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同人二人 〜弘法大師と共に〜

リーディングのマスタークラスとして「見えないもの・聞こえないもの・嗅げないもの・味わえないもの・触れられないもの」を紐解いて紹介しています。

〜八十八カ所巡りの道〜

動画を見ていただけると幸いですが、文字情報でも少し解説します。
八十八カ所巡りは、どうして八十八なのか? どこかに説かれているものもあるのかも知れませんが、自分なりにリーディングして紐解いてみました。

順打ち、逆打ち、区切り打ち、乱れ打ちなど色々な巡り方があるそうです。
どれもアリです。

一人で「通し打ち」として、一巡すると決める心を持ち、やり遂げてみるだけでも随分変化を呼び込む力があるので、人生を憂いてしまうなら、歩いてみるのも良い体験かと思います。


①共にある/死は存在しない

八十八カ所の寺を同時にイメージ(統括するように)し、昼も夜もいかなる時も、力になる尊敬する人と重ねて自問自答する。

同行二人ですから、自分ともう一人、弘法大師さまと一緒に歩くというものですが、その弘法大師「空海」をイメージするには、八十八カ所の寺を一つにまとめて俯瞰されている感覚を持つことで、それがいつも側にいて、昼夜を問わず話しかければ答えてくれる存在として見守ってくれると信じて取り組むと、何かしら気づきの切っ掛けになるものです。

単純な善悪論から、無意識や唯物論など様々な哲学的な話まで、好きなだけ問答することが出来ますが、「弘法大師さまが答えてくれるものではない」と教えておきます。大切なのは未熟な自分が、未熟な頭で考えて答えを導き出し、その答えが無に近づく悟りへの道ならば「よい」ような雰囲気を感じさせてくれ、「違う」なら、無言の圧のようなメッセージが届いて諭してくれるようなものです。

自問自答ですから、問うのも答えるのも自分ですが、問うのが「弘法大師」であり、答えるのが「お遍路する自分」だとイメージすることです。

②症(しるし)を消すこと/信じる基を辿ること

疒部(やまいだれ)は、信じ込むことで起きること。改めたくない、改められない根底の支えのこと。
「症」は、正しいと信じてしまった理由を見つけ、正しさは存在していない事実を認め、良さそうなことだけ行うと病になると見抜け。
(五行の「火・陽」に「丙(ひのえ)」があり、これは「みんなが認めること」ばかりをしていると、病にかかることがあるので、周りばかり気にしていい顔をしようとするのは自己犠牲が隠れていることを示すもの)

お遍路で歩く時、様々な想念の基を辿ることを徹底できるとよいことです。「いつからか?」という風に、自分の想念の根源がどこで形成されたのか考え続けることです。様々な教えを得てしまうと、その教えの真実味の強さに基の価値観まで辿ろうとしなくなる欠点があります。

自分の価値観を辿ることは出来ても、他人の価値観を辿ることは出来ないと先入観で決め込んでいる思いもあるものです。他人と言いながらも、その実自分の投影した概念の可能性も考慮出来ると、全ては自分との対話の世界とも気づけるものです。

③悪意を無くすこと/否定をやめ肯定すること

悪意は肯定されることを嫌がる。
全方位となる八十八方面から肯定すると悪意は滅び鬼の心は無くなる。

ネガティブな思いなど、肯定すると途端に弱くなる感情などがあります。必死に否定してもらおうとあらゆる悪いことを投げかけてくる心がありますが、それらをどれも肯定し続けると、やがていなくなることさえあるものです。
全方位というのは、それこそ八十八カ所巡りのご本尊などに取り囲まれて肯定されることをイメージすると、問答の過程で滅していくことが出来ます。
悪意は、自分の存在を認めきってもらえると消滅するので、その絶対的な愛の境地から、悪意を見つめられるようになることが道行きです。

どうして八十八なのか?

方角は「東・東南・南・西南・西・西北・北・東北」と八方あります。
これが陰と陽で八と八と十六になります。
陰と陽とは別に、中央に合同させた陰陽があります。
階層を中央の陰陽のみに五段階、四十を加え、五十六になります。
これが外側になります。
内側に陰陽合わせた四段階の階層があり三十二があり、内外を合わせ八十八になります。

階層がある為、上下の概念がありより上部、より下部があります。
内外がある為、内なる心だけでなく、外にある心もあり、どれもまた自分の心であると知る為に、八十八の方位を巡ることで心の概略を辿ることで内外の知る旅をするのです。

他にも、色々とお遍路に取り組む法術要素があるので、自分の想像力を駆使して、悟りを開く為のヒントを閃き降ろしてみてください。

④嘘をつかぬこと/ここで死に、ここから始めるなら?

時間の連続性がないなら、これまでの経験を捨て、心を一度死んだ扱いにし、真っ白なキャンバスに人生を好きに描いてみる。
それなら、尊敬する人と同じ事が出来、同じ目線を持ち、真心に従って生きること。

お遍路さんを歩くと決意するだけでも、相当なる覚悟を必要とするものです。
歩くと決めるならば、札所から札所の度に、一度心を死なせてしまうイメージで取り組んでみて欲しいのです。
40日など徒歩で歩くなら、時間を要するものです。
それなら、40回死に、生まれ変わることをイメージして実践してみて欲しいのです。
生きながら、生まれ変われるとするなら、尊敬する「弘法大師空海」と同じ事が出来るようになり、同じ目線で世界を見られることさえ出来てしまうと信じることさえ可能にしてもいいのです。
自分の人生でありながら、尊敬するお大師さまと同じ事が出来てしまうイメージを持っても良いものです。

お遍路さんの道行きも、一歩一歩の積み重ねで終えることが出来るように、心との対話も、一つ一つを解き明かしていくことの積み重ねで到達する悟りの境地です。

自分自身に対する嘘というものをやめることが、心底難しいだけのことですが、やってやめられないものではないので、取り組み続けてみてほしいものです。

お遍路さんは,一つのアトラクションのようなものです。
娯楽です。修行と考えない方が良いものです。
双六(すごろく)ぐらいの感覚で、札所から札所までの間にどれだけの悟りを開くことが出来たのか? 何に気づき、何を手放すことが出来たのか? どこまで無に到ることが出来たのか? こんなに許せないものを許せると気づいたぞと、報告し合えることでも出来る方が楽しいものです。

コツがわかるようになると、黙るようになり自分の世界に入るようになります。徒歩での気づきは、様々な人の関わりや、知らないことと出会える貴重な体験の場でもあります。階段を見上げては「うっ」とひるんだり、札所と札所の間が途方もなく離れていることで「はぁ〜」とため息が出るなど、自分の移ろいゆく心に対して励ますだけでない関わりを見つけ出すことが「同行二人」の意味の奥深さでもあります。

一人で歩くならともかく、二人で歩く時、三人や四人で歩くと、様々なトラブルが生まれるものです。ただただ励ますだけで、気を遣うことの苦しさや、気遣われることの申し訳なさなど、様々な心の葛藤が訪れるものです。「無」が答えであるなら、他人の心も「無」に到らせることが出来ると気づけると、「無」が何かが見えてくるものです。

それを探す道行きを楽しんでください。

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