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十二神将を考察する①毘羯羅(びぎゃら)

リーディングマスター・まさみちです。見えないものを読み解き、見える世界だけでは読み解けない部分について解説したり、その力によってのみわかる世界を伝えているものです。(2/88)

八十八カ所巡礼の旅の一回目の1〜22番札所まで巡る中で、薬師如来の十二神将の存在に触れたので、これについて解説していけたらなと思っております。

薬師如来は、病気治癒(特に目病)、健康長寿、災難除去、安産祈願、現世利益などで知られている如来です。

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福岡市美術館のHPより転載です。

リーディングマスターとして、この薬師如来像が伝えるものは何かというと、「目先のことに心を奪われてしまい、今を生きることを忘れていないか?」と目覚めを促す存在のようです。

薬師如来は、十二の方角七仏という解釈によって認識が変わる仏さんですから、その意識の合わせ方により解釈が変わる特徴があります。(部衆たちは、だいたいはそんなイメージで良いです)

一回目は、毘羯羅大将(びぎゃらたいしょう)です。

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字を見ても全くもってさっぱりわからん神将です。しかも夜叉とか神明とかあるようなので、ググっ検索してみても理解しがたいものです。

夜叉とは、荒れ狂うだけで人の話を聞かないエゴエゴな姿。

神明とは、知恵に富み、成すべき事をわかっている目覚めた姿。

くらいに識別しておいてください。大将とは、その両方を兼ね備えているもので、あなたの見たいように見せてくれる存在であり、祈り方一つで受け止める閃きも変わることを示しています。

毘羯羅大将(びぎゃらたいしょう)は、言い訳ばかりで、自分に損害が及ばないようにあの手この手で責任逃れをする心を示しており、追い詰められることにも成らないように逃げ道を確保し、また追い詰められても人のせいにすることの一点張りで現実を受け入れようとしない心の姿を現すものです。それを事実を認めさせ、自分の心と向き合わせる仏の姿です。

毘羯羅の羅の意味は、無限ループくらいに捉えておいてください。

十二神将の全てが無限ループで苦しむ人々の心を薬師如来は夜叉から神明に導く存在だという解釈です。

ですから、薬師如来の導きを受けている「自分自身が、自分の無限ループのエゴから脱する為の知恵を授かる妙法がある」として、毘羯羅大将(びぎゃらたいしょう)を通して薬師如来に祈って、気づきを授かるものなのです。

自分が薬師如来化するくらいのイメージ力が大切なんですよね。(明王、菩薩、如来というレベルに応じた気づきの起こし方というのもあります)

毘羯羅大将(びぎゃらたいしょう)と薬師如来を重ねてイメージしつつ、「言い訳づくしのいつもの自分」と「悟りを開き、物事に果敢に挑戦する自分」とを重ね合わせた時、気づきの対話が出来るシステムが起動して、治る導きが始まるものだとイメージしておいてください。

ざっくり過ぎるほど、ざっくりと紹介しました。

ポイントは、夜叉に墜ちている毘羯羅(びぎゃら)というエゴエゴの塊の自分と共感し、毘羯羅(びぎゃら)という神明に目覚めて自分でない仏そのものになっている自分と共感しているかのように設定して、それを薬師如来がサポートしてくれて気づきを促してくれるやり取りがあるイメージをするってことです。

事例として紹介すると、以下のようなやり取りが出てくるものです。

毘羯羅夜叉「だって、怒りたくないもの」(←よく思う概念)

薬師如来「なぜ、怒りたくないのかい?」

毘羯羅夜叉「傷つけたくないの」

薬師如来「どうして、傷つけたくないの?」

毘羯羅夜叉「悲しい思いをして欲しくないの」

薬師如来「悲しい思いをするとどうなるの?」

毘羯羅夜叉「何も出来なくなるから嫌なの」

薬師如来「それから、どうなるの?」

毘羯羅夜叉「みんなから馬鹿にされて出来ないままになるの」

薬師如来「出来ないままだとどうなるの?」

毘羯羅夜叉「馬鹿にしながら手を貸してくれるの」

薬師如来「手を貸してもらうとどうなの?」

毘羯羅夜叉「何も出来ないままでいいになる」

薬師如来「何も出来ないままでいいんだね」

毘羯羅神明「ううん、もうやめる。自分で出来るように成りたい」

薬師如来「馬鹿にする人たちはどんな関わりになる?」

毘羯羅神明「みんな教えてくれて出来るようにしてくれる」

薬師如来「馬鹿にされていた意味は何だったの?」

毘羯羅神明「私にやる気を持たせる為だったって解った! みんなありがとう!」

薬師如来(微笑んでいる)

といったイメージのやり取りが出来ると、薬師如来と十二神将との関わりがうっすら見えてくるかと思います。毘羯羅(びぎゃら)が自分のエゴの代弁者であり、薬師如来が導き手だということ。このやり取りを見ている自分もいるという感じです。

薬師如来という「如来」レベルを求められるので、中々難しいレベルでの問答ではあります。ですので、「意識高い系で行こう!」とYouTubeのかつてのオープニングでは歌っていたりするものです。

菩薩レベルだと、無限ループからの脱出は出来たり,出来なかったりするものなので、挫折し易いというのもあります。

自分の病や、人間関係のトラブルで、後に退けない状態ほど、こうした意識を切り替えて、問答することが出来ると、意外な解答を閃き降ろせるようになり、詰まっていた概念からの脱却が出来るものです。

毘羯羅大将(びぎゃらたいしょう)は、言い訳魔を叩き直してくれる存在と解釈すると良いようです。


さて、いかがでしたでしょうか?

薬師如来の十二神将というもののイメージが少し掴めたのではないかと思います。

仏教には「仏・法・僧」という三宝を大事にする概念がありますが、キリスト教なら「父と子と聖霊」になり、ヒンズー教なら「創造神、維持神、破壊心」といった概念となり、どれも同じものを指していることに気づけるかがポイントです。

宗教はうさんくさいと、敬遠しつつも、本質的に実践レベルで有効的に使える技術であるなら、妖しいとか怖いなどと恐れずに済むなら思考力として取り入れる価値はあるのではないでしょうか?

道徳的価値観だけではない、根源的で本質を突く、実践量子力学ぐらいに思っていただけると、見えない世界の面白さに触れていけるのではないかと思います。

では、また。

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    リーディングマスター・まさみち


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