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十二神将を考察する⑪頞儞羅(あにら)

リーディングマスター・まさみちです。私はどうにも心をコントロールする術(すべ)が下手くそだと感じて諦めました。制御出来そうにないけれど、どうやら腑に落ちていることは間違いを起こさないものだと気づいて、自分だけにわかる、自分の心の腑に落ちる生き方というものを探し始めたのが自己探求の世界でした。けれども、自分が腑に落とすには、誰にでも説明出来る力までも必要としていたので、こうして説明するようにしています。(12/88)

見えないことが解る人が、見えないことが解らない人に説明する難しさがあります。食べていない味わい深い料理を、食わせずに解説する価値が果たしてあるのかという課題にぶつかります。食べたら解ることを、食べる前の人に食べさせたいと思わせる解説です。途方もなさそうですよね? それが仏教の仏像の世界に見て取れるので、「食べていただけたらな?」と、現世利益の大きい薬師如来について解説してみたいと思いシリーズで記事にしています。

薬師如来は、病気治癒(特に目病)、健康長寿、災難除去、安産祈願、現世利益などで知られている如来です。↓

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福岡美術館より転載

リーディングマスターとして、薬師如来が伝えることを降ろしてくると「予測して諦めぬよう、過った知識に偏らぬよう結果に執着しないよう取り組みなさい」と、投げかけてこられるので、その気持ちをどうやったら応えられるのか、今の自分の状態から歩み始めてください。

薬師如来さまは、現世利益の仏さまと認識できますが、真摯に向き合うと、根本的な問いかけを突っ込んで来られる厳しい仏さまでもいます。

十一回目は、頞儞羅大将(あにらたいしょう)です。

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十二神将は、個別では大将と呼び、その中でも夜叉と神明というものがあります。

夜叉とは、自分の利益確保の為なら、予期不安を真実として扱い、今だ始まらないことに対する警戒心を高め、「殺される前に殺す」というニュアンスの処罰を与えてしまうエゴエゴな姿。

神明とは、価値を等価に見る目を育て、今必要なものか、今不要なものかを分けて考える力を持ち、求めるものを与え、知らないことを知らせていく目覚めた姿。

大将と呼ぶのも、7000もの眷属を従え煩悩を消し去る妙法を与える存在でもあるからです。一体一体に7000ずつの煩悩や魔羅(マーラー)があるくらいに思って欲しいものです。

12神将の総括の魔物と呼ばれる煩悩を魔羅(マーラー)などと表現し、悟りに到らせることを阻み続ける強大な壁となるものです。無限ループのエゴですから、取り付く島がありません。それで病気にかかり、長く伏せって治らないと泣き疲れても、自分の無意識の結果において無限ループのエゴに賛同してしまったツケは、自分で支払うしか無い残酷な話しなのです。

真我や純粋性などの、表現しようのない“思いやり”というものを大切にすればいいものですが、人は解りやすい自我の訴えを信じてしまう傾向があります。言葉にならない無条件の愛よりも、言葉にする条件付きの愛の方を好むようになるのです。それが転生して折り重なれば、無限ループを生み出すに到ることだってあるのです。その無限ループからの脱出を促してくれるのが、薬師如来と、十二神将です。

頞儞羅大将(あにらたいしょう)は、保証してくれなければ脅してでも安心を得ようとする働きがあり、「対等」や「人権」という人の示し合わせで作られたルールにかまけ、努力や誠意を怠り、守られて当然とした態度で努力し誠意を示している人を「人権侵害」と蔑み、「対等と扱わない差別者だ」と弾劾して追い詰めることを正義とうそぶき、自分の被害をひたすら訴えることで加害者を吊し上げて破滅へと誘い込み、全てを意のままに操ろうとする天使の仮面を被る悪魔とした心の姿です。過ぎたことを受容し、自然の摂理として「加害者」もしくは「被害者」にならなければならなかった理由を見つけ出し、根本的な歪みを正す方法を模索し、エゴを必要としつつ、エゴを不要だと心得られる関わりを見つけ出す為に奔走する仏の姿です。

は、ルールというものは弱者を守るように出来ています。その為、脅迫的な暴力で圧迫することで「弱き者を守る」という構図を作り出すと、弱きままの方がより強者による加護が得られると高をくくり、自助努力を放棄する無限ループの中に閉じこもります。永遠に弱者でいることで、永遠に権利によって守られるという錯覚を見てしまい、教育の成果、結果に辿り着かない生徒や子どもの面倒を見ることが出来なくなり、教える側も疲弊し、教わる側も疲弊して、誰も幸せに成らない負の連鎖が末法の世界では繰り広げられる問題として予見されているのが、今の現代社会の問題です。

知らず知らずの内に、弱者であることを盾にして人権を主張してしまうようになると、厳しくし、難しいことでも教え育てようと誠意溢れる教育者がいても、厳しさを嫌がり、難しさを簡単にして欲しいと求める流れには抗えなくなり、簡単便利でわかり易くなるほどに、見せかけの知識だけは大量に手にして、形だけは整えられる世界は作り出せても、中身の伴わない薄っぺらいものばかりが仕上がってしまい、中身のあるものと、中身のないものの識別が出来ずに、気づけば厳しく難しいことに取り組んでいた人だけが生き残る社会になると薬師如来と頞儞羅大将は考えているものです。

繋がり方
空気に溶け込んでいる頞儞羅大将
がいて、空気圧(重水圧)のごとく強い圧迫感があるイメージのまま(人の形ではなく、空気感そのもの、水圧そのもののがのし掛かり)自分と一体となる薬師如来が潰されている中から、本当の気持ちを今こそ言おうとしているとしてください。「だって、羨ましかったんだ」と、圧迫感を与える頞儞羅大将が、潰されている自分+薬師如来に問いかけると、本音を言い始められるようになります。

例として紹介すると、以下のようなやり取りが出てくるものです。

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「助けて欲しかったから」

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「関わって欲しかった」

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「見捨てないでいて欲しかった」

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「嫌いにならないで欲しかった」

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「本当のことが怖くて言えなかった」

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「優しくして欲しかった」

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「見捨てられた事実を受け入れられなかった」

頞儞羅夜叉「だって、羨ましかったんだ」
自分+薬師如来「自分がやる気が無かったと認めたくなかった」

頞儞羅神明「“だって、羨ましかったんだ”と言わなければならなかった」
自分+薬師如来「やりたくないから止めます」

頞儞羅神明「やめて、楽になりました」
自分+薬師如来(微笑んでいる)

というようなやり取りが出てくるかと思います。

仏との対話のやり方の基本的なものに、仏の姿を自分にかぶせて一体化したイメージのまま、自問自答をしてみることです。

寺などに出かけたら、手を合わせて拝む中で、意識を仏と同一化したイメージを持ち、自分以外の自分になったつもりで、謎解きに取り組むと、思いがけない仮説や、提案をしてみたいと思う自分に出会えたりするのです。

つまり、閃くのです!

やらない手はないものなのです。

前回は、摩虎羅大将を紹介しました。

比較しても、どちらも手に負えないほどの飛んでもないレベルのエゴだったりします。理屈が上手になり易く、こうした心理学や、哲学の概念を取り入れて、エゴエゴの姿に拍車をかけて、気づかないように邪魔してくる存在があります。

開き直ってでも、従いたくないエゴですから、弱者という肩書き武器に取る人は、関係性を断たれても気づきを起こさないようにします。自滅覚悟ですから、自分自身で自分に自滅する気持ちがない(自虐の可能性が皆無)と気づかないことには取り組めない問題です。

頞儞羅大将は、他人の扱われ方を望んでしまい、他人の努力や誠実さを無視して、自分だけがいい思いをしたいと願うような心の姿を現しているのです。どんな人でも身に覚えがあるようなこととして、「病人は大切にされる」という感覚です。

これを抱くようになると、健康的な人より病的な人の方が、大事にしてもらえる現実を見るのです。よって、病的な人の方が、幸せそうに見えてしまう為、「病的に成りたい」と思いつくようになるのです。それは断らなければならない問題です。

弱者の立場を「美味しい思いが出来る楽園」と思わさないように、健全の立場の方が、生き生きしており、充実感に満たされているようにすることです。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。



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