宇津神社についての文章

(参考)
宇津神社に祭られている神は、文政二年のある文章には、カンナオヒノカミ、ヤソマガツヒノカミ、オオナオヒノカミであるとあります。ヤソマガツヒノカミは、イザナギノミコトが黄泉国にイザナミノミコトを追ってゆき、その姿を見て逃げ帰った後、中津瀬(なかつせ、流れが中くらいの川か海か)にて身を洗ったときに生まれた神です。小長港から明石港までの船が通る中の瀬橋の下は、文政二年(1819年)には中津瀬と呼ばれ、ヤソマガツヒノカミの象徴であり、小長からの景色は三つの神の天然のモニュメントでした。東側は上津瀬、その西側は下津瀬と呼ばれていましたが、どちらが残り二つの神を象徴しているかはわかりません。

ココに、ノらさく、「上津瀬者瀬速し(かみつせはせはやし)、下津瀬者瀬弱し(しもつせはせよわし)。」トノらして、初メて、中瀬(なかつせ)に堕ちかづきて、すすぎます時、なりませる神ノ名は、八十禍津日神(やそまがつひノかみ)。次に、大禍津日神(おほまがつひノかみ)。この二はしらの神は、そのきたなき国にいたりましし時、けがれによりて、なりましし神そ。次に、その禍(まが)を直さむとして、なりませる神ノ名は、神直毗神(かむなほびノかみ)。次に、大直毗神(おほなほびノかみ)。
(日本思想体系『古事記』、39頁)

伊予三島一宮辺拝所十六社の内、一番目は立花の大岐神社で太郎明神と呼ぶこともあり、七番目は宇津神社で七太郎明神と呼ぶこともあった、ということはわかるのですが、残りの番号の神社が何処にあるのか、自分はわかりませんでした。

(本文)
掛もかしこき八十枉津日神と申奉るハ、千早振神の御世よりあまくたりましまして、人王ニ至て孝霊天皇の御宇かとよ、彦左雉命海上守護の為にはしめて勧請し祭り給ふ御神也、光仁天皇宝亀四歳八月十七日神託によりて国守より御社造立し、同十年十一月二十六日奉勅て越智安則鎮祭し奉る、鳥羽天皇の御宇藤原某なりし人筑紫より上洛の折から風を避て此浦に船泊しける、暁いかなる人ともしれす忽然としてあらハれ告げて曰、神明ハ祷りいのるを以て先とす、我ハ是日向小戸の水底に出居る神名ハ枉津日尊也、大日本根子彦大瓊天皇のむかしより此島ニ往来の船を護なり、汝われを祭らハあらき海も陸地を行に異ならしと告給ふて夢覚侍りぬ、惑噂のあまり船よりおり立爰かしこと御社やましますかと尋れとも、更にしれかたかりしに谷陰に麗しき気の朝日に曜て立のぼりけるを見奉りて尋ね至れハ、あやしけなる木陰にいとものふりし御社のましましける、是なん夢に告給ひし御神にてましいますらめといとと尊く思ひ奉り、卒に国守に是を達し島人をかたらひ共に社を営むとなん、此奇瑞を浦人と共に拝ミき見侍りしによりて此所をみなミと云(南とも又皆抔とも書、)此時ハ社号とても定まらす、うつくしき光の立のほりけるよりうつくしき社となん称し奉りしに、いつの世よりか詞を略して宇津の社と称し奉りぬ、又此島ハ伊弉諾尊の御子八十枉津日神の鎮座ましますによりみたらひ島と云(伊弉諾尊日向小戸ニて御身の濁穢を盪滌し給ふ故ニ身洗ひの島と云転語してみたらひと唱へ今御手洗と書)、此島と姫児島の間に小島連りて海水の通する所東を上瀬と云、中を中瀬と云、西を下瀬と唱へて三ツの瀬之神の昔も今目の前に炳然々拝奉る、建保年中左近通金(越智家先祖)神直日大直日の神を合せ祭りて三柱の御神を崇め奉りぬ、文明八年の春南(旧社地なり)より今の社地(石原中)江遷し奉る(古社地ニハ八王子社を祭)、然るに永録(禄)天正の頃ハ国の乱れ久しく修理を奉るものもなく、此時ニ至り社壇殆と廃するに至らんとす、当神主左近太夫(越智道朝に相当ル)なるもの是を歎き神田を売しろなし纔に修理し奉る(神田古名今ニ存セリ)、当社者往古より故有りて河野氏代々尊信し社壇も度々造立し、神器等ニ河野氏之紋所を付武器も数多奉納ありけるか、世の乱れに賊之為ニ奪れ今纔に殘れり、しかるに元和之頃御武威に和順し四の海静に治り、蜑の苫家之賤女迄御政の御仁ミを担ひ奉り、御宝祚万歳御武運長久祈り奉るとしかいふ、中古七郎明神と称し奉るハ伊予三島一宮辺拝所十六社の内ニて、当社ハ七番目ニ御鎮座故土俗七郎大明神と唱へ來り候所、安永三年十一月亡父大隅暗位階昇進之砌御願申上、御免許ニ相書載語座候得共繁文故略し猶外略縁記等ニも粗書記御座候得共是又略し申し候

神主従五位下
越智宿祢道豊謹誌
(『豊町史・資料編』110頁)

(訳文)
かくも畏れ多い八十枉津日神(ヤソマガツヒノカミ)とお申し上げいたしまするは、ちはやふる神の世界からご降臨なさいました、人代の天皇に至って孝霊天皇(コウレイテンノウ)の時代であったでしょうか、彦左雉命(ヒコサチノミコト)が海上守護の為にはじめてご降臨願いなさいました神であらせられるのでございます。光仁天皇(コウニンテンノウ)が宝亀(ほうき)四歳(774年)八月十七日に神託にそって国守(こくしゅ)に社(やしろ)を造立させ、同十年(780年)十一月二十六日に命じられて越智安則(おちやすのり)が鎮祭なさいました。鳥羽天皇の時代に藤原なにがしという人が筑紫(ちくし、福岡県の一部)から京都へ行くに際して、風を避けてこの浦に停泊いたし、日の出が誰が知るともなく忽然として現れ告げて言いますには、「神は祈りを祈ることを何よりも重要とする、我はこの日向(ひゅうが)の小戸(おど)の水底にあらわれる、神名は枉津日尊(ヤソマガツヒノミコト)である、大日本根子彦大瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノミコト、孝霊天皇)のむかしからこの島に往来する船を護っている、なんじが我を祭れば荒れた海も陸地を行くのと異ならない」、とお告げなさって、夢から覚めたのございます。「惑う噂のあまり(?)」船から降り立ってあちらこちらに社はないかと巡り歩きましたが、「更にしれかたかりしに(?)」、谷陰にうるわしい気が朝日にかがやいて立ちのぼっていたのをご覧になって近寄ってみれば、あやしげな木陰にとても古びた社があったのでございます。これこそ夢に見た神であられるに違いない、とたいそう尊く思いなさいまして、この吉兆をこの浦の人々とともに「拝ミき見侍りしによりて」、ここを「みなみ」と言います(南とも皆抔とも書く)。この時は社号すらも定まらず、うつくしい光が立ちのぼっていたことから「うつくしい社」と呼んで奉っていましたが、いつの時代から「詞を略して」「宇津の社」と呼んで奉りました。またこの島は伊弉諾尊(イザナギノミコト)の御子の八十枉津日神(ヤソマガツヒノカミ)が鎮座なさることにのっとって「みたらい島」と言います。(伊弉諾尊(イザナギノミコト)が日向(ひゅうが)の小戸(おど)にて御身のけがれを洗い流しなさったので、「身洗いの島」といい、転語して「みたらい」と唱え、今「御手洗」と書く)。この島と姫児島とのあいだに小島が連なっており海水の通っている所の東を上瀬といい、中を中瀬といい、西を下瀬といって「三つの瀬の神」「の昔も今目の前に炳然々拝奉る」、建保年中(1213年から1219年)左近通金(さこん〇〇、越智家の先祖)が神直日大直日(カンナホヒノカミ)を合わせて祭って、三柱の神をあがめたてまつっている、文明八年(1476年)の春南(はるなみ?、旧社地なり)から今の社地(石原中)に移したてまつった(古い社地では八王子社(ハチオウジシャ)を祭っている)、永禄(1558年から1570年)天正(1573年から1592年)国の乱れが長く続いており、おさめられる者もおらず、「此時ニ至り社壇殆と廃するに至らんとす」、当時の神主の左近太夫(越智道朝にあたる)という人がこれを嘆いて「神田を売しろなし」わずかに修理なさったのです(「神田古名」今も残る)、この神社は昔から訳あって河野氏(?)を代々信仰しており、社壇(?)も度々造立して、神器などに河野氏の紋所(もんどころ)を付けていました、武器も多く奉納されたのでしょうが、世が乱れ、賊に奪れ、今わずかに残るばかりです、しかるに元和の頃(1615年-1624年)「御武威に和順し四の海静に治り」、アマの苫家(とまいえ、茅の屋根の家)の賤女まで「御政の御仁ミを担ひ奉り」、御宝祚万歳(ごほうそばんざい)御武運長久(ごぶうんちょうきゅう)を「祈り奉るとしかいふ」、「中古」七郎明神と称して奉るのは「伊予三島一宮辺拝所十六社」の中で、この神社は七番目でございますので、場所の人が七郎大明神と呼び伝えていましたところ、安永三年(1774年)十一月、亡き父の大隅暗が位階昇進の時、お願い申しあげ、「御免許ニ相書載語」のでございますが、繁文なので省略いたします、なお外略や縁記なども粗く書き記してございますが、これもまた省略させていただきます。


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