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十二神将を考察する⑧招杜羅(しょうとら)

リーディングマスター・まさみちです。リーディングはreadingとleadingの二つの意味を持ちます。readingは見えない原因を「読み解く」ことで、問題の解決や、悩みを解消することをし、leadingは見つけられない難題を「導き答える」ことで、人生の停滞を解消し、歩き出せるようにするものです。リーディング心理学として、心理カウンセラーとして活動しており、統計学の心理学では紐解くことが出来ないサポートをしております。(9/88)

心理学のルーツを辿るとヨーガの中に智慧を見つけることが出来ます。詳細は割愛しますが、リーディングすると紀元前12世紀辺りから、心について説かれていて、書物として編纂されるようになったのが、紀元前8〜2世紀辺りとなります。

現代では、フィットネスとしたダイエットやスポーツ要素、ストレッチという柔軟性を促すものとしてヨーガは知られていますが、ヨーガを極めると様々な事柄を瞬時に理解する叡智を授かれるようになるものです。それ故に心理学と扱い、深層心理に隠された想いなど紐解き、悩みを解消すると共に、現象における問題を無くすことが出来たり、無為に執着することのない行為をすることで、迷いを祓い自然と共に生きる力として人生を全うできるようになると説いている教えがあります。

そんなヨーガの派生版仏教も同じようなものがあり、ヨーガはヒンズー教として現代も信仰を集めていますが、仏教はヒンズー教の身分制度を否定した平等感をもたらす智慧ですので、この違いが心理学としてどのように作用し、違いがあるのか? 同じ事を言っているのか? どう解釈していけばいいのか、仏教の中で人気のありそうな薬師如来とはいったい何であるのか? その十二神将とはどういう意味づけで偶像化されて、何に気づかせようとしてくれているのかを紐解きたいと思い、このシリーズを記事にしています。

リーディングすると、世界の五大宗教は、このようなテーマを持っていると降ろされます。

「木」……キリスト教……「救われていると気づけ」
「火」…… ユダヤ教……「一つの生命である」
「土」…… 仏 教 ……「平等であり真理に基づく」
「金」……イスラム教……「嘘の心に打ち勝て」
「水」……ヒンズー教……「無為に執着せず義務を果たせ」

という陰陽五行によって分類出来てしまうくらい同じ物事を伝えているので、宗教戦争ほど無意味なものはないけれども、人が持つ自我は争いごとから抜けられません。こうして五行で分類出来てしまう故に、五大宗教が偏った概念で出来ており、これら五つを一つにして見る智慧こそ必要なのですが、悟りでも開かないと解るものも解らないものですし、悟らない人に教えたところで悟れるようになるものでもないのは、歴史を見れば明らかです。

薬師如来は、病気治癒(特に目病)、健康長寿、災難除去、安産祈願、現世利益などで知られている如来です。↓

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福岡美術館より転載

リーディングマスターとして、薬師如来が伝えることを降ろしてくると「真実は自分で作り出すものですが、嘘をつく人に好まれる生き方ばかり選ぶようになると、何も見えなくなり病気に倒れることになりますから、自分までも欺かないことですよ」と、これまた胸に刺さるメッセージが届きます。

薬師如来さまは、現世利益の仏さまと認識できますが、真摯に向き合うと、根本的な問いかけを突っ込んで来られる厳しい仏さまでもいます。

八回目は、招杜羅大将(しょうとらたいしょう)です。

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十二神将は、個別では大将と呼び、その中でも夜叉と神明というものがあります。

夜叉とは、誰かを戒めに従い裁き、処罰を与えることで自身が正義であり、自らは悪ではない(取り締まる側だから)と高らかに宣言し、同胞を罪人と定め、刑期を終えても許さぬエゴエゴな姿。

神明とは、罪を許し、自らに嘘をつかすのを止めさせ、心の穢れを祓い、今できる全力を果たし、常に美しく尊ばれる人柄で在る目覚めた姿。

日本人の気質に、他者より抜きん出て自分の実力を示すよりも、多数により抜きん出る人を叩き、貶(おとし)めることで、自分たちが優越的立場を維持出来ると錯覚するところがあります。出る杭を打つという同調圧力といった類いです。

許せないことを許していく「許し」ではなく、はじめから持ち得る「許し」しか使わないところもあり、「許せないから許さない」とした風潮しか持たず、価値観や概念を途中で変更することを極端に恐れる民族でもあります。「寝返る」ことは「裏切る」ことになる為、「許さない」から「許す」に切り替えることさえ、「許さない同盟を結ぶ」仲間たちからは、「許していい筈がない」理屈から抜け出せない為、「許す」に切り替えた仲間を「裏切り者扱いとして集団で裁き、叩きのめす」ことをしないと、調和が保てないとしているのです。

招杜羅大将(しょうとらたいしょう)は、見聞を広め、多くの知恵知識を集めて、より優秀な価値観や定義を生み出そうとし、培われた知恵知識により罪悪を周知させ、制度を設けさせ、規範となり、邪悪な行為や愚弄(ぐろう)することを取り締まり、健全な社会生活を送れるようにする心の姿です。善悪に偏らず、知恵知識が高まる故に問題を生み出すことを心得、戒めによって縛るほど心は暴れるものと理解を示し、苦しみの声を聞き入れ、不遇さや非道と扱われる惨めさに寄り添い、愚行をさせずと身を挺して阻止し、智慧を与え身につけさせ、共に笑い合えるように導く仏の姿です。

は、どこからどう見ても健全であり、普遍的に共通する理想の知識を前にすると、それにより従えない者の声を永遠に聞き入れないようにする無限ループに囚われてしまい、一度でもミスをした者に容赦のない責め苦を与え続ける行為のことです。

という文字は、で形成されている(金水に含まれる気そのものの字である)ことからも、「智慧がたくさん授かる場所」というニュアンスを含みます。鎮守の杜(もり)というように、神社の周りにある木々が生い茂る場所のことを杜(もり)と扱うように、この木々たちの生命力により、穢れが祓われ、智慧が閃き降ろされやすくするメカニズムがあります。それ故に、き入れる(もり)として、招杜(しょうと)の字が当てられているくらいにイメージしていただけると、この大将の役割が「閃く力」には大きく役割を果たしていそうなことが伺えます。

しかしながら、これが知識故の執着が生まれると、知識による絶対視となり、「教義に書いてあるから」という理由を破ったら、教義に処罰のルールがなくても、処罰を作り出し、裁いては罪人を増やし続けてしまう悪習にもなる問題があります。

冒頭で五大宗教について書いたのも、教義は所詮、書物に記された教えにしか過ぎず、今、閃き降ろされ、今、話されたものではなくなり、かつて閃き降ろされた古い話であり、今、悟りを開いている人が解説すれば解るものが、今、悟ろうとしている坊さんたちが解説したところで解るはずもないことが、多くの人の幻滅と絶望を誘い、宗教的価値を喪失し、形骸化に明け暮れているジャンルに対して侮蔑の概念が形成されている訳です。

自我をもてはやす現代文明に、自我を死滅させて目覚めさせる宗教に、一般の方々が価値を見出す筈もなく形骸化して宗教が自我に無効なものとなることで生きながらえる五大宗教に落ち着いたのではないかと、リーディングすると薬師如来から返事が来ます。

繋がり方
200mほどの大きな招杜羅大将をイメージ
し、見下ろされている自分がいます。小さい30cmほどの薬師如来が自分の両手の平を胸の前で開き、その上に座っておられます。「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」と、薬師如来が告げてくれます。正直に許せた時、招杜羅大将は小さくなり、最後には自分と等身大になり、真心を持つ自分の姿になります。「許せないを許そう」とした時、様々な思いが過ります。それを一つ一つ見つめていき、不毛さや、意味の無さや、自分が最初に悪さをしていたと気づくようイメージが湧きます。両手の平に座る薬師如来に見つめられつつ、刀を持ち、睨んでくる招杜羅大将に凄まれながら、関わる人たちを許していくイメージです。

この繋がり方のポイントは、この記事全文がヒントになっており、正しいとされる知恵知識さえ、悟った人の口伝でもなければ理解に到らないもので経典や聖典を信じては、裁くばかりのエゴエゴの人を生み出してしまい、幼稚園児でもわかる「ごめんなさい」しようとか、「ごめんなさい」したら許しました、とする概念が大人になるほど「複雑な事情がある」と言い逃れてしまい、自らが自らを裁き、許さないままにした罪人に仕立て上げている事実を見失うのです。

今世の自分が、過去世の自分を裁いていたり、過去世の自分が未来に居る今の自分を否定して許さずにいることさえあるのです。

今を生きることの何たるかが解らない為、不安や苛立ちに呑まれてしまうのです。

事例として紹介すると、以下のようなやり取りが出てくるものです。

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「悪いが許したくない」←許しを促されても反発心が強く出てしまい抗えない
招杜羅夜叉200m「同じ裁きを与えよう」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「相手の方が悪いのに許す意味がわからない」
招杜羅夜叉200m「更に辛い裁きを与えよう」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「だって、酷いのは相手じゃないか!」
招杜羅夜叉200m「お前の身代わりに大切な家族を犠牲にして辛き裁きを与えよう」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「やめて!」
招杜羅夜叉200m「『薬師如来の声を無視した罰として“やめて!”と叫んでもやめてくれない辛さを与える』という言いつけを実行するまでだ」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「子どもの頃に私をいじめていた人たちを許します」
招杜羅夜叉100m「いじめられて、どんな価値があったか?」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「周りの薄情さ、先生の頼りなさから、自分の身は自分で守るしかないと学んだ」
招杜羅夜叉100m「周りは薄情なのか? 先生は頼りないのか? 逆の立場ならどうしていた?」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「助けたし、庇うよ」
招杜羅夜叉100m「あなたが助けない時、庇わない時はどんな時だ?」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「助けに値しない人や、助けを求めてこない人」
招杜羅神明5m「自分で自分をいじめていた事実を知り、「いじめ」で何を学んだのか?」

薬師如来「裁くことをやめて、許していい出来事を言葉にして招杜羅大将に伝えなさい」←このワークの基本的な問いかけ
自分「震えている自分に叩いて立ち上がらせようとせず、抱きしめて“ごめんなさい”と言います」
招杜羅明神等身大「気づいてくれてありがとう」

薬師如来(微笑んでいる)

というようなやり取りが出来たりします。要約していますので、こんなにパッパッと質問内容が浮かび上がり、自問できるとは限りません。コツコツと自問自答する力を養うことが大切ですし、「絶対に許してやる」という決意も不可欠です。

「悔しくて情けないから悪い奴に見えても許す方法を必ず見つけ出してやる!」

といった解釈を育てるには、悪党には裁きの鉄槌を振り下ろして当然だという解釈しか持たない人に取って、100%許す価値を感じられない相手を100%許すに決まっている! という意志の転換を体験する力は途方もない鍛錬が必要です。

こうして招杜羅大将の抱え持つ知恵の無限ループからの脱出がいかに困難であるかが想像つくと同時に、薬師如来の智慧の導きが途方もないほど愛に溢れていることも想像して欲しいところです。

そして何より、この薬師如来という仏も、普通の人の心に宿る仏性というものです。誰もが持ち合わせている思考力だと忘れないことです。

それを薬師如来に例えて、対話しやすくして気づきの道を示してくれているとわかると良いですね。

前回は、真達羅大将を紹介しました。

簡単便利にわかり易くということで、知恵知識に執着すると、問題が発生するという事例も、複数のパターンがあるようだとわかるといいですね。

招杜羅大将は、否定する相手の方が無知であり、横暴だとしてしまい、見識豊かで人生経験豊富な自分の方が正常だと思い込みやすい問題があります。知識も常識もあり、第三者から見られても批判されない適切な対応をしつつも、関わる相手がヘソを曲げたり、聞く耳を閉ざす場合などは関わり方を間違えていると教えてくれるものです。相手の暴走でなく、自分が「暴走しているな」と感じられる場合は、自身の培ってきた知恵知識や経験則に歪みが生じていると自覚することが出来ます。

問題が相手に現れても、自分に現れても、招杜羅大将を心得ていられるなら、経験値をゼロにして、やり直す道を生み出せます。

これも容易い道とは到底言えないものですけれど、自己改善が出来るようになると、世界は自分だけで作り出しているものだとわかるようになります。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。





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