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補完する 毘沙門天像⑳

心と言葉を研究するリーディングマスター・まさみちです。「物事を動かす!」決意すると、それと連動した世界が創造され「気づき」が訪れる毎日を過ごしております。外に向けてアプローチする! と表明すればそのように整って行くのがわかるので、この世界は不思議であり面白いものであると感じております。(60/88)

仏像が伝える情報をどうにか説明出来ないかと、物体に残る残留思念やら、時を超えた制作者や概念形態の意識を辿り、紐解いてみようという試みをしています。

毘沙門天(びしゃもんてん)は、多聞天(たもんてん)とも表現されており、仏教においても、色んな側面が一人歩きしているような仏さんの一つとしたイメージを強く感じます。

立体曼荼羅における多聞天の紹介は、このようなイメージですが「毘沙門天」としてググると、「十二天」とする表現も出て来て、私としては初めて知る情報などもあります(この十二天の意識の使い方も興味深いものがあります)。

三十三間堂の千手観音の眷属としての毘沙門天と、十二天での毘沙門天では働きが違うのも感じられるので、同じ名前でありながら役割が違うなどは「わかるかっ!」って学ぶ側からしたら感じてしまうようなものがあります。

インド神話ならこうだった、仏教に帰依してこうなった……。????

しかも省略されすぎてわからない。

なんの意味があるの? と思いつつ「神さま」とか「仏さま」というものは、祭り上げるものとして敬うものとしているけれど、それって「人」ってことらしいから、人を敬うってこと? と解釈すればよいの? と悩みます。

敬われる人であり、慕われる人であり、祭りにはみんなで思い出してもらい、賑やかに楽しそうに人々が営んでいるのを見守るような眼差しになってイメージした意識で物事を捉えて見てってこと?

などと、考えるなら「少しだけイメージ出来るかも?」と、思うものです。

物事を「どこまででもポジティブに捉える」には、相対するネガティブの分量を相殺することが出来るほどのパワフルなポジティブなイメージが必要であるのです。

「財宝」の守護などと元々は扱われていた毘沙門天が軍神の要素が加わるなど毘沙門天のイメージをどのように扱えばいいか図りかねるものですが、「掛け替えのないものを求める精神性」と、表現するイメージに近しいものとなります。

仏教は、仏といかに対話するかの道を説いているところもある為、自分の内なる仏性と対話し、開眼する方法を見出すには「こうしたらいい」、「ああしたらいい」というワークを示す側面があります。多くの仏像がその一端を担うものです。

毘沙門天が軍神と例えられる部分は、「勝利の先にある平和」「掛け替えのない求める精神性」となるものです。

多聞天(毘沙門天の別称)とする「よく聞く者」としたニュアンスも、この時を持って聞けるタイミングは他にないと、自分の欲して止まない情報は「聞き漏らさない姿勢で聞く」とする「掛け替えのない求める精神性」のことを伝えるものなのです。

七福神における毘沙門天であるなら「一期一会でしか得られない貴重な瞬間」は、常に「掛け替えのないものを求める精神性」であるから、「今を生きる」ことに全力であれば、福は自ずと得られるようになることを知らせてくれるものです。

それ故に、「財宝(豊かさ)」であり、「勝利(平和)」であり、「好きな道」であり、「今この時」であるなど、毘沙門天が慕われるものの本質的な要素は「打ち込む姿勢」のことを指します。

千手観音の眷属としての毘沙門天は、『異性』『真心』に対する「掛け替え無いものを求める精神性」欠落しているのを補うことを指すものです。

何が生きることにおいて心の問題になるかと問うなら、心が、他人に対してや自分自身に対して、関心を抱かなくなり、興味が希薄になることです。

異性に興味が欠落することも大変な問題ですが、自身に感心が欠落することも重大な問題となり、「セルフネグレクト」という言葉があるように、自分で自分の世話をしない状態に陥ると、自分虐待を平然と行う人となり、部屋が荒れ放題や、不潔のままでも気にしなくなるなど、会社や他人には知られないようにしているものもあれば、周りも周知の事実となっているものもあります。

千手観音は、あらゆる方法で人々を救済する仏とされるものであり、三十三間堂全部の仏像を同時にイメージ出来るなら、千手観音の意識の在り方が想像出来るかと思います。

ただ、それには一体一体の仏像の働きや機能というものが、心の中の働きかけや知識として、どのようなものかを蓄積し、関わる相手に瞬時に差し出せるようにならないことには、イメージしたところで実践的なものとして使えるかどうか? それが肝心な部分です。

家族や伴侶など、または他人に相談を持ちかけられて、求めていた答えを与え、相手が『ありがとう!! 本当にありがとう!!』掛け替え無いもの得たとわかる対話があるならよいものの、出来ている部分ばかりを見ていると、事実を見誤ります。

もしかしたら、相談した相手は「①無視された」「②無理させて来た」「③不快にさせられた」「④避けられた」「⑤何も言いたくなくなった」「⑥その人の前で笑わなくなった」「⑦その人を嫌った」感じた事実があるのを直視出来ないようになることがあります。

相談しても求めた解答が与えられていないと、人は相手に対して『誤解』を抱くようになります。聞いている内容と、答えてくれる内容一致しないことはとても辛いものです。

「普通そんな受け取り方しないよ?」

と、「誤解」したいきさつを相談される側の方が、相談をする方をなじるの(否定する)です。

これはとても『哀しい』体験となり、家族の分断や、伴侶の亀裂となるものです。

毘沙門天(びしゃもんてん)⑳

毘沙門天

人は、自分にどれだけ関心を抱いてくれているのか? 興味を持って貰えているのか? 知っていてくれているのか? 側にいることを認めてくれているのかを確かめたいものです。

①ここにいていいのか?

②側にいていいのか?

③役に立っているのか?

④喜んで貰えているのか?

⑤発展性があるのか?

⑥豊かさを与えられているのか?

⑦好きでいてくれているのか?

と、わからなくなるもので、常に家族や伴侶など、自分を認めてくれる存在がいるかどうか確かめたくなるものです。

当たり前に存在する家族や伴侶などは、不安要素を笑い飛ばしてしまいたくなるほど、「気にしすぎ」だとしたいものですが、悩んでいる当人に取っては切実な問題です。

①居場所において「怒られている」体験ばかりなら、心地よさは無いものです。

②存在としての関わりが「いつも否定文から始まる」なら、気まずさしか無いものです。

③行動した結果の多くが「『違うでしょ!』と自発性を非難される」なら、無気力にしかならないものです。

④愛情におて「ありがとう」と、相手が受け取れる表現で伝えていないなら、元気が消え去るものです。(愛情は、「プレゼントで返す」「手を貸して一緒に関わる」「喜びを感謝の言葉と表情など身体全身で表す」「手間暇かけて時間を作り願いを叶える」「理解し合えるまで手を取り合って語り合う」などが成立した意味での「ありがとう」というニュアンスのことを示します)

⑤会話において反射的に出てくる言葉が「ネガティブさを含む」ものなら、言葉を生み出したくなくなるものです。

⑥体験において「意味が無い」ような振る舞いをされるものなら、存在価値をその瞬間瞬間において形成することが出来なくなるものです。

⑦誰にも目につかぬ一人でいる時に「寂しそうにしている」時間が他人から見てそう感じられるなら、関わりの全てが苦痛の中でしかないと気づくしかないものです。

これらの①〜⑦はチャクラと連動しております。

人と人、パートナーシップや、親と子などの関わりにおいて、受け答え一つ一つを見たときに、「その家庭にいない方がいいよ!」「別れた方が互いのためになるよ」と、それぞれの単独の姿を見たときに、第三者となる大勢の人が差し伸べる手立てがないような関係性に陥っていないか、自問してみる必要があります。

「別れなさい」と、表現しているものではありません。

破綻しかかっている家族の絆や、伴侶との結びつきなど、毘沙門天(びしゃもんてん)となり、家族や伴侶や親だったり、子だったりする相手に対して「財宝よりも大事なもの」「どんな苦難(戦争)でもくぐり抜けて得たい平穏」「どこまでも追及して極めていきたい大切なもの」「ここで見捨てるなら、他の誰であっても同じ結末になるから諦めない」とする境地が抱けるかどうかにあります。

家族は血の繋がりがあるものの、異性となる伴侶は「代わりがいる」錯覚があります。

これはとても難しい問題です。

苦痛まみれに至ってしまった伴侶なら、別れるに限ることもあります。

苦痛から逃げ出しても、また出会った伴侶にまた苦しめられるという連鎖もある為、「代わりなどいない」とした踏ん張りがなければならない時もあります。

そして「一人が気楽だ」と、伴侶を持たず、家族からも離れて暮らすことを答えとする人もたくさんいて、問題そのものに直視する必要性を見出そうとしない人もたくさんいて、取り組みそのものの価値を感じない人たちもいるのです。

「伴侶を求めるから痛い目に遭う」と感じている人は、出会いそのものを求めなくなります。両親の姿を見て、自分の育ってきた環境を見て、「パートナーを望む」なんて『有り得ない』と感じる人もいます。

毘沙門天(びしゃもんてん)は、そんな心が冷え切り、余りにも達観したものの見方が出来ている自身に、「心が壊れたいきさつを探らないか?」と呼びかける存在です。

家族と喧嘩する姿や、家族から背を向ける姿、伴侶とやり合う姿や、伴侶に泣かされる姿、伴侶に手を焼かされる姿など、見ている毘沙門天からすると『なんとかしてやらないと』と、思うものなのです(全く自覚無く、感じなくてもです)。

家族に映し出される自分の姿、伴侶に投影される自分の姿など、「あれが自分の姿」などとは絶対に思いたくないものです。それでも家族である相手も「笑うときもある」ものですし「楽しげにしている」時もあるものです。伴侶も「優しいときもある」ものでしたし「力になってくれたこともある」ものです。

駄目なところや泣きたくなることしか思い出せないものですが、そうでない部分もあるものです。全く「いいことがない」人もいますし、“きれい事を並べなさい”と伝えるものでもありません。

「①怒るしかない人」も、そうなる環境で育てられているのです。

「②不満しか無い人」も、そういう関わり方しか与えられていないものです。

「③冷たくしかしない人」も、優しさや和やかさで包まれた体験がないものです。

「④「ごめんなさい」を言わない人」も、耐えられない何かを抱えて精一杯な姿とは誰にも知られたくないものだから、それしか出来ないのです。

「⑤つまらない人」も、気の利くことや、笑わせられるほどの度量や器量を持たせて貰える精神性を、あなたにだけ向けられないとても寂しさを抱えるものなのです。

「⑥意味の無い人」も、最も大切な人にだけ最も重大な弱点をさらけ出して機能しなくなっているヘルプサインだと、誰も気づいてあげられないのです。

「⑦存在価値の無い人」という程に、自分の中に湧き上がる自己存在否定感というものは、家族や伴侶や他人が持ち合わせているものであり、自分だけで無いとわかればいいものの、それがわからないものなのです。(自分の内面に現れる虚しさなどに伴う寂しい感覚は、自分の感情ではなく、家族や周りの人たちの感情であるとわからないものなのです)

みんな「哀しい体験」の果てに、そのような姿に至って「今」があるのです。

「なんで、そんな関わり方しか出来ないの?」

と、嘆いたり、疑問に思ったり「建前でも使ってよ」と願ったりするものの、「これしか見せる姿が無い」とは理解されないのです。

そして嫌われるのです。

「全力でこれだ」

としても、

「全力でそれは無いな」

と、扱ってもらえずに、「相手を理解しようとしたけど、相手が全力出さないから、理解できない」と、諦められてしまい、問題は解決せぬまま時間だけが過ぎ去るのです。

本当は「好いている」家族なのに、「嫌われている」と感じる「誤解」があるのです。

本心は「好いている」伴侶なのに、「もう大っ嫌い」で構わないとした「誤解」があるのです。

様々な問題が隠れているものなので、「嫌いは、嫌いのままでいい」とした方が、ややこしくなく、スッキリ割り切って考えられると感じるものの、人の心は「嫌い続ける」と、心が破綻していくとは知られていないものです。

「①どうでもいい」

「②関係ない」

「③感じない」

「④わかりたくもない」

「⑤嫌われたままでいい」

「⑥見たくもない」

「⑦信じない」

と、心を閉ざすことを正当化してしまい、自分の傷ついた心を守ろうとする姿がここにあります。

それに声をかけ、心を開かせていく切っ掛けを得られるのが毘沙門天なのです。

毘沙門天(びしゃもんてん)の意味は、

毘(び)とは、「価値観や解釈の積み重ねは、自分の経験した中にしかなく、その情報が歪になり、問題までも抱えている状態では、『正しい判断』なども持てていないとわからなくなることがあることを知らせるものです。何かと比較して自分の客観性を保持し、洞察する力を持つもののの、その比較対象の全てが壊れた情報になる時、誤解が発生し、修復不可能な行動にでること」を意味するものです。

沙(しゃ)とは、「心は、その人がその人にしか感じられる無いものがあると知っており、他者からではその境地や感覚というものは『推し量る』ことしか出来ないものである為、全てにおいて『否定する必要の無いもの』と知っており、仮に否定するならば正当な解答を与えてやり、納得させ合点に至らせ、誤解を解き明かせるだけの関わりが持てること」を意味するものです。

門(もん)とは、「今ここで、問われた悩みに、今ここで解答を与えられる存在として、心を無にし、体験を空(からっぽ)に明け渡し、相手そのものの人生の全てを自身に映し出し、天の閃きを持って答えてやること」を意味するものです。

天(てん)とは、「自分ではわからぬことを、優れた人なら、一枚も二枚も上手の解答を与えてくださるに違いないと、自分で無い存在に成り代わって見せ、上位の立場なら必ず今ある課題に対する解決方法を示してくださるに違いないと信じた姿のこと」とした意味するものです。

毘沙門天(びしゃもんてん)とは、「目の前に起きた体験が肯定出来ないものであるなら、その場で閃き降ろし、肯定できる状態へと変貌させられる智慧をもたらす器のこと」とした意味があります。

心の門番となる毘沙門天に自分で尋ね、自分が心を開き、自分の持つ純粋なる真心であるなら目の前にある悩める人へ解答を届けてあげられることを伝えるものです。それが目の前にある悩める人が自分自身であることもあり、伴侶であることもあり、家族であることもあるのです。友人や他人であることもあるのです。

浮かない顔をしている人を見かけたなら、それは「自分の姿が映し出されている」とするなら、あなたは自分にどう関わっているのかが問われている「今がある」のです。

毘沙門天を鏡の中にイメージします。鏡の中にいる毘沙門天に対して「私が一番誤解している問題は何ですか?」と問いかけてみてください。そのまま解答から問題の本質へと掘り下げていき、納得出来るレベルまで問答を繰り返してみてください。

異性や家族における問題をイメージしながら、問いかけると具体的「誤解したまま」の部分を発見できると思います。

自分の偏った姿を、自分で見つけ出し、自分で救い出せるようになると、様々な問題を取り除くことが出来るものです。

第三の目とも言われる第六チャクラの機能を回復してみてください。

いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。





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