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形に出来ぬ 緊那羅像⑪

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。見えない行間に込められた言うに云えない思いなどを紐解き心の問題や、現実の展開がうまく行かない原因を解き明かし、真実の今を生きられるようにサポートするお仕事をしています。(51/88)

たくさんある仏像の意味合いをリーディングで紐解くと、どんなものが届くか実践中であります。仏像を前に、手を合わせて「拝む」とか「願う」など、みんな都合の良い利益をもたらしてくれるものと考えがちです。

実際問題、損得勘定を踏まえた方が関心は得やすいし、それにより問題が解決することがあるなら、めっけものとした解釈もあります。

仏像の姿は、自分の中の仏性の形のようなものです。

「こんな形相や衣装の自分がそこにいて、こちらをじっと見ている」

と、『これ、私の仏性なのね〜』と、なんとなく「そうなんだ」と思いながら、とりあえず手を合わせて、願うなり、相談するなどして対話してみてると面白いことがイメージ出来るかも知れません。

緊那羅(きんなら)を調べると、音楽神などで紹介されているものの、「だから何?」というような、インド神話だろうが、仏教に帰依した扱いをしていたとしても、具体的にどうなの? という部分はさらりと調べるレベルでは出て来ません。

八部衆という「天衆(てんしゅう)、龍衆(りゅうしゅう)、夜叉衆(やしゃしゅう)、乾闥婆衆(けんだつばしゅう)、阿修羅衆(あしゅらしゅう)、迦楼羅衆(かるらしゅう)、緊那羅衆(きんならしゅう)、摩睺羅伽衆(まごらがしゅう)」の8つあるものです。

人が物欲や、権力欲や、守護欲など、心の仕組みを調べていくと、この八つに分類する意識の表し方があることがわかる為、そっち方面というニュアンスが強く、緊那羅(きんなら)には、「半身半獣の人非人とも、人にも畜生にも鳥にも該当しない」解説があるように、仏像を見つつも、形容しがたいものとしたイメージを持つときに機能する心の仕組みを表しているものだと考えてみると良いようです。

ただ、手を合わせて拝み、相談するだけと、「半身半獣の人とも畜生とも鳥とも言えないもの」なんだとイメージして拝み、相談するとでは意識の働かせ方が変わることがわかると、仏像ごとに意識の使い方の違いを伝えようとしているものです。

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これは、Wikipediaにあった緊那羅の写真↑ですが、下のWikipediaの八部衆にあった緊那羅の絵↓とも違いますし、二十八部衆の仏像のそれとは大きく異なります。

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どちらも同じ意識の領域を具現化しているものです。

「言っていることが解らず、地に足がついておらず、危ういから止めさせようとしても言うことを聞いてくれない相手を理解する時に使うもの」だと、届きます。

緊那羅像(きんならぞう)⑪

緊那羅像

人との関わりには、ルールや規則など、暗黙の了解においても、モラルやマナーなど、然るべき秩序を守ることが求められていくものです。

歳を重ねるごとに、「子どもだから許されていたこと」が、「青年になると許されなくなること」が増えていくように、自制心や状況を見て何をすべきか判断出来るよう育つ必要があるものです。

このある程度年齢を重ねれば「学べるもの」が、「学べない」姿で現れたり、意気揚々としていた人が、何かを切っ掛けに挫折体験をするなどの壁にぶち当たると、意気消沈してしまい、どうにもこうにも動きが取れなくなることがあります。

「気持ちはある」ものの、「身体が動かない」ような感覚にハマり込み、何の害もなく、笑いや楽しさをもたらしてくれるマンガやゲームの世界だけが、自分を支えてくれるものとなることがあります。

好きなものには、価値判断や行動力が伴うものの、社会生活や、学業や、仕事というものには全くといっていいほど「何をしていいのかが解らなくなる」という感覚に呑み込まれることがあります。

何のために生きているのか、勉強しているのか、働いているのか? 真剣に解らなくなり、「意味なんて無い→だったら楽しい意味を与えて生きればいい」という知識を与えてもらったとしても、どんな励ましや応援をもらっても、「その時だけ涙する」など、「頑張らなきゃ」と思いついても、数日後には元の自分に戻り、動けなくなって、マンガやゲームに入り浸って動けなくなってしまうのです。

人は、現実という「現(うつつ)」「実(みのり)」区別がつかなくなるものです。

何が、リアリティーのあるもので、どれがファンタジーなのか見分けられないとは知らないのです。

真理を伝える仏教の法は、法律のようなマニュアルではなく、今この瞬間に問いかけにより、閃き降ろされるものです。しかし、経典に書いてあるような「教え」は、昔のことであり、伝統的に受け継がれているものであり、「今、問いかけ」「今、答えが来る」ような仏がそこにいて、諭してくれるものではないのです。

人と人とのコミュニケーションにおける「現(うつつ)」は、簡単であり、わかり易くあり、それでいて取り組み易く、初心者にも親切であるものです。

人と人とのコミュニケーションにおける「実(みのり)」は、難解であり、複雑であり、それでいて奥深く、初心者から熟達者までも虜(とりこ)にしてしまうものです。

この「現(うつつ)」「実(みのり)」の橋渡しが上手く機能すれば良いのですが、「現(うつつ)」ばかりを重視して育てられたり、「これだったら簡単!」生き方を掴んだ気になった者が、難関に出くわし、挫折して立ち直れなくなるのです。

どこからやり直していいかが見えないのです。

それを『絶望』と言いますが、絶望している相手や、自分自身をどのようにして「回復」させたらいいのかが解らないものです。

「絶望」嘘をつける人「夢と希望を諦めない!」とがむしゃらに頑張れたりします。後に疲れ果てたり、資金や運営が続かずに「絶望」してしまいます。

「絶望」自分に対して隠し通せる人「地道にやるしかない!」と、自己鍛錬を怠けつつも、自分に叱咤しつつ頑張ります。監視や追い詰められる環境がないと逃げ出してしまうため、自分の向き合う弱さに「絶望」してしまいます。

「絶望」意味をわかっていない人「他の方法を模索中!」と、調べごとや、セミナーや、勤勉さで努力を重ねて「いつか」に向けて頑張ります。けれども「いつまでも」結果に辿り着くことがなく、それでも「いつか」に向けて頑張るという道を入りつつ、ある時が来たら『何もやれていないじゃないか』と我が身に気づいて「絶望」できます。

「絶望」した以上、回復するものではないとする人は、「諦めました」といった姿を見せつつ、表面上は「何とかしなければ」という形だけは整えようと頑張ります。けれども、「諦めました」という姿がすぐに出て形さえも整えられないため、周りも諦めてしまい易く、手に負えない姿に嫌気を向けるようになり、最後の頼みの綱が切れたとき『やっぱり』と安堵しながら「絶望」するものです。


緊那羅(きんなら)とは、緊(きん)は、「解釈を一方的な思い込みから抜け出せずにいることで、どれだけリスクが高まろうと、自滅に追い込まれようとも、自発的に物事を止めることが出来ないさま」のことを示すものです。

那(な)は、「あらゆる方法論を尽くしても、聞き入れてもらえず『わかっている筈なのに出来ない』という、可能な時と、不可能な時との差異が周りには判別不能であり、どうすることも出来ない手詰まり状態のこと」を指すものです。

羅(ら)は、「教えが代々受け継がれることで、教えた人と、教わった人が時代を越えて自分が教えたものを自分が受け取ったとき、その教えの矛盾や、解釈の歪みを目の当たりにして、心が引き裂かれて正常な判断能力を喪失している状態のことを示し、繋がり合っている転生の輪廻の輪を崩すまで、永続的に続いてしまうもの」のことを指します。

緊那羅(きんなら)とは、「見せかけの期待で、形だけの養育を受けて育てられ、危機を回避するあまり、実践的な問題解決能力を十二分に与えられず、放置されたところから、『純粋に好きなものだけで道を作りなさい』と無限ループから抜け出す方法を授ける力のこと」を指すものです。


「(親の)いい顔を見せたい」と、問題解決能力が無いにも関わらず、あるかのように示してしまい、間違った誘導を永続的に続けていることが問題ですが、そのような親に育ててしまったのは、先祖代々を遡ると、自分自身に行き着くという縁の輪があります。

親や強い圧力をかけてきた家族や師などいる場合なども、相手も自分と同等の深い絶望を抱いていると考えてみるなどすると、仏像と対話する機会が得られます。

人と人との会話は、気持ちよく響き合うやり取りがよいものです。

行き詰まったり、話が弾まない時などは、互いに打ち明けられない深い哀しい体験があるものだと推測してあげられるとよいものです。話題が見つからない、話しかけても続かない、何を言っても途切れてしまう時は、「自分しか知らない話題」で良いので話して説明してみることです。

その時、「絶望」は和らぐかも知れません。

「絶望」は、「絶望した」と認めた時点で絶望ではなくなってしまう難しい感情です。身動きが取れずに、自分の状態がよく解らない時は「絶望しました」と緊那羅像と一体化しているイメージを持ち、小さな声でつぶやいてみると良いです。

自分の声色が、弾むように、楽しく、笑い出せるように「絶望しました」と云えるようになれば回復します。

緊那羅(きんなら)像が持つ、妙鉢(みょうはつ“シンバル”)の楽器が、鳴らせば音が余韻を残すように響いていきます。

心が軽やかな時は、良く鳴り、響き渡っていきます。

心が重苦しい時は、鳴っても響きが悪く、楽しくなりにくいものです。

それでも、続けて行く内に、音が響くようになり、気持ちも楽になることがあります。

絶望は、誰か他人を全幅の信頼を寄せられたとき治るものでもあります。

周りから奇人変人のように思われていても、それでも「信じるよ」と告げてくれる人がいないと、始まらない回復の道がここにあります。

緊那羅(きんなら)は、そんな唯一の存在として側にいてくれる仏です(変人代表のようなイメージ)。

それには、まず自分が他人に対して唯一の存在でいてみてください。

世界が変わります。


いかがでしたでしょうか?

ではまた。

リーディングマスター・まさみち。



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