失意を癒やす 五部浄居像④
リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーをしています。見えないもの、聞こえないもの、嗅げないもの、味わえないもの、触れられないものを紐解いて、通常の感覚では捉えられないものを使い、心を治しています。(44/88)
リーディングは、過去に起きた出来事の全てを記録するアカシックレコードにもアクセスし、必要な情報を品質の高低を選び、解き明かすことが出来ます。
誤解した経緯も調べることも出来る為、「事の始まり」が何によってもたらされたかを見つけ出すことも出来るので、「事を終わらす」為に何を見つければ良いかもわかるものです。
世の中に、「悟りを開いた人」というものを生で見かけることなど中々ありはしません。私はその「悟りを開いた人」でありますが、他者に認知されるものでもないものと心得ておりますし、証明しようとした意図もありません。
それでも「紹介」しなければ、他者には「認知」出来ないものなので告白するものです。
現在、後白河天皇が建てた蓮華王院(れんげおういん)、三十三間堂の仏像に宿る思いを紐解いています。二十八部衆がいったい、どういう意味を持ち、千手観音の前に並んでいるのかを紹介しております。
五部浄居像(ごぶじょういぞう)④
生きている意味も価値も見出せない時があります。
一、辛くて、悲しくて、情けなくて、許せなくて、恐くて、いつの間にか「してはならないこと」をやってしまう事などがあります。
二、信じたくて、近づきたくて、手にしたくて、求めていて、わかりたい、と望んでいるにも関わらず、「嫌われること」をやってしまう事などがあります。
三、騙されたくなくて、嘘をつかれたくなくて、逃げられたくなくて、見放されたくなくて、悪者にされたくなくて、好きな人の好意を踏みにじってしまう事があります。
四、裁かれたくなくて、跪(ひざまづ)きたくなくて、突き放されたくなくて、落ちぶれたくなくて、自由を失いたくなくて、立場を利用して、味方になる者たちを黙って、やってはならない便宜を図り、窮地に追い込まれる事があります。
五、不甲斐なくて、意気地なしで、性悪で、卑屈で、自堕落であることを自覚しながら動き出す事が出来ず、助けてくれる人の恩を仇で返し続けてしまう事があります。
何が人をそうさせてしまうのでしょうか?
あの優しい人が、あの厳しい人が、あの豊かな人が、あの賢い人が、あの尊ばれる人が、どんな理由があって、あんな酷い事や、あんな惨(むご)い事や、あんな愚かしい事や、あんな無様な事や、あんな悲痛な事などしてしまうのでしょうか。
望んでもいないものが手に入る事があります。
望んでも手に出来ない物事があります。
何が違うのかわからないと思っていましたが、この身というものは、見ず知らずの他人により生かされているものだとわかるようになりました。
両親がいて、兄弟姉妹がいて、従兄弟従姉妹がいて、叔父叔母がいて、親族一族がいるものですが、近しい者たちは「無視し合っていいもの」、「手を貸し合うもの」、「励まし合うもの」、「たくさんの力を集めて支えるもの」、「許し合えるもの」でありつつも、生きる力は他人からもたらされるものでなければならないとわかりました。
他者とどう好かれ合うように関わるかが大切なものだけれども、「結果が大事」とする人もいれば、「やり方の問題」とする人もいれば、「考え方次第」と片付ける人もいれば、「積み上げていくしかない」とする人もいれば、「始まりが全てだ」とする人もいて、どれが一番他者とより良く関われるかを模索する内に、気づけばいつも争いごとに発展して、哀しむしかない現実を見る事になります。
『厳罰』を作れば「不信」が生まれ、『仕組み』を作れば「不満」が生まれ、『義務』を作れば「怠惰」が生まれ、『価値』を作れば「貧困」が生まれ、『変化』を作れば「破壊」が生まれてしまい、他人と共存する道はとても険しいものとなりました。規律というもので社会の秩序を守ろうとしても、身内や一族だけがその刑罰から逃れたり、仕組みを変えるなどされては、他人はそれを許さなくなるものです。
守るべきものを破れば、義務など果たす価値などなくなり、変化を望んだ結果、荒廃した精神により、人々の意識は蝕まれるだけ蝕まれてしまうものです。
親や兄姉など権力を有する存在は「あなたの為と思って」と、他人の信頼を失った後で弁明を繰り返すものです。
どうして人は壊れる前に、気づく事が出来ないのでしょうか?
寂しさを回避する予期不安には、耳を傾けてくれても、新しい考え方を未来に向けて相談すると、誰も相手にしてくれず拒絶の態度で接してくるのでしょうか?
未来への決断など、それが正解か、不正解かなど、誰も判別不可能です。
結果を見て、行動に移す限りは、予期不安の無限ループの落とし穴にハマったまま、抜け出す事が出来ないものです。
「不信」から始めた事は、「破壊」で終わります。
「不満」から始めた事は、「貧困」で終わります。
「怠惰」から始めた事は、「怠惰」で終わります。
「貧困」から始めた事は、「不満」で終わります。
「破壊」から始めた事は、「不信」で終わります。
目を覚まして欲しいのです。
「不信」から『希望』という嘘をつかせて、何が楽しいのでしょうか?
「不満」から『勇気』という嘘をつかせて、何を求めるのでしょうか?
「怠惰」から『夢中』になれと嘘をつかせて、何が体験できたのでしょうか?
「貧困」から『優雅』になれと嘘をつかせて、何の意味があるのでしょうか?
「破壊」から『真愛』を持てと嘘をつかせて、何様にさせようとしていたのでしょうか?
哀しみにしか辿り着かないことぐらい、想像力があればわかるものです。
「無条件に信頼」する尊さを『思慮』させる事を求めて欲しいのです。
「無条件に許容」する切実さを『感謝』出来る掛け替えの無さを、求めさせて欲しいのです。
「無条件に達成」している『歓喜』の立場から、全てのことを体験して欲しいのです。
「無条件に統一」を果たせたとした『真愛』から見る世界に、どんな意味を見出す事が出来るのか感じさせて欲しいのです。
「無条件の慈悲」と共に『慈愛』を与えてられるなら、どの様な姿として育つのか、あなたの愛を注いであげて欲しいのです。
みんながみんな、笑い合う事を求めながら、哀しい結末を繰り返す現実は、全てが間違っていると気づかなくてはなりません。
あなたが「心」だと思っているものは、本当に「真心」として役割を果たしているのでしょうか?
「辛さ」を支えにして生きる心として『邪鬼』に墜ちてはいませんか?
「悲しさ」を支えにして生きる心として『悪鬼』に染まっていませんか?
「情けなさ」を支えにして生きる心として『醜悪』に腐っていませんか?
「許せなさ」を支えにして生きる心として『悪魔』を宿していませんか?
「恐ろしさ」を支えにして生きる心として『羅刹(らせつ)』に乗っ取られていませんか?
大切な人を人災で失うと、とても哀しいものです。哀しい故に、それをもたらした相手を「虐(いじ)め」「嫌い」「辱(はずかし)め」「恨み」「憎む」ことで、哀しみを癒やそうとするものの、その方法で癒やせる筈もなく、報われることもなく、ただひたすらに被害者を増やし、その被害者が不当にしか感じない責め苦から、また相手の弱点となる愛しい人を「虐(いじ)め」「嫌い」「辱(はずかし)め」「恨み」「憎む」ことで仕返しを果たそうとして、苦しみの連鎖が完成するのです。
誰も望んでいないことをするのです。
亡くなった愛する人も望んでいないことをするのです。
いつから始めた哀しみかもわからぬものを引き継いでいるのです。
止めようと工夫した事で、それが元で被害が別の形となって現れるだけなのです。
愛する家族の「負」を背負い受けて、動けなくなる人を生み出すだけなのです。
哀しいだけなのです。
あの人との思い出を忘れたくない想いが「辛さ」を繋ぎ止め、転生して元気に再会を果たした愛する人に「辛く」当たる不幸が見えないのです。
そんな『邪鬼』は捨てましょう。
大切な人との関係を終わらせたくない想いが「悲しみ」を繋ぎ止め、転生して健康になって再開を果たした家族に「悲しく」当たる悲惨な関わりが見えないのです。
そんな『悪鬼』は打ち明けて消しましょう。
可能性のある未来を夢見たままでいたい想いが「情けなさ」を繋ぎ止め、転生して不足のない関係で再会を果たした大切な人に「情けなく」当たる残念な現実が見えないのです。
そんな『醜悪』は洗い流して晴れやかにしましょう。
死に別れで残された者は、未練や無念があると先に逝かれた想いを気遣いつつも「許せなさ」を繋ぎ止めてしまい、転生したところで“あの後どんなに大変だったか”を口にしないようにした為に、再会を果たしてもぎこちなく「許されない」ままでいて、不愉快さをぶつけている無意識が見えないのです。
そんな『悪魔』は「ごめんなさい」と告げれば笑いに変わるので言ってやりましょう。
人の持つ辛さも,悲しみも、情けなさも、許せなさも、自分の事のように感じてしまい、理解されぬまま先立ってしまうと「恐ろしさ」しか持たぬようになり、関わる全ての人とで繋ぎ止めてしまい、転生する度に負荷が増し続け今では身動き取れないほど苦しみに苦しんでいる状態があり、再開を果たしても「恐ろしい」ばかりで、何も深く考える事が出来ず自滅する行為に暴走する為、縁の結びつきの怖ろしさが見えないのです。
そんな『羅刹(らせつ)』は、仏さまにお願いして取り除いてもらいましょう。
羅刹(らせつ)というものは、「次会うまであなたのために努力を惜しまず心を磨き上げて立派になるから」と約束する思いのことで、「次に会えたとき、再び同じ思いに駆られて努力をし、認めてもらえない転生の苦しみを隠しながらひたむきに尽くし、ただの一言も“慈愛を持って『愛している』と感じさせてくれた”体験がなく、身代わりに抱え続けた“辛さ”、“悲しさ”、“情けなさ”、“許せなさ”、“恐ろしさ”により、破裂しかかった狂気を抱える慈悲の者のこと」であり、献身さが報われずに精神制御が効かなくなり、暴走してしまい、“変化”となる行動に出てしまい、それが“価値”をズタズタにしてしまい、“義務”の力で押さえつけられ、“仕組み”に従うことにより“厳罰”に処されてしまい、哀しみの人柱となって社会の変革を担わされる者のことです。
羅刹(らせつ)と化す者ほど、人を深く愛し、人の痛みに共感し、それを抱え込んで笑いかけようとしては、虐められ、嫌われ、辱められ、恨まれ、憎まれる存在はいないのです。
「虐められる」ことの因果関係の全ての辿って欲しい。
「嫌われる」ことの関係性の全てを明らかにして欲しい。
「辱められる」ことの問題の本質を追究して解消して欲しい。
「恨まれる」ことがどうして発生するか明確化し、許しを与えるしかない答えを示して欲しい。
「憎まれる」ことが不等なものでしかないと弁護してあげて欲しい。
全てが「哀しみ」という「愛を見失った体験の感情」から発生している悲劇ばかりなのだと気づいて欲しいものです。
自他の区別を無くした眼差しを持ってみてください。
我が子を、家族を、一族を、どうか「見知らぬ他人」としたとき、あなたの優しさが継続するのか、消え去るのか、問いかけてみて欲しいのです。
消え去るならば、そこに「愛」はなく、「哀しみ」が隠れていることが見つかる筈です。生きている間だけ、埋め合わすことが出来る、束の間の安らぎです。
「不幸(辛さ)」を避けたいために『(不信の)心配』するのです。
「悲劇(悲しみ)」に成らぬために『(不満の)心配』するのです。
「非情(情けなさ)」さを持ち出さないために『(怠惰の)心配』するのです。
「拒否(許せなさ)」に至らせないために『(貧困の)心配』するのです。
「恐怖(恐ろしさ)」に覆い被させて、暴走させないために『(破壊の)心配』しては、さらに溜め込めさせるのです。
そんなものは真心が伝わる「心配」とは言わず、「邪鬼、悪鬼、醜悪、悪魔」が囁くものであり、「羅刹」を生み出すだけのものなのです。
もう終わりにしましょう。
人は亡くなります。
人は死にません。
この二つの文章を細かく文脈を見えるように紹介すると。
人の身体は亡くなります。
人の心情は死にません。
物質として亡くなること、精神として死なぬことの違いを教えない限り、認識の誤解から基づく、嘘の教えによる悲劇は繰り返されていきます。
物事を五つの部門に分け、それぞれを識別することで、浄化の在り方が変わります。
矛盾があると教えてください。
肉体の亡くなることと、精神の死なないことの難しさを、理解出来るその日まで、嘘をついて教えたり、知っていながら嘘をついて教えなかったりしないことです。
人の心の死、肉体の亡くなることの『死亡』という意味の捉え違いが、様々な問題を引き起こす温床になっているものです。
誰の心も死んでいません。
みんな生きています。
隣に居ます。
側に居ます。
そこに居ます。
家族に居ます。
わたしのことです。
あなたの思いついた人のことです。
全部、許されていることです。
いつも幸せだったと気づけた筈です。
ごめんなさい。
私は今、生きています。
いかがでしたでしょうか?
五部浄居像(ごぶじょういぞう)と、名前からも、写真からもどんなものか想像もつかないものですが、紐解くと「死亡」という現実をどの様に処理してきたかで、今生の苦しみを生み出していることになるようです。
生きているだけでいい。
人の役立つことが少しでも出来ればいい。
人に喜ばれることをして欲しい。
人に尊ばれる人で在って願う。
亡くなるその瞬間まで命を燃やせ。
人の想いは贅沢なもので、不足を埋め合わせようと欲しがり、埋まれば高まろうと願っていくものです。しかし、その全てが哀しみに基づくなら、全てが台無しになる現実を生み出す事実に気づいて欲しいものです。
どうか、真実の愛に触れてください。
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大切な人が「羅刹」に覆い尽くされて、生きる意味を見失っているかも知れません。助けてあげる時です。
この記事を目にしたあなたが動く番です。
後白河天皇からのお願いです。
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
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