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十二神将を考察する⑫宮毘羅(くびら)

リーディングマスター・まさみちです。昨日は東寺の薬師如来と十二神将を拝顔し、そのパワーを目の当たりにしてきました。元々のは焼失してしまい、再建されたものでしたが、それでも素晴らしいパワーを発揮しているので立派な力場として機能しているのだと思いました。
リーディングというものは、目に捉えられない微細なものを言語化し、抽象的な表現よりも、明確で具体的な表現をすることで、曖昧だったものを表現し、これを仕事をしております。(13/88)

直で薬師如来と十二神将を見て、ただただ「うっわー、すっげー」みたく子どものように見上げ、楽しんでおりました。

薬師如来は、病気治癒(特に目病)、健康長寿、災難除去、安産祈願、現世利益などで知られている如来です。↓

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福岡市美術館より転載

毎度のこと、福岡市美術館より、画像を借り受けておりますが、ここの仏像の質がいいので、紹介していたりします。東寺の薬師如来も素晴らしいものですが、一体一体の画像が手に入らないのです。

リーディングマスターとして、薬師如来が伝えることを降ろしてくると「全ては自身の信じたままに映し出される世界故、自分という他人を痛めつける考えを持たぬ事が病気をせぬ秘訣です」と、答えそのものを教えてくれております。

薬師如来さまは、現世利益の仏さまと認識できますが、真摯に向き合うと、根本的な問いかけを突っ込んで来られる厳しい仏さまでもいます。

十二回目は、宮毘羅大将(くびらたいしょう)です。

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造形美など、ポージングや仏師の彫り込み方は好みが分かれるかと思いますが、私の視点は、この仏像で病が治るか、治らぬか? そこが大事と考えています。

十二神将は、個別では大将と呼び、その中でも夜叉と神明というものがあります。

夜叉とは、無知さを明らかにする流れが来ると、猛烈に怒るか泣くか、感情的に陥り、制御不能となるエゴエゴな姿。

神明とは、自分の心の枠組みを超越することを心得、真実に触れることが出来ると知り、それに向けて邁進する目覚めた姿。

自分が培ってきた経験を凌駕する知恵に出会いたくないのです。
それがどれだけ希少であるにしても、大切な人が共通の課題(苦悩)を抱えるなら、みんなで間違えたままで居ようとしてしまうのです。
個人でもいいからと、爪弾きになっても構わないとして頑張れる人が宮毘羅大将(神将)の力を得られるようになりません。

宮毘羅大将(くびらたいしょう)は、物事の認識は、自分の解釈の内側にしか無く、外側を幾ら見て、観察しても、実感を得ることはなく「井の中の蛙、大海を知らず」という問題を抱えます。これは親や家族の枠組みがあり、地域の枠組みがある為、集合無意識によって、意志決定がなされている現実があります。自分のモノサシでしか物事は測れない為、予測を超える体験が来ると、否定か拒絶をしてしまう心の姿があります。心の枠組みがあるなら、心の枠の外側があるとわかっており、今の自分はわからないけれども、今の自分だからわかる感覚を知っているに変える力があり、変化し続ける留まる事を知らぬ私と仏の両方を捉えられるわたしの姿です。

は、自分の固定概念を客観視している自分を見ている自分とか、ごちゃ混ぜになり、無限ループとした価値観を育ててしまい、終わらすことが出来なくなることをいいます。

宮毘羅(くびら)を簡単な比喩表現で言うと、「小さい」ままでは、自分が「小さい」ことがわからず「大きい」状態になれたとき、「小さい」状態だった姿がわかるというニュアンスです。お宮の中(自分の閉ざした心の中)に閉じこもり、その中だけで得られた知恵知識を持ち、善悪の比較だけで常識を育ててしまい、知識だけでは物事を測れないことがたくさんあり、客観視では捉えられない主観の超越的世界があると気づかない心の事でもあります。

自分の育てた世界から、どれだけ客観視したとしても、それは自分で体験した範囲の中でしか想像力を閃かせられないという制限がかかることを伝えるものです。いくら映像の中で外の景色を知っても、風土など体験しなければ感じ取れないものなど幾らでもあります。その代替えが効かない事ばかりの世界にも関わらず、見せかけだったり、誤魔化せるものだと信じてしまうなど、問題を隠蔽してしまう心の働きもあります。

繋がり方
家族を思い浮かべます。実家も嫁いだ先の家族も両方です。
そこにいる人全員が宮毘羅大将が守護するとして同化します。自分は薬師如来と同化します。ここで「閉じ込めている理由は?」家族みんな=宮毘羅大将に伝えると、浮かび上がるイメージがあります。それを無くなるまで続けます。
そして信じている(薬師如来と同化のまま)だからこそ、より元気になる為に、関わり続けるのです。

事例として紹介すると、以下のようなやり取りが出てくるものです。

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「信じられないから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「嫌いだから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「殺してやりたいから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「嘘つきだから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「関わりたくないから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「消えて欲しいから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「価値がないから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「憎悪の対象だから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「みんなに望まれているから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「本物だから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅夜叉「力があるから」

自分+薬師神明「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「いい人だと知らなかったから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「愛してくれているとわからなかったから」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「手を貸してくれようとしていただけだと気づけなかった」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「関わる全てを間違えていた」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「真理は無いとしておきたかった」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「“愛は存在しない”が無くなりました」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「惨めになりたくなかった」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「見捨てられたくなかった」

自分+薬師如来「閉じ込めている理由は?」
宮毘羅神明「無くなりました」

自分+薬師如来(微笑んでいる)

というようなやり取りが出てくるかと思います。このような事例ばかりにならない事もあります。宮毘羅大将(夜叉→神明への気づきの変化)をもたらすには、「空」というものは何か、「無」というものはこれであるという体感による気づきを得ることが不可欠です。仏法僧という三宝を会得していることです。

前回は頞儞羅大将を紹介しました。

前回も,今回も問題そのものが認識出来たとしても、無限ループを超越する空や無が解らないと、読み解けない問題でもあります。もっとも、薬師如来という内なる仏との対話は、超越的な意識のレベルでもあります。

その超越的な認知を得る為の言葉にならない教えを抽象的に含めて伝達する術が仏像にあり、仏像群として言うに云えないニュアンスを全て含めようとしたものです。悟ってから使い方が解るものである為、悟る前に仏像と対話しても、果たして悟りを開けるかどうかが疑問として残るものです。

ただ、悟った人が側にいて、仏像との対話の仕方を誘導すると、仏像との対話でたちまちに気づきを得て、見失っていた心の迷いを晴らし、聡明に到るというのもあると感じたものです。

宮毘羅大将は、自分の知り得た枠組みの世界(足るを知る)で満足するようにしてしまい、認識を広げようとする前に諦めという力で自身の可能性を持たないことで争わなぬ世界を維持するところがあります。閉塞的な世界を自らが求めつつ、窮屈で苦しいと不平不満に明け暮れるところがあり、「精一杯生きているのに報われない」と、努力の仕方の過ちに気づかずに嘆いてしまうところがあります。

薬師如来の力添えなしに、認知の外にある閃きなどわかる筈もないものです。
つまり病いなど、身体的不調は、狭い世界に自身で閉じ込めて置きながら、閉じ込められていることを肯定してしまい、窮屈で痛い思いをしていても、心を開いて世界に飛び出して行くことなどしないと決意しているものなので、自力で病いを治すなど出来ないジレンマがあります。

それでも、病いにかかり、「死を感じる」など、大切なことは「死を恐れず、好きなことをして生命力に従い生きること」を果たすだけで治る病いも多いものです。

引きこもりになっていませんか?


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。





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