引用 福嶋亮大『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』

十七世紀から十八世紀に起点をもつヨーロッパの近代小説は「現実感覚」に立脚しながら、文学上のリアリズムを育ててきた。近代小説の登場人物はもっぱら五官(とりわけ視覚)から得た観念にもとづいて行動し、感情や思想を言い表す。彼らは外部(神)の力の意のままに動く人形ではなく、独立した心と行動様式を備えたスタンドアローンの行為者なのである。
 (略)
 それに対して、二〇世紀の「可能性感覚」の文学は、いまだ心に入力されていない未知の感覚を操作しようとする——あるいはフッサールふうの言い方をすれば、意識のフォルダにはすでに格納済みだが、まだ十分に「生長」しきっていない(いわば画像ファイルとして表示されていない)観念を象ろうとする。つまり、この文学の書き手はまだ起こっていないこと、あるいはこれから起ころうとすることから、要は感覚の亡霊から作品を生み出そうとするのだ。それはロックやデフォーらの始めた近代のリアリズムのプロジェクトを審議し、ワーク・イン・プログレス(進行中の作業)の状態に差し戻そうとする野心的な試みである。(福嶋亮大『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』より「内向の系譜——古井由吉から多和田葉子へ」,新潮社,p60-62)

古井の作品はエクスタシー(脱自=恍惚)の文学である。つまり、自己が自己ならざるものへと変容し、現実が現実ならざるものへと変容する——この狂気を孕んだ変身にエロスを見出す作品である。古井はいわば小説の現象学者、、、、、、、として、旧来のリアリズムの前提を疑い、現実感覚を解体するが、それには大きく二つの道があった。
 一つは、人間を名前のない「男たち」と「女たち」に還元し、群れの感覚を浮かび上がらせることである。
(略)
もう一つは、不眠、影、病、老いのもたらす異常感覚を際立たせることでもある。(同上,p64)

エクスタシーと言っても、古井の場合、神の愛に包まれて天に昇るキリスト教的な法悦とは別である。八〇年代以降、日本の古典に傾斜した古井は、古人の歌の軌跡をたどり直すような『山躁賦』(一九八二年)や僧侶の「往生伝」を踏まえた『仮往生伝試文』(一九八九年)をはじめ、日本語の古層を意識した作品を生み出してきた。それらは総じて、神のような外部の超越者に向けて絶頂するのではなく、自らの内部感覚へと沈潜し、私ならざる何かを異常な分身(オルター・エゴ)として象るものであった。ゼロ年代以降の『辻』や『この道』はこの枠組みに離魂のモチーフを追加したのである。
 この「内向超越」(inward transcendence)のモデルが日本に限らず、中国やインドの思想にも広く見られることは、注目に値する。例えば、中国思想家の余英時によれば、中国古代思想の起源には「天」にアクセスできる「心」の概念の発明がある。
(略)
あるいは、古代インドにも内向超越の傾きがある。例えば、ヨーガ(土着/インダス/実践/反バラモン/不殺生)は呼吸をコントロールし、精神を操作し、感覚器官を抑制する技術である。
(略)
 日本の浄土教でも『観無量寿経』のように、ヨーガの瞑想法を語ったテクストが広く受け入れられた。沈む太陽を観じ、水の知覚を心に作り出し、氷や瑠璃を想像せよと説きながら、最後には極楽浄土(最高の幸福の国)の池、宝石、仏陀のイメージにまで到ろうとするこの瞑想のマニュアルは、まるで二〇世紀の『可能性感覚』を先取りするようなテクストである(ちなみに、折口信夫のミステリアスな小説『死者の書』も『観無量寿経』のヴィジョンに多くを負っていた)。古井の作品は必ずしも仏教の瞑想法を参照したものではないが、『仮往生伝試文』で往生=死に到るプロセスを微分し、生死を宙吊りにする「仮往生」の段階を無限に増殖させていくあたりに、瞑想的な自己催眠を認めることは可能だろう。
 このように、東アジアの思想はメディテーション(瞑想)のプロセスやコンビネーションを重視しながら特別な心的状態を作り出し、それによって超越的な価値を象ろうとしてきた。東アジアの形而上学的衝動は、外部のイデアではなく内宇宙に向けて解き放たれたのである。古井の文学も感覚器官を新設し、神なき世界のエクスタシーに近づくことによって、この「内向超越」のプロセスを豊かに描き出していた。(同上,p66-69)



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