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十二神将を考察する⑦真達羅(しんだら)

リーディングマスター・まさみちです。通常の思考する能力を高めた状態のことを「リーディング」と称して、普通では読み解けないものを読み解く力として機能させ有効活用し、主に「心理カウンセリング」に使っているものです。(8/88)

このリーディング能力は、「神秘的な力」とも呼べるもので、千里眼や神通力とも評されるものでもありますが、到って普通に「思考する力」でもあるのです。ただ、心の世界ですから、「思考出来ている」か? 「思考できていない」か? 客観的に判別出来ない代物です。何故なら、客観視して見ている主観がある為、客観で捉えようとする限り、使えない思考力です。使うには「悟ること」が大切になります。

そんな悟りを開いている私が、見ている世界において、薬師如来の十二神将と出会いましたので、どんなものなのか? 仏像というか、仏像を生み出すに到った経緯や解釈までもリーディングして紐解いてみると、何が紐解かれるのかを調べて記事にしているのがこのシリーズです。

薬師如来は、病気治癒(特に目病)、健康長寿、災難除去、安産祈願、現世利益などで知られている如来です。↓

スクリーンショット 2021-03-11 23.48.38福岡美術館より転載

リーディングマスターとして、薬師如来が伝えることを降ろしてくると「教えに忠実なことは優れていることではなく、執着しているに過ぎない無明の状態と考えられる知性を養いなさい」と、これまた手厳しいことをメッセージとして伝えてきております。

薬師如来さまは、現世利益の仏さまと認識できますが、真摯に向き合うと、根本的な問いかけを突っ込んで来られる厳しい仏さまでもいます。

七回目は、真達羅大将(しんだらたいしょう)です。

スクリーンショット 2021-03-17 17.30.12

十二神将は、個別では大将と呼び、その中でも夜叉と神明というものがあります。

夜叉とは、目的を果たすまでの間に、災難や障害や病気を引き起こし、「達成したかったのに邪魔された……無念」と真剣に取り組まずに済ませられるエゴエゴな姿。

神明とは、問題の全ては自分の想念の歪みにあると見抜いており、黙々と悟りを開く為に邪念を払い続ける目覚めた姿。

災難、障害、病気までもエゴエゴと扱う真達羅大将(しんだらたいしょう)は、手厳しいどころの騒ぎじゃないね。薬師如来とセットで繋がり合う姿ですから、災難、怪我、障害、疫病などを祓う力を示してくれるのですから、当然それにまつわる話が出てこなければならないものです。真剣に取り組んでいるフリでしかないから、病気にかかるなんて言われると泣くしかないですよね? 自覚あるならともかく、無自覚の場合もありますから。だから、薬師如来にお願いして、自分のエゴエゴを祓う力を授からないといけない訳です。

真達羅大将(しんだらたいしょう)は、先達である師や親の顔色を伺い、優秀でなければならない使命感に追いやられてしまい、本来持ち得る純粋さ(梵)を捨ててしまい、否定的概念で教えに忠実な自我を形成してしまった心の姿です。本来、誰もが素直に持ち得ている純粋さ(梵)を感じ取り、自然と共に生き、風になり全てに行き渡り、火となり暮らしを助け、水となり命を潤し、土となり現し身として人の為に尽くす仏の姿です。

は、これまでの慣習をここで曲げてはならないと伝統を守ることだけに執念を燃やしてしまい、人より規律を大事にし、規律に操られるだけの無限ループに陥っている状態のことを指します。

これはどこにでも見られる心のことで、組織運営などすると現れる問題です。伝統芸能なども息が長くなるほど、伝統という規律を重んじてしまい、呼吸して成長し老いて死に、生まれ変わる規律にはなっていないと、変化出来ない形骸化だけの規律に到り、面白味もなければ新鮮味もなく、それでも伝統だという威光だけを振りかざして人を処罰して排斥して、規律を守るものだけが生き残れる仕組みにしてしまう問題について、追及する神将(大将)です。

悟りを開いた薬師如来の導きを受けている「自分自身は、自分を嘘で誤魔化して、疑問を抱かぬように盲目になろうとし、関心を無くすように仕向け、純粋さを忘れたままにしようとしていないか?」と、真達羅大将(しんだらたいしょう)を通して薬師如来に祈って、気づきを生み出すものなのです。

このシリーズは、毎度、“悟りの導きを受けている自分自身”という印象を与えるようにしています。仏との対話は「悟れるように」とするものではなく、「悟っているとするなら」という扱いで取り組むのです。薬師如来も自身の中にある仏の姿ですから、お寺で対話するなら、拝むのではなく、拝まれているなら? というニュアンスで対話することで、見える世界が変わるのです。

真達羅大将と薬師如来と自分自身を重ねて一つにします①。真達羅夜叉と自分自身と一つになるイメージ②と、真達羅神明と自分自身と一つになるイメージ③と、薬師如来だけのイメージ④とを用意し、①②③④を一つに重ね合わせたイメージをして、四つで一つになった自分と自分とで対話することで見えてくる答えがあります。

ざっくり過ぎるほど、ざっくりと紹介しました。

ポイントは、全てのいきさつを知り尽くしている状態にあるとすることです。規律だけを右習えと守らなければならないことも、今の時代における仕組みや規則がなるべくしてなっている過程も知り尽くしている前提として、規律などに縛られている自分が薬師如来がサポートを受けて、解放されていくイメージです。

事例として紹介すると、以下のようなやり取りが出てくるものです。

自分「仕方がないのです。どうしていいかわからないから」←挑戦すべき行動を促されると感じる心の声。
真達羅薬師如来「いつから、わからないのですか?」

自分「ずっとです」
真達羅薬師如来「何歳からですか?」

自分「幼い頃からです。三歳か、五歳か、そのくらいから」
真達羅薬師如来「幼い自分に真達羅薬師如来が味方になります。仕方のない諦めた理由は何が考えられますか?」

自分+神明「理由なく怒られた」
真達羅薬師如来「怒られた場面に戻り、怒った人の気持ちや想いを感じてみると何が浮かびますか?」

自分+神明「助けてくれようとしていた」
真達羅薬師如来「何故怒られたのか想像できますか?」

自分+神明「死んでしまうのではないかと不安にさせたから」
真達羅薬師如来「その不安を受け入れたらどんな気持ちになりますか?」

自分+神明「力になってくれている安堵感があります」
真達羅薬師如来「どうしていいかわからない理由はわかりましたか?」

自分+神明「怒られた理由を知らないままだったからです」
真達羅薬師如来(微笑んでいる)

といったイメージでのやり取りがあります。全てを知り得ている状態から、迷子になっている自分の心の謎を解き明かすのですから、閃き降ろされた気づきがなければ心が軽くなることもないのです。

規律などを守ることを優先にした生き方になると、「戒め」ばかりが重要視されてしまい、自然界の摂理を無視してしまうようになり、気づけば病気を抱え込んでしまい、意味もわからず伏せっておく方が、規律を乱すよりもマシと考える無意識があるものです。

病気を治す薬師如来ですから、心の中にしまい込んだ自分ルールで自分を締め上げて病い(今回のサンプルは感覚障害として自分の気持ちを言葉に出来ない障害など起こす)にかかる自分をどうか癒やして楽にして欲しいものです。

前回は、安底羅大将を紹介しました。

12体居ることで、干支と結びついて表現されていますがWikipediaでは、色々説があるようですがリーディングすると、定まる干支は存在せず、一人ひとりが問いかける内容や環境などにより、並びが変わるものと閃き降ろされます。

庶民にわかり易く、「どの神将を拝めばいいか?」という問いに答える為に用意された識別方法と解釈します。

これまでの記事と比較すると、問いかけ方法などもバラバラですから、神将たちを12体並べて、問題を探りやすくしているにしても、難しすぎるというのもあります。それ故、修行僧たちが相談者の代わりに、読み解いて治療法を伝えることも大事なのですが、中医学などの漢方や、西洋医学の知識も合わせて学ばないと、閃き降ろされる薬師如来のメッセージを具体的に伝達出来るものでもないと解るものです。

真達羅大将は、正解となる教えに執着してしまい易く、教えを学べたことを盾にして、間違った解釈を持ち合わせている人たちの気持ちに寄り添い、間違いから正解への道筋を与えるのではなく、「正解のみ与える」ことに盲信してしまい、習って、従えない人の気持ちを疎かにしてしまう問題があります。

正解となる教えを持ち得ている安堵感が、敢えて間違った解釈に身を堕とすことをして、納得出来ない人や、従えない人の心境と同じになり、間違いから正しい道へと誘導出来る優しさを見出すことが仏の御心に従うものだとイメージ出来ると良いのです。

容易くはないですけれどね。

自分がどんな教えに忠実なのか、それを消し去っても問題がないのか、考えてみるきっけかにしてもらえるといいですね。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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