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神仏の愛を測る力 婆藪仙像㉖

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。㉕毘舎闍像の解説において、一部誤りの記載がありました。「⑪絶望(想)」について解説していたものの、「⑪自責(想)」と表記してしまいました。お詫びして訂正します。ミスの根源はこれら神仏にまつわる記事を「大嘘つきめ」という想念にやられておりました。毎回、記事を発表する前には記事に対する拒絶レベルの心の傷をぶつけられて「見せるな」を治して「見せていい」に改めて書いております。(66/88)

今回の記事は、第五チャクラに相当し、五蘊(ごうん)における、「色・受想行識」の「識」の部分を解説しています。

第四チャクラのハートチャクラは身代わりになりやすい傷が隠れており、第五チャクラのスロートチャクラは代弁して庇いたがる傷が隠れており、今回の入れ替えのミスは「どちらが正解か?」とは言い切れない難しさがあります。

真理がわかるようになると、全ての事柄は、「今、この場における問題」である為に「今、この場で解き明かす閃きがもたらされるもの」とわかる状態でもあり、問題が起きても、その場で解決してしまえるように変えてしまえるものです。

これは単純に、「知っている人は何でもない簡単に解決出来る事」が、「知っていない人には重大な難問になるもの」であるだけで、知っている人からしたら教えてしまえば、重大な問題は簡単に解決して、問題そのものを消失させてしまうことが出来るものと変わりありません。

ただ、それが千人や万人が尋ねたら、千通り、万通りの解答が閃き降ろすことが出来、類似パターンはあるにしても、個別対応しかしていない事実が確かめられるようになるのです。

そうした全ての事象をパターン化せずに対応出来る力を持つことが真理であり、問われれば自動的に必要とされる解答が閃き降ろされる便利なものになります。

そんな便利な閃きの気づきを阻害するものが「深い哀しみ」であり、心の傷です。

人は人との関わりにおいて、相手が「笑ってくれる」ことと「泣かれる」ことと比較するなら、「笑ってくれる」方を好むものです。それが自分が先に「笑いかけた」から、「笑い返してくれた」というものが正常であるものです。自分が「辛く哀しい状態の表情をしていた」としても、「笑いかけてくれる」ことや、「笑わせてくれる」ことを望みたいものですが、純粋な気持ちでの「笑いかける」ことは、「辛く哀しい体験の思い出に直接触れる」ような激痛体験にもなるので、笑いかけたい方も、笑いかけられない辛さが届いてしまい、「声もかけられない状態」に陥ることがあります。

「辛く哀しい状態の表情をしていた」側からしたら、今こそ「笑いかけて欲しい」と願うものですし、「何か声をかけて気分を変えて欲しい」と求めるものですがそれが得られない現実が起きてしまうのです。

自分からも笑えず、周りからも笑いかけて貰えない状態は、「塞ぎ込むような辛さが倍増する」体験に繋がることがあります。

阿吽の呼吸のごとく「⑫自責(想)」としていると自発性が欠落している為、呼応する側として「⑲忘却(受)」として思いつくため、反応しない結果が生み出されてしまいます。

自発性や、自分から行動しなければ何も変わらないと知っていても、「⑫自責(想)」中だと、心を縛り上げている状態では、周りの受け止め方も「⑲忘れてた(受)」とか「それは却下だよ」と、自責の振る舞いを無反応で示してしまうのです。

そのやり取りを見ている客観視する親や家族など身内の者からすると、「どうして誰も声をかけてくれないの? 酷い! あの子に優しいのに、うちの子は無視なの!」などと「⑤嫉妬(行)」した反応を示すことがあるのです。

あるべき教わった対応を、自分や、自分と関わる大切な人が「⑫自責(想)」で下を向いているからといって、「無視」されたり、「⑲忘却(受)」されたりすると、「⑤嫉妬(行)」せずにはいられなくなるほど、イライラしてしまうことが起きてしまうのです。

「私だったら直ぐ助けに行くのに!」

と、「⑤嫉妬(行)」を募らせている側からしたら、対応の仕方がすぐさまイメージ出来るものの、「無視」や「⑲忘却(受)」に囚われている側からしてみると「気づいていない」「対応の仕方を解っていない」「思いつくそのものがなくなった状態」である為、イライラしている人が「あなたたち! 無視してないで声かけなさい!」と指示して、その命令で動かして「⑫自責(想)」で辛い思いをしている人に働きかけて、改善を促すことがあります。

しかし、これは指示された時のみ動く事象に陥ることが多く、イライラしている人は、何度も何度も同じような現象を目にしてしまうのです。

「何度言ったらわかるの!」

と、指示してやり方を教えても、それが受け取れずに身についていない状態を認めたくないのです。まして「⑲何度でも忘れるものは忘れます。そんなやり方では却下です!(受)」という忘却の有り様を見せつけられたら、イライラしても当然と言えるものです。

イライラさせる「⑲忘却(受)」する側が悪いのか、イライラする「⑤嫉妬(行)」する側が悪いのか?

また、「⑫自責(想)」で落ち込む人を見てもイライラすることがあります。上手く教えられずに、相手の気分や解釈を変えられない現実に「⑤嫉妬(行)」する人は多くいるものです。

「⑤嫉妬(行)」のイライラする人からすると、「どうしてそういうマイナス思考しか出来ないの?」と、「⑫自責(想)」が思いつく人の気持ちを和らげたり、改善することが出来ないでいます。

「⑤嫉妬(行)」のイライラする人からすると、「何度も教えても一向に覚えようとしないし、わざと嫌がらせするような真似ばかりして来て手に負えない」と感じることがあり、「⑲忘却(受)」に逃げ込む人の気持ちが理解できず、ホトホト疲れ果ててしまいます。

⑤毘楼博叉「嫉妬(行)」

⑫畢婆迦羅「自責(想)」

⑲毘楼勒叉「忘却(受)」

これら三者(受想行)に相対して「識」という記憶にまつわる部分に問題が隠れており、その記憶に働きかける意識を持たなければ改善出来るものも改善出来ないものです。

記憶は、過去の体験によって記録されているものです。

過去の体験で得た経験や知恵によって支えられている「解釈(受)」があるものです。

過去の経験則において学んだ通りに今の現実で表現しているものである為、今の感情表現は、過去の記憶からもたらされた「恩恵(想)」であるのです。

その過去の記憶の蓄積した情報によってもたらされた「解釈(受)」「恩恵(想)」とが合わさり「意図(行)」が生じ、「意識(識)」して働くようになり、周りの人への反応現象とした態度で示すようになります。

立派になったでしょう?(言う通りにしてこのようになりました)

と、「⑫自責(想)」に明け暮れる姿や、「⑲忘却(受)」でしか反応出来ない姿や、「⑤嫉妬(行)」とした表現方法しか持てなくなるのです。

いったい、どんな体験をすれば、受け止めることさえ「忘れる」ような反応をするかと考えるなら「深い哀しみ」であり、それが目の前に居る「親」や「師」が原因であることや、辛い体験を思い出すNGキーワードになる場合なら、「⑲忘却(受)」に逃げ込む姿になって現れることが想像出来るでしょうか?

過去の記憶を辿れるものならば、「㉖弾圧(識)」があると伝えるものです。

過去世の出来事なら、幾らでも辛く苦しい体験などあるに決まっていても、過去世の自分からは未来の今の自分にまで悲鳴が届くほどの絶叫があるとするなら、耳を塞ぐために「⑲忘却(受)」に逃げ込まなければならない事情があるものです。

仏との対話は、そうした見るに耐えない哀しい出来事を直視して、解決する糸口を与え、「⑲忘却(受)」の彼方へと現在とは無関係だと切り離してはいけないことを伝えるものです。

母がイライラして、子どもが「何度言っても聞かない」とする「忘却の中で逃げ惑う姿」だと想像するなら、子どもには「㉖弾圧(識)」されている勢いで精神ダメージが際限なく訪れている瞬間だとわかるなら、やり方を改めることに「意識」することが出来る筈です。

「あの人と同じやり方をしているのに、どうして私の言うことは聞いてくれないの?」と、「⑤嫉妬(行)」する場合も、その心理の裏側では「㉖弾圧(識)」されている記憶に触れてしまう問題であるなら、関わるみんなの問題だと意識し直せると、解決の糸口が見つけられるかも知れません。

心は自由に想像出来る力がないと「生命力」とした活力がもたらされないものです。第五チャクラとなる領域は、霊的な資質を高める為に欠くことの出来ない「言葉」を扱う部分です。

それが深く傷つき、「㉖弾圧(識)」されてきた記憶がある人に取っては、「神仏なんて信じて良いわけがない」「神仏に祈っても何もしてくれなかった」「神仏の加護があると信じて尽くしてきたのに全てを奪い取られて何も残らなかった」「あなたの言う通りにしてきたのに! 全部あなたのせいだ!」と、思い出したくもない体験がそこにあり、その蓄積された体験から今の自分に届けることは「耳を塞げ」という「⑲忘却(受)」が正しい反応としてしまうのです。

それが母の声だけ聞けず、兄弟からなら聞ける場合とか、先生の言うことは聞けなくても、友だちからの説明なら理解出来ることがあるのは、その為です。

「㉖弾圧(識)」された記憶に触れないようにする生き方なら、「好きな気持ち」を大事にして生きていけるものの、転生の数々で傷だらけになると全方位で「㉖弾圧(識)」体験に直結すると無気力のまま、何もしようとしなくなり、引きこもりや、悲観する生き方しか出来ない人もいます。

霊的な資質が「㉖弾圧(識)」によって欠落してしまうと、精神の回復に至る診療機関でも「効果が薄いところ」に通うことになります。現代においても、「弾圧」が続くため、回復不能な世界を維持しようとする無意識に取り込まれてしまうのです。

勉強しているのに「気が反れること(受)」や、お金を払って習っているのに「集中出来ないこと(想)」や、回復する為や、向上する為に努力をしているのに「結果に繋がらないこと(行)」に到り、「ため息が出てしまう」ものです。

「㉖弾圧(識)」の効果は、「無駄な努力と気づかせない(受)」無意識の働きがあります。

「㉖弾圧(識)」の恐ろしいこととして、「絶対に『夢や希望を捨てない』という願っても叶わない罰があると感じさせない(想)」があります。

霊的な資質を失ったり、そもそも信じていない人や、物理的な証拠しか見たくないとしている人ほど、「努力すれば報われる幻想」に閉じ込められるものです。

「夢を信じて貫いていけばきっとある時世界が開けるに違いない」とした妄想を理想と履き替えて信じ込む人がいます。

そうして「夢中になる人」「成果が出ていない事実を直視していない人」を指摘しては、「馬鹿みたい」とツンツンして「⑤嫉妬(行)」している人も同じ世界に閉じ込められているのです。「私はあなたたちとは違うから」と言う言葉や、「どうしてそんなことも解らないの?」という台詞や、「人の気持ちくらい考えなさい。どれだけ迷惑していると思っているの?」などと言わなくても届いている情報を執拗に届けるのは、「今こそ弾圧仕返してやる」という恨みが晴らされている時でもあります。

ただ、この恨みは、再び恨みを買うことになり、際限のない業(カルマ・行為)にハマり込む為、改善の見込みがないサイクルを生んでいることに気づかなくてはなりません。

考えてみればわかることですが、誰もが解けない問題は、自分も加害者(受)として「弾圧(識)」に加わっているからです。被害者(想)も自分であり、傍観者(行)も自分であり、そのように解釈して受け入れて主観者(識)として全体を掌握しているのは紛れもない「わたし自身」なのです。

これが人生は一人芝居のようなもので、自分が全配役を演出しているようなものとした解釈の一端です。

自分が加害者であり被害者であり傍観者であり主観者であるのですから、全てを統括管理している主観するわたし自身が認知を改めれば、全てを変えられるものです。

人に責任転嫁するのを止められたとき、自分の問題だと受け止め直して変えていける道が始まります。

婆藪仙像(ばすせんぞう)㉖

婆藪仙

人の心は、「頭で行動を制御する働き」、「胸で気持ちに従おうとする想いの働き」、「腹に据えている知恵知識で応対する働き」、「背で蓄積された人生の生き様を語る働き」があり、他人を通して出なければ「背中で語る姿」は認識出来ないものです。

自分の背中は自分では見えない為、背中の姿は他人に指摘されて解るものです。

味方に対して、背中を見せようとしない隠し事をするような真似をされるようになると、味方は何も言えなくなるものです。

味方が言えないなら、敵対する側からなら背中を指摘出来るので指摘するのですが、敵対している故に、素直に聞き入れられずに反発されて届きません。

背中にある「意識しなければ解らない記憶に蓄積された問題」は、他人から告げられる痛々しい言葉を素直に聞き入れられる「はい」から始めなければ何も始まらないものです。最初に「いや」と否定する姿を見せたなら、改善する意志がゼロだとは人は学んでいません。

何度も何度も、繰り返し繰り返し、丹念に丁寧に教え続けることで「改善」を果たせると思い込んでいる人がいます。

それは真理においては過ちです。

哀しい自我の発想では、繰り返し学ぶことで身につけるものだと信じたいだけです。

無駄を重ね、無意味な目に遭い、辛く苦しいだけで価値をもたらされることがなかった不遇な人生を送ると、自分のような辛く苦しい目に遭わせたくないと思うものです。その「無駄なことはしなくていいよと教える人が優しい人」ではないかと学ぶからです。

婆藪仙(ばすせん)というこの老衰痩骨(ろうすいそうこつ)という痩せ細った老人の姿は、「この人の言うことなら聞き入れておいた方がいい」イメージが届きます。

手に持つ巻物に「人生の優しい歩き方」と題名がついているとして、あなたはその内容中身が「優しい」と感じられるものが含まれていると想像出来るか感じようとしてみるとよいものです。

苦難の果てに得たものが、情報として記録されているなら、その文面を読むだけでも苦難を授かるほどのものでなければ情報としての重みや深さがありません。

読もうとしても読めないのは、読むための情報が深すぎて多すぎて、負荷に耐えられない精神的脆弱性があるだけだとするなら、当然の結果です。

読めないと諦めて、捨てて生きても、今度は人生の中で辛く苦しい体験を味わうことになるだけです。

そして、もう一度巻物を読んだとき、全部必要なことが書いてあり、読めてしまうのです。書物から読んで学べるものを、なんと無駄で無意味な人生を送ってしまったのか? と嘆き、また自分のようにならないよう、書物にしたためて後世に残そうとするのです。この婆藪仙(ばすせん)に習って、自分が婆藪仙(ばすせん)になった気で情報を与えようとするのです。

けれども、今度は本当のことや、重みや深さを込めるに込めて価値を持たせると、自分と同じように後輩が読めないと嘆くのです。書物を捨てるのです。学びを諦めて、自分なりの生き方を歩き出すのです。かつての自分の姿をその背中に見るのです。

そしてかつての自分でも読めるように書物をしたため直すのです。

もっとわかり易く、明朗快活になるよう軽くして浅くして価値を無価値に近づけると、読めるように変わり後輩に読んでもらって喜ばれるのです。

けれども、今度は書いてある通りにしない人や、書いてある通りに守る人と争いが生じてしまい、無駄で無意味な人生を送ることに到ってしまうのです。

価値あるものを残せば、読めなくなり学べません。

価値を薄めて残せば、読んで貰えるものの学んだ気になる為、学んだ気になった者同士での衝突が起きて、学べたとは言い難い結果に陥ります。

人は経験を活かして欲しいと願うものです。

しかし、その無駄や無意味に到った経験こそが重要な意味や価値をもたらしているとするなら、「自分のようにならないように教えを残す」のではなく「自分のように無駄や無意味を味わい尽くすように教えを残す」ものでなければなりません。

それでもやはり、読んで貰えないものです。

この時、「読ませること」を目的にするから「体験が疎か」になり、結果同じように無駄で無意味な人生が「読めなかった人」にもたらされるので、「解るように教えた結果、解らない人生を歩いている」現実を与えているのです。

「解り易く」というのはとても重要なものです。

それでも、「自分が解っていない状態」において、「解り易い!」という判断力は、どこからやってくるのでしょうか? 未知なる知恵なのか、既知なる知識なのかと考えれば、既知なるものに埋没してしまうのです。

知らないことを知る勇気は、知っている事が全部間違っていて無駄や無意味なことをして来たといつでも言い切れる「無知の知」と呼ばれる知力を備えていることです。

無知の知の意味や定義は、「自分の持ち得ている知識や知恵が本質であるなら、問題に出くわす現実を見ることはなく、見たとしても解決出来る為に、悩んだり、考え込んだりする時間の要素が発生することがないと気づいているもの」であり、「新しい知識や体験がもたらされる時において、何一つ新しく生み出された「今この瞬間」において、未来を予知する無意味さを心得ており、これまでの蓄積された経験を自身の手で無価値にしてしまう方が最大限の歓喜を招き入れられる条件だと解っていること」であるものです。

婆藪仙(ばすせん)は、この姿においても「何も知ってない」と言い切る仏性の姿です。それでも、この仏に尋ねれば、何でも答えてくれるのです。

けれども、その問いかけも、答えを聞き入れる勇気や、全てを無意味にしたり、無価値として捨て去られる智慧を持ち得ていなければ何も聞けないものですし、何も得られないものなのです。

この仏に問いかけて、応えられた言葉を聞いて、「難しい」と内心で感じたら、「難しいです。この言葉や、あの言葉の意味や解釈が私には理解していないようです。どのような意味を持っているのか教えていただけませんか?」と、食い下がるように自分の無知さを自分で明らかにする力が必要なのです。

先生に対して「解らないので教えてください」と、問いかけて生徒が「解りました! ありがとうございます」と答えを聞き、歓喜しているやり取りがあれば良いのです。

しかし、先生が生徒に対して「口答えするな!」「よそ見する奴があるか!」「自分で言い出したんだろう! 途中で投げ出すな!」など、生徒に圧力をかける先生がいます。これらの言葉の数々が『弾圧』だとしたら、先生の未熟さを生徒に責任転嫁して、先生の未熟さを棚上げしている現実を、誰もが改善出来ないものです。

もしも、厳しく生徒に叱りつけようものなら、「虐待だ!」「権力乱用だ!」「傷ついた!」など、生徒が先生に圧力をかける人がいます。これが『弾圧』だとしたら、生徒の横暴を先生の誰もが止められない現実となります。

これらは全員が困ることに到ります。

たった一人でも足を引っ張る行いをすると、最終的に全員が互いに足を引っ張り合うこととなり、全滅するような結果に到るのですが、個人個人の発想の中では「このくらいのことで」という気持ちがあるものです。

しかし、輪廻転生の過去世で叩いた自分が、今世で自分が自分に叩かれて黙り未来世で過去世で叩いた自分を叩き返して辛くなり、過去世の自分は未来世に逆らってまた叩くのです。そしで今世の自分がまた叩かれて黙るのです。これがループしているなら、今世の自分は叩かれっぱなしで辛くしんどくなるので『㉖弾圧(識)』の状態だと表現するのです。

どの時代の自分も解釈を全て間違えているから、「今が辛い」のです。

「伴侶が何もしてくれない(行)」……イライラし、別の人に優しい姿を見せるなら『⑤嫉妬(行)』で狂いそう。

「私だから駄目なんだ(想)」……イジイジし、別の人を優しくしている姿を見て『⑫自責(想)』に追い詰めて沈むばかり。

「嫌なことは忘れて楽しいことしよう……でも……(受)」……ウダウダし、別の人から優しくされている姿を見て『⑲忘却(受)』に逃げ込み、見なかった状態へとすれば幸せで居られると思い込んでも浮かない感覚でフワフワしてしまう。

どれもこれも、『あなたのせいだ(行)と(あなたの分身である)私を弾圧する(識)』、『わたしのせいだ(想)と私を弾圧する(識)』、『みんなも忘れてしまうようにしている(受)と(みんなで)私を弾圧する(識)』をしてしまい、人のせいにして叩いた分だけ、自分が叩かれているという痛みそのもので我が身に返ってきては、叩き返しているのです。

人は鏡という知識や、人を責めても何も改善には到らないと知っていたとしても、それら「理解し易く解り易い簡単な知識」でも、現実問題として使えていないのです。

知識が役立つものなら「イライラ」する感情などないです。「ムカムカ」も「ウジウジ」も「ウダウダ」も「フワフワ」も目撃しないし、相談されたら解決出来るものです。

知識が役立たないと気づくには「自分の無知さ」を認める以外ありません。「経験値ゼロ」であり、「その出来事における解決レベルが素人レベルである」だけに過ぎないものです。

そして自身を育てたり、頭を下げたり、解釈を全て改めたりするのが「恥ずかしい」と感じていたり、「情けない」と思っていたり、「嫌われているに決まっている」と信じ込んだりしている為に、行動に移さないものです。

問題を引き起こしたレベルのままでは、問題は解決出来ない為、成熟して見せなければ改善する機会も得られません。自力で引き上がるしかないのです。

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ワークを教えます。

自分は正座して土下座しています。実際に態度でそのような姿をしてワークしてみると効果的です。婆藪仙(ばすせん)を正座して土下座している自分の前に立たせるようにイメージして、見下ろされている状態にします。その二人の姿を傍目から見ている構図をイメージし、その客観的な目線から二人に向けて「全てを改めたいので、自分の悪いところを全部指摘してください」とお願いすると、思い浮かぶものがあるので、それを繰り返し無くなるまで続けてみてください。

婆藪仙(ばすせん)は、求めない限り答えてはくれないものです。

人の心の悪いところは、何も与えず自分だけが恩恵にあずかろうとするものです。哀しみに傷ついた自我は、その深い哀しみを正当性があると主張したいため、元気では駄目なのです。衰えていなければ他人から優しくして貰えないからです。元気に溢れ、優しさに満ち満ちている人から優しさを貰おうとしてしまうのです。

けれども、それでは心は治らないです。

そもそも傷ついていないことが本質なのです。

深い哀しみを負ってしまったレベルでは、深い哀しみを癒やすことは出来ない為、飛躍したレベルに霊性が高まり、仏性に従って見せて深い哀しみを治そうと決心した時、治る道が始まります。

輪廻に陥った繰り返しの連鎖から抜け出すには、自分が全否定で拒絶した相手と再会を果たさなければなりません。逃げ続ける忘却の狂気より、土下座してでも全部をやり直すと決める道に踏み出す勇気が持てたとき世界は歓喜して目覚めを与えてくれるように変わります。

全ては自分の出す言葉が、どれだけの決心を持っているかに限ります。

最初の一声に、言霊が乗った言葉を話せると良いですね。

輪廻を終わらすと決めたとき、この記事に出会えているものです。

お疲れ様です。

ここからが始まりです。

「智慧(ちえ)を授かりなさい。」婆藪仙(ばすせん)は、語りかけてくれました。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。




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