここのところ大学生(もしくは大学生と思わしき人間)を見るたび、自分がほんの2か月前まで同じ肩書きを持ち合わせていたとは思えない、全く別世界の住民のような感覚になる。
思えば自分がここでレジを打ち始めてからもうすぐ5年が経つ。実家と今住んでいるアパートの間ほどに位置する〇〇〇〇駅の改札を出てすぐに位置するこのスーパーで働きはじめたのは高3、進学が推薦で決まってすぐの事だった。とりあえず実家に居るうちに始められて大学生になり一人暮らしをしてもしばらくは続けれる位置にあるというだけで選んだ場所であったので、なんとなくそのうちサークルやゼミや就活が忙しくなったりしてやめるものだと思っていたが結局4年間続けるどころか卒業した今もなお就活に失敗したこともありシフトを週5に増やし働き続けている。思えばそれもそうだ。サークルは当初3つ掛け持ちしたものの結局面倒さが勝り最後まで籍を置いていたのはついぞ過去問共有にしか顔を出さなかった学術サークルのみであったし、推薦枠が余っていて実家を出れる場所にあるという理由のみで選んだ大学でバイトをやめるほどゼミやら研究に打ち込めるはずもない。就活は先程失敗したと述べたが実際のところ失敗したなどと言えるほど打ち込んでおらず、ただ昨年のコロナ禍のせいで失敗したと両親に言い訳していたものがいつのまにか自分でもそう思い込みはじめているというだけのことだ。

「××くん、中山さんとレジ代わって」
突如思考が遮られた。社員のババアだ。2年前店長が異動になったことに伴い社員も入れ替わりがあったがこのババアだけは何故か変わらなかった。この店で唯一俺以上の古株だ。
ちょっと裏来て、と言われ2人で荷運び用の通路へと向かう。力仕事だろうか。
「あのさぁ、ちょっとレジ遅いよ」
「今の時間一番お客さん多いのはわかってるでしょ?それで1レジなんだし回ってないなら応援呼ぶとかあるでしょ?」
「もう4年?5年?なんだからそこら辺はわかるでしょ?いつも遅いけど今日は特にひどい」
「休んだり遅刻したりしないから今大目に見られてるけど、今だからあれだけど前の店長クビにしようとしてたんだよ 意識して」
あまりに唐突なことで、いやおそらくババアからしたら唐突ではなく連続性のある事なのだろうが、とにかく言葉は聞きとれるものの何を言っているのかわからなかった。しかし言葉を発するごとにどんどんと抱えていた不満を噴き出し最初は少し機嫌が悪い程度だった顔が怒り心頭、と言った様子に変わってくるところを見ていると、全ての意味を理解し、俺は
「アハハハハハハハハハハハ、ハハ、ウハハハハハハハハハハハハハ」
と、声を上げて笑った。
なぜか頭にあったのは「なるほど」という言葉だった。

気付くとババアのツラは怒りから困惑と恐怖が半々といったものに変わっている。何が起こっているかはわからないがこの後何かしら恐ろしい事が起こる、そういう風に感じているのだろう。
ご名答、とでも言わんばかりに俺はババアの顎を角度を付けたグーで殴りつける。
<終>


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