第2回 積読解消プロジェクト 『「空気」の研究』

今日の積読は東京都豊島区のアキラさんの1冊、山本七平の名著『「空気」の研究』です。

積読期間10年。

アキラさんは現在マーケティングや、コミュニティ運営のお仕事をしています。本書は10年以上前に購入したそうです。しかし、それ以降、特に開くことはなかったそうです。しかし、コミュニティという組織自体を専門にお仕事をしていると当然、「空気」を意識するときがあり、「やはり大事なのかな」「いつか読むのかな」と考え、気が付けば10年、いつ買ったか忘れるほどの積読になっているそうです。

「1人でできることは1人でしない」

本コミュニティでは、「読めばいいじゃん」と突き放ささず、一人でできることは皆でやるをモットーに積読をみんなで解消します。本日はアキラさんと一緒に『空気の研究』です。

それは負債か?伴侶か?

名刺交換をして「今度ご飯でも行きましょう」と言ったまま10年、どちらからも連絡を取らない、そんな関係から仕事が生まれることはあるでしょうか?しかし、名刺を見るとちょっと後ろめたい気分になる、なんかあるんじゃないかと期待する、アキラさんにとって『「空気」の研究』が棚にあるのは、そんな感じなのでしょうか?

しかし、名著は名刺とは違います。アキラさんにとって『「空気』の研究』はただ後ろめたさを感じさせる名刺なのか、それともやはり今からでも連絡を取るべき人なのか、後ろめたいという気分は一旦本と一緒に放流すべきか、それともやはり意を決して開いてみるのか、まずは私達で読んでみましょう。

本書が名著と呼ばれる理由:本と著者の紹介

著者・山本七平は評論家で山本書店の経営者(1921-1991)。イザヤ・ベンダサンという架空のユダヤ人の名前で発表した『日本人とユダヤ人』『「空気」の研究』『日本資本主義の精神』など、数々の名著を続々と出版。しかし、山本自身は研究者としてアカデミックなバックグラウンドを持たず、生涯を通じて在野の人であり続けた人です。そんな人が研究者も度々引用するような名著を残したというのも、本書の価値を上げています。

本書は1977年、山本七平56歳の時の作品です。日本論といえば本書を挙げる人も多く、「空気」という今では常識になった概念で日本社会の本質を指摘しています。

本書の名著たる理由は何といっても「空気」というコンセプトの発見です。研究者なら「空気なんてふわふわしたものを研究対象にできるか!」というところを、在野の研究者が「空気って呼んでみたら一番しっくりきた。」と見つけてしまった、しかも、「空気」の新規性、重要性に加え、内容の明晰さ、分析の独創性も優れていました。KYが流行語になる、「空気を読む」が普通の言葉になる、ということが何よりの証左です。スポーツでたとえると40年前にアマチュア選手が作った日本記録がいまだに破られていない、みたいな感じでしょうか。

本文ダイジェスト

●空気という問題

至る所で人びとは、何かの最終的決定者は「人でなく空気」である、と言っている。

「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。それは当然であろう、彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは「空気」であったから──。

従ってもし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く「空気」であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように「あのときは、ああせざるを得なかった」と答えるであろうと思う。こうなるとますます、この「空気」なるものの実体を解明せざるを得なくなるのである。

●「空気」とは「何」であって、「何」ではないのか

「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。

だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。

現実にはこの二つの基準は、そう截然と分かれていない。ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっているからである。

確かに、日本で人工醸成されたこの「空気」なるものは、ヨーロッパともアメリカとも全く違う状態を現出させているらしい。

出発点は同じだが、アメリカには「空気」がなく、日本では「空気」が醸成される、という決定的な違いが出てくる──このことは、空気研究の最もよき資料であることを物語っていよう。

●「空気」はどうやって作られるのか?

「空気」とは何か。これを調べるための最もよい方法は、単純な「空気発生状態」を調べ、まずその基本的図式を描いてみることであろう。

イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・髑髏 がざらざらと出てくる。こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。それが約数週間続いた。

すると、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。

骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。おそらくこれが「空気の基本型」である。

●「科学」は輸入したが「科学的態度」は輸入できなかった日本

明治の啓蒙家たちは、「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」と考えても、「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ臨在するかと感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。まずそれを解明すべきだ」とは考えなかった

彼のみでなく明治のすべてに、先進国学習はあっても、「探究」の余裕はなかったのである。従ってこの態度は、啓蒙的といえるが、科学的とは言いがたい。従ってその後の人びとは、何らかの臨在を感じても、感じたといえば「頭が古い」ことになるから感じても感じていないことにし、感じないふりをすることを科学的と考えて現在に至っている。

従って多くの人のいう科学とは、実は、明治的啓蒙主義のことなのである。しかし啓蒙主義とは、一定の水準に〝民度〟を高めるという受験勉強型速成教育主義で、「かく考えるべし」の強制であっても、探究解明による超克ではない。従って、否定されたものは逆に根強く潜在してしまう。そのため、現在もなお、潜在する無言の臨在感に最終的決定権を奪われながら、どうもできないのである。

●日本で「空気」の支配が起こる必然的理由

第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。

聖書学者の塚本虎二先生は、「日本人の親切」という、非常に面白い随想を書いておられる。氏が若いころ下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中に、あまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯をのませた、そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ」と記されている。

この現象は、簡単にいえば「乗り移る」または「乗り移らす」という現象である。ヒヨコに、自分が乗り移るか、あるいは第三者を乗り移らすのである。

この現象は社会の至る所にある。教育ママは「学歴なきがゆえに……」と見た夫を子供に乗り移らせ、子供というヒヨコの口に「教育的配合飼料」をむりやりつめこみ、学校という保育器に懐炉を入れに行く。

一口にいえば臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは常に歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起ってしまうのである。

●西洋の相対化文化:「空気」のない国は存在しないが、相対化はできる。

〝空気〟の存在しない国はないのであって、問題は、その〝空気〟の支配を許すか許さないか、許さないとすればそれにどう対処するか、にあるだけである。従ってこの〝KŪKI〟とは、(西洋文明の言葉では)プネウマ、ルーア、またはアニマに相当するものといえば、ほぼ理解されるのではないかと思う。

(西洋では空気が)自分たちを破滅させる決定をも行なわせてしまうという奇妙な事実を、そのまま事実として認め、「霊の支配」というものがあるという前提に立って、これをいかに考えるべきか、またいかに対処すべきかを考えているのである。一方明治的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振い出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追いこんでしまった。

西洋の宗教では、対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。そして相対化のこの徹底が残すものは、最終的には契約だけということになる。

●物や名前の見えない力を肯定する日本、相対化する西洋

絶対に相対化が許されない「神の名」は、その名が臨在感的に把握されて偶像化し、その偶像化によって偶像崇拝を招来し、逆に「神」を冒瀆する結果になることを防ぐため、絶対に口にしてはならないはずである。確かにそうなった。ユダヤ人は神だけを絶対視するが故に、神の名を口にすることを禁じた

一方我々の日本社会はアニミズムの社会である。そしてこの社会の破局的な危険は、全民族的支配的〝空気〟が崩れて他の〝空気〟に変ることなく、これが純粋な人間に保持されて、半永久的に固定化し永続的に制度化したときに起るはずである。それはファシズムよりもきびしい全体空気拘束主義」のはずである。

日本は常に、この状態へと回帰していく。確かにこれまでは、それでも間にあった──戦争といった身のほど知らずのことをやらない限りは。また、先進国模倣の時代は、先進国を臨在感的に把握し、その把握によって先進国に「空気」的に支配され、満場一致でその空気支配に従っていれば、それで大過はなかった。否、その方がむしろ安全であったとさえいえる。そのためか、空気の支配は、逆に、最も安全な決定方法であるかのように錯覚されるか、少なくとも、この決定方式を大して問題と感じず、そのために平気で責任を空気へ転嫁することができた。

だが中東や西欧のような、滅ぼしたり滅ぼされたりが当然の国々、その決断が、常に自らと自らの集団の存在をかけたものとならざるを得ない国々およびそこに住む人びとは、「空気の支配」を当然のことのように受けいれていれば、到底存立できなかったであろう。

●「空気」に抵抗する「水」

だが、われわれの祖先が、この危険な「空気の支配」に全く無抵抗だったわけではない。少なくとも明治時代までは「水を差す」という方法を、民族の知恵として、われわれは知っていた。

この「水」は、伝統的な日本的儒教の体系内における考え方に対しては有効なのだが、疑似西欧的な「論理」には無力であった。

昭和の悲劇とは、表面的には西欧的といえる仮装の論理に基づく「空気」の支配に対して、伝統的な「水」が全く無力だったことに起因している。というのは「水」の基本は「世の中はそういうものじゃない」とか、同じことの逆の表現「世の中とはそういうものです」とかいう形で、経験則を基に思考を打ち切らす行き方であっても、その言葉が出て来る基となる矛盾には一切ふれないからである。

仮装の西欧化には大きな危険があるのは当然であった。早くも明治に内村鑑三がその危険を警告しているが、われわれは残念ながらまだ新しい「水」を発見していない。だがその新しい「水」は、おそらく伝統的な日本的な水の底にある考え方と西欧的な対立概念による把握とを総合することによって見出されると思われる。

●「水=通常性」の研究

ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。

●いつの間にか「水」は新しい「空気」に置き換わる

終戦時にやや似た現象が見られたが、人はすぐに、自らの通常性は少しも崩壊しておらず、消え去ったのは巨大な力をもつかに見えた〝空気〟の拘束という〝虚構の異常性〟だったことに気がつき安心する。

当時の情況ではああせざるを得なかった。従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくり出した者だ」といった種類の一連の倫理感とその基準である。

これは自己の意志の否定であり、従って自己の行為への責任の否定である。そのため、この考え方をする者は、同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく決断であることを、絶対に認めようとしない。

「当時の情況」という言葉は、現代を基準にして構成した一種の虚構の情況であって、当時の情況とその情況下の意識を再現させてそれを把握できるわけではない。従って、この虚構の基準の下に判定される情況倫理に基づく判断は、すべて、現在の情況倫理に反応する現在の意識と、それに基づく判断の過去への投影にすぎず、一種の自己の情況の拡散にすぎない。

われわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。従ってこの現実である「水」は、その通常性として作用しつつ、今まで記した「一絶対者・オール3」的状態(*その時の状況に基づく判断)をいつしか現出してしまう。

●「空気」文化の日本に、「民主」はあっても「自由」が無い理由

アメリカのもたらしたイデオロギーが、「自由」と「民主」の二つだったという面白い事実に基づく。アメリカ人は、実に素朴にこの二つが結合するものと考えていた。しかし、一民族を全く無干渉に自由に放置しておいたらどうなるか。それは、否応なく伝統的文化規範による秩序をつくるにきまっている。

人びとが、その人びとがもつ無意識の通常性的規範通りに生活していけば、否応なくできあがってしまう秩序である。従ってアメリカが「民主」を棄却して「自由」だけをもたらし、全く自由のままに日本を放置しておいたならば、数百年の伝統をもつ規範がそのまま社会秩序となって行ったであろう。

●自由とは、嫌なものは嫌、と言えること

戦後三十年、いまの日本人にとって、全く扱いづらい概念になってしまったのが、実は「自由」という概念なのである。

彼らはどういう人間を「自由主義者」と規定したのか。簡単にいえば、あった事実をあったといい、見たことを見たといい、それが真実だと信じている、きわめて単純率直な人間のことである。

●「鎖国」は「空気」文化国家日本の必然だった

昔も今もわれわれを支配している「何かの力」とは何なのか?その力に抵抗することは不可能なのか?確かに「何か」と言っている間は不可能である──というのは、実体のわからないものには対抗はできないから。

これが一つの力である限り、プラスに作用した場合は、奇跡のように見えるであろう。明治の日本をつくりあげたプラスの「何かの力」はおそらくそれを壊滅させたマイナスの「何かの力」と同じものであり、戦後の日本に〝奇跡の復興〟をもたらした「何かの力」は、おそらくそれを壊滅さす力をもつ「何かの力」のはずである。

それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」だということである。

問題は、この秩序を維持しようとするなら、すべての集団は「劇場の如き閉鎖性」をもたねばならず、従って集団は閉鎖集団となり、そして全日本をこの秩序でおおうつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ないという点である。

このまま行けば、日本はさまざまな閉鎖集団が統合された形で、外部の情報を自動的に排除する形になる、いわばその集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になって行く、それは一種の超国家主義にならざるを得ないであろう。

●「空気」文化の超克というプロジェクト

これまで記してきたことは、一言でいえば日本における拘束の原理の解明である。ある状態で、人は何に拘束されて自由を失うのか?自由な思考とそれに基づく自由な発言ができないのか。そしてその状態にありながら、なぜ「現在の日本には自由が多すぎる」といえるのか。なぜ「譲れる自由」と「譲れない自由」といったおそらく世界の「自由」という概念に類例のない、まことに不自由な分類が出てくるのか。それはおそらくわれわれが、「空気拘束的通常性」の中の、どこに「自由」という概念を置いてよいかわからないからであろう。

それは、新しく何かを生み出すものは、前記のようなあらゆる拘束を断ち切った「自由」すなわち「自由なる思考」だけであり、それがなければわれわれは、常に、情況を設定する既存の対象を臨在感的に把握して、それとの関係で自らを規定する以外に方法がないこと。

そしてそれを行ないうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に探究することであり、すべてはここに始まる。

●水を差す「自由」は別の「空気」を作るだけ

戦後の一時期われわれが盛んに口にした「自由」とは何であったかを、すでに推察されたことと思う。それは「水を差す自由」の意味であり、これがなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省である。

そのため、われわれは今でも「水を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる、という意識をもっており、この意識は組織内でも組織外でも働き、同時にこの自由さえ確保しておけば大丈夫という意識も生んだ。

その証拠に戦争直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからである。そしてその「空気」にも「水」が差せることは忘れているという点で、結局は空気と水しかないからである。

「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか?もちろんその根は臨在感的把握そのものにあったのだが、猛威を振い出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。

結局、民主主義の名の下に「消した」ものが、一応は消えてみえても、実体は目に見えぬ空気と透明の水に化してわれわれを拘束している。いかにしてその呪縛を解き、それから脱却するか。それにはそれを再把握すること。それだけが、それからの脱却の道である。人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。人間の進歩は常にこのように遅々たる一歩の積み重ねであり、それ以外に進歩はあり得ない。

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<積読診断> 読んでいて当たり前!という「空気」
~アキラさんの視点で読んでみて~

さて、ここでアキラさんが本書との関係をどうするか、考えてみましょう。

本棚に鎮座する名著、しかもほとんど開いたことない、そんな本はどの家にも1冊や2冊はあるはずです。名著には名著と呼ばれるだけの歴史的の功績や、普遍的な価値があります。一方で「読んでいて当たり前」特に「その道の者なら当然読んでいるはず」という静かであると同時に排他的なメッセージがあるのも事実です。

それが何となく重圧となって、自己評価を下げる原因になり、本に親近感がわかないということはあります。もしかすると、名著という評価が無い状態でアキラさんが本書と出会っていれば、10年の積読もなかったかもしれません。(これ自体が山本の言う「ものに感情移入」する日本人的性格です)。

●「名著」を読まなくてもいい理由

もちろん、排除のメカニズムは必ずしも意図的ではありません。しかし、多くの場合、名著か名著でないか、名著を読んでいる人かそうでないか、その基準を意識させられるのはそれに当てはまらない人、つまり、権威的評価を気にしない、必要としない普通の人のはずです。

名著には名著と呼ばれるだけの歴史的の功績や、普遍的な価値があります。その分、その仕事は新しい形で現代に引き継がれていたり、もっと身近な形で表現されていることも多いものです。本書も山本七平の問いに応える形で、読みやすく、身近な本が、新しい古典として出ています。もしアキラさんの問題意識が同じで、本書に親近感が持てていないなら、他の選択肢もあるのです(後半のalternative bookをご参照)。

●『「空気」の研究』が読みにくい理由

また、他にも「読めない理由」を考えてみると、面白い本である一方、山本七平独特の読みにくさもあります。

①アクロバティックな論理展開
「研究」と銘打っていますが、学術書ではないので文章は平易です。しかし、山本氏本人も本書内で述懐するように「空気」「水」に始まり、「臨在感」「うやむや」「日本的状況倫理」など、様々な概念や置き換えを用いて議論を展開します。それらの概念は一般的な概念と、山本氏が独自の概念が混在し、それらを組み合わせてまた新しいオリジナル概念が登場するので、理解が追い付きません。

たとえるなら、大道芸師のジャグリングの球が次々追加されていく感じでしょうか。見ているだけならいいのですが、一緒についていく方は結構大変です。この山本氏の思考の癖というか、この辺りは相性があるでしょう。

② 「空気の支配問題」はどうすればいいの?への提案が無い
本書には肝心の「空気支配」の問題への処方箋はありません。断っておくと、山本は問題への回答を示すことは意図していません。それ以降の実践は読者にバトンタッチです。これは著者として、本として悪いことは全くありません。ですが、実際「空気」問題に苦しみ、処方箋を期待した読者にとっては、やや肩透かしで、読みこなす労力の割に冗長で、アクロバティックな山本節が楽しめないと、頭のいい人の小難しい話を聞いただけような読後感になるかもしれません。

●名著は飛ばしても良い理由

そんなアキラさんに送りたい本書のパンチフレーズは以下です。

これまで記してきたことは、一言でいえば日本における拘束の原理の解明である。ある状態で、人は何に拘束されて自由を失うのか?自由な思考とそれに基づく自由な発言ができないのか。そしてその状態にありながら、なぜ「現在の日本には自由が多すぎる」といえるのか。なぜ「譲れる自由」と「譲れない自由」といったおそらく世界の「自由」という概念に類例のない、まことに不自由な分類が出てくるのか。それはおそらくわれわれが、「空気拘束的通常性」の中の、どこに「自由」という概念を置いてよいかわからないからであろう。

山本氏が本書でやりたかったのは、人間が自由を剥奪されるプロセスを解明すること、どうしたら空気の権威に束縛されず、自由に発言し、日本的な危機を回避できるか、でした。山本氏は本書で偉大な仕事をしたわけですが、この「日本的危機の回避」「息苦しくない社会を作る」というプロジェクトは当然山本一人が数十年単位で完遂できるようなものではありません。他にもたくさんの人が今日もどこかで同じプロジェクトに当たっています。たとえるなら、違う登山道から同じ山を登るようなものです。読書はそのプロジェクトに参加する疑似体験ですが、仕事だったらプロジェクトに参加して辞めるのは迷惑な話ですが、本の場合は合わなければ即やめていいのが美点の1つです。

アキラさんも、その巨大プロジェクトを担うお1人です、もし、積読の圧力に、なんとなく自己評価が下がる状態にあるのなら、一度放流してしまえば、同じプロジェクトでも、別のアキラさんに合う本がやってきます。そしてアキラさんの準備ができた時、また本書が向こうからやってきて、語らう時がくるかもしれません。

では最後に、代替選択となる本を紹介して締めたいと思います。

Alternative Book Choice 

1.『日本辺境論』(内田樹 著|新潮社 刊)
『「空気」の研究』では「空気」に支配された日本人は、「水」を差しても、水が新しい空気に置き換わるだけ、と指摘してました。

『日本辺境論』の著者の内田氏は、日本は常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民だと指摘します。山本と同じく、自己相対化できない日本の国民性を前提にしつつも、『「空気」の研究』では理解止まりだった問題に、その日本人の特性を活かしていくことを提案する本です。実際、内田氏は本書の参考文献に『「空気」の研究』を挙げており、山本の議論を引き継ぐものであることは間違いないでしょう。

「空気文化」の良い面は山本も指摘していますが、その場合、「自由」は無くなる、とも言っています。内田氏はその点にどう応えているのでしょうか?

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2.『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健 著|ダイヤモンド社 刊)
ご存じ大ベストセラー。ですが『「空気」の研究』で指摘された、感情移入が常態化して「空気」支配される、という「同調圧力」の問題に対し、個人の活動レベルからの解決法を提案しています。

本書で登場するアドラー心理学に基づいた「目的論」や「課題の分離」などの方法は、「同調すれども、圧力かけず」となるための「共感の作法」「同調のマナー」です。『空気の研究』が50年前に提示した課題への「空気は生めども、支配はされず」という答えなのかもしれません。『日本辺境論』と併せて読めば、日本の活路が見えてくるかもしれません。

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3.『菊と刀』(ルース・ベネディクト 著|光文社 刊)
最後は古典です。第2次世界大戦中にアメリカ軍情報局に雇われた著者が、日本の占領政策を検討する際に作成した「日本人の行動パターン」という論考を発展させたのが本書。
核心は、「米国=罪の文化」「日本=恥の文化」という洞察です。自分の振る舞いが世間からどのように評価されるか。それが日本人の行動の指針である一方、仮に過ちを犯しても、「世間の知るところ」にならない限りさほど気に病まない、と指摘しており、山本の指摘する「その場限りの倫理感」という指摘を大いに通ずる分析です。
本書に対しては、固有名詞に誤りがある、など間違いも指摘されていますが、それでも『空気の研究』と並ぶ日本人論の名著です。論文が元なので、文体への相性はありますが『空気の研究』と違い、オリジナル概念の登場や置き替えが少なく、むしろさすが実用を至上価値としなければならない軍隊のレポートだけあり、明晰で切れのある文体なので、読みやすく感じるでしょう。

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