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全てを見抜く 金比羅像⑬

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。心について日夜研究に明け暮れている心理カウンセラーです。毎日、全ての時間という程、研究に割いているような生き方をしております。それだけ打ち込むから見えてくる世界観があり、それをシェアすることで極めることの大切さが伝わればと思い記事にしています。(53/88)

心理学の欠点は、自分の欠点に気づけない盲点があることや、とかく恋愛事情が残念なことになっている方が多く、自分の恋愛はダメダメでも人様の恋愛への洞察やカウンセリングは出来る人がいたりします。まぁ、まずは「自分の恋愛どうにかしろよ」というツッコミは何かしらの理論武装で防衛しているでしょうから、つつかない方が得策でもあります。

多くの方は、「時間がある」という概念の中に閉じ込められているものですし、仮に「時間は無い」と見抜いていても、時間の概念はもの凄く便利なものなので使った方がいいものです。

「今」しか時間は存在しないにしても、概念として「昨日」や「過去」「明日」や「未来」は存在しているかのような扱いが出来ます。

予測や推測は、あくまで仮説でしかなく、それが本当にそのように至るのかどうかは「その時」にならなければわからないものです。

この「目的や目標として未来に向けて投げかける」思いと、「今、実態としてどう在るか」の思いとの意識の働かせ方の違いに気づかないと難しい問題があります。

「今」を認知する主体と、「今以外」を認知する客体の認識があり、「今以外」客体と、「今以外」客体同士で、自己認識し合うことも出来る為、その客体同士の自己認識を「エゴ」と表現しており、「今」に留まる主体が欠落している状態があると、先々で大変な目に遭うので「目を覚ませ」と悟りを開くことを促すものです。

金比羅(こんぴら)という仏像は、香川県の「金比羅さん」で親しまれている有名どころの仏像です。文字通り「金」「比べましょうよ」と言い続けている仏さんだと、適当に認識してもらっていいものです。

本物(金)比較して、物事を解釈することを忘れないようにという例えでも良いです。

本物を知らなければ、何も捉えようがないからです。

自分の中に「純粋性」などの「仏性」「聖なるもの」など、「真理(法)」などという根源的な「何か」言葉にしようのないものを捉えられないと、どれだけ経典や書物や修行に励んだとしても、本質を捉えられていないなら、その修行は無意味なことです(この場合、悟りを開いていない目的未達成に言及した表現です)。

その本質を掴むことが出来るなら、仏像も経典もほぼ不要になるものとなります。あるに越したことはないものの、今の時代であるなら様々な雑学や辞書を開いたり、他分野に触れ学びを重ねていても「悟りは開ける」ものだと告げる切っ掛けの仏像です。

金比羅像⑬

金比羅

人は自分の感じた感覚は「正しいもの」だと信じます。

「辛い」ことを「辛い」と思いますし、「悲しい」から「悲しい」と認知するものです。

マイナス思考や、ネガティブ感情は、認知しても「それらは存在しない架空のもの」という知識があるかどうかだけでも、物事の判断力や洞察力における思考能力の質が増すものです。その質が問われる重要な情報(智慧・ちえ)となるものなので、真理に根ざした知識は必要です。

仏法僧など、「仏性となる純粋さそのものの自身の眼差しならどうしたいのか? するべきことを全て知っているとするなら何を思いつくのか?」といったものや、「法(真理)となる、目の前の事象における問いに対する答えが合致している相対性で結ぶと消えて無に到るものか?」といったものや、「僧侶となる、最低最悪な思考や感情や認知や記憶を抱く人ならどんな気持ちでどのように行動するのか? また最高最善な思考や感情や認知や記憶を抱く人ならどんな気持ちでどのように行動するのか? そのあらゆる組み合わせを総当たり戦のごとく当たらせ、一人の時から、二人の時、上下関係の時、仲間でいる時、敵対する時、裏切る時、助けるとき、心変わりする時など、数え切れない程の人との摩擦を想像し、それが我が身であっても同じ行動に至るならどんな解釈を持ち合わせているのか、話し合うと何が浮かぶのか?」といったものを、取り組んでいなければ見つけられないものがあるものです。

辛さや悲しみは、存在しているが、架空のものだとするなら、「錯覚現象」などとなります。

消え去るものを実態だと捉えている心は、どのようにして成り立つのか?

それを考える必要があります。

何かを基準にして、それと比較し「正しいか、正しくないか?」という認識を持つしかないものです。

その基準は普遍的に変わることなくそこに存在しているものでなければなりません。

その対象の先を「金比羅(こんぴら)」と扱うものです。

金比羅(こんぴら)の、金(こん)は、「全ての人々を仏の化身と扱い、『自身も仏の化身として振る舞えているかどうかを常に問い続けているか?』と扱い、邪な眼を向けてはいないか? 鬼のように嘘などついてはいないか? 不純な思いで行動してはいないか? とする、美しく、光り輝く、真の心に従うべくもの」と指します。

比(ひ)は、「あらゆる体験をし、絶対的な仏法を身につけ、悟りを開いた境涯でいられないなら、目の前の人を「正否」を判別することなど出来ないことを常々忘れないように自分に戒めるもののことです。心が曇ることを心得、見落とすものがあると承知し、自分の背中は見えないことに気づいており、誰もが自分の真似事しかしない存在だと気づいた上で関わりなさいと教えるもののこと」と指します。

羅(ら)は、「自分は解った気に陥り易く、経験を重ねることでパターン化させてしまい、新しいものの捉え方を受け入れず、肩書きや経験数の長さで物事を判別してしまい、関わる相手に「はい」と「いいえ」を自由に選択させてやることが道と見誤り、「小さいはい」と「大きなはい」を見せ、「大きなはい」しか選びたくないような道を与えず、相手に「新しい道」を授かることもせず、本質を見誤って、盲目的な生き方をしているかも知れないこと」を指し示すもののことです。

金比羅(こんぴら)とは、「悟りを開いた者にしか見えない景色がある為、悟りを開いていない者が、開いた者を識別することは出来ないもので、「悟りを開いた」人と対峙した時、「否定感」が出てくることを自身の未熟さと認知し、人のせいにも、自分のせいにもせず、「否定感」を消し去り、「肯定感」に整えることが出来る人のこと」を示すものです。「全ての人が神仏の化身である故に、全ての人が「悟りを開いた仏陀である」と見る人で、自身の中に湧き上がるマイナス思考や、ネガティブ感情が偽物だと見抜いており、湧き上がって来てもその場で迷妄だとして消し去り、無に還すことをして、平穏を取り戻せる人のこと」を指すものです。また、輪廻から抜け出せない他者を見つけると「手を貸して、輪廻の苦しみの連鎖から抜け出す手助けをしてくれるもののこと」をいいます。

人を黄金のオーラに包まれた神仏の化身として扱い関われる意識の在り方のことです。

化身とは、自分自身にとって、最も不出来さや、未熟な部分を映し出して存在してくれるもので、常に「許せない姿」「怒ってくる姿」など、「頼むから止めて欲しい」という苦手な部分を突いてくる姿で関わってきます。

神仏の化身だからとして、自分が犠牲に陥ることや、暴力を振るわれるままにするなどは違い犠牲をやめることや、暴力から逃れることが答えでもあるため、常に自分にとって「不可能だ」と感じさせることから関わられ「可能だった」と気づかせてくれる相手「金比羅」とし、気づきに至らせる存在「金比羅」とするものです。

自身も、相手も、その周りに関わる人も全員、「金比羅」であるイメージして、「私の不出来な姿を見せてください」と問いかけると、どんな返答が浮かぶか受け取ってみることです。その答えに対して、「出来る姿へと導いてください」とお願いすると、どんなアドバイスを貰えるのか、対話してみてください。

金比羅は、本来の自分を見失い「自己喪失している状態」からの回復を導いてくれる存在です。意識しなければ始まらないものです。

呼吸無意識でも続けてくれるものですが、深呼吸は意識して行うものです。

それは他人から「はい、深呼吸して落ち着いて」という号令指示があり、「あ、深呼吸しなければ」と、言われて気がついて、深呼吸を繰り返して気を落ち着かせるように整うものです。

他人が過緊張で、呼吸が浅く乱れているとわかったら、「深呼吸して!」と促したり出来るものです。それは言う側に「深呼吸すると気分が落ち着く」というメカニズムを知っているからであり、その効果を体感で持ち得ているから取り組ませようと働きかけるのです。

このシンプルな関係性が金比羅です。

他者が他者を気遣う姿です。

これが、高度なものになると(コミュニケーションの問題において解き明かすことが出来ないもの)になる場合があり、つい自分を見失い、カッとしたまま怒鳴ったり、失礼なことをされたと憤る正当性があると信じて疑わず、自分がネガティブ感情という存在するはずのない架空の感情に従って行動している異常さは見えないのです。

「喪失感(自我喪失)」は、眼を曇らせます。
「見えているのに、気づかないもの」や、「取り組もうとしていた」にも関わらず、「ド忘れする」などして、「うっかりにも程がある」怒られてしまうもののことです。

大切な自分自身(伴侶や親友や家族など)を自分のせいで失った体験があると、「喪失感」を抱き、永続的に哀しみに浸ります。

問題の本質に気づかせようと、周りの人々が関わりますが、家族や伴侶など、近づくと傷つけ合うような関わりに発展してしまい、優しくしてあげたいと思いつつも、苛立ちをぶつけることなどしてしまうのです。

他人においても、親切を仇で返されるような目に遭うと、怒りに呑まれることが出てきてしまうものです。

マイナス思考や、ネガティブ感情は架空で幻想です。

持ち得ている場合は、何かしらの錯覚状態に陥っており、心の機能として正常ではないと気づかなければなりません。

そんなマイナス思考や、ネガティブ感情などは、全ての人が持ち合わせていると言っていいほど、誰もが持ち得ているものです。それでも、本質は自分だけが哀しんでいるだけで、他の人は悟っていて、神仏の化身としてわざと劣った姿として目の前に登場してくれていると扱えると、錯覚から覚める気づきが来るようになります。

容易いことを言っているのではありません。
とてつもなく難解なことを解説しています。

深呼吸するように、全ての人を金比羅さんだとイメージしてみると、マイナス発想や、ネガティブ感情がそれだけで薄らいでいくものです。

自分の思い込みから抜け出す「眼」を持ってください。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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