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言葉に出来ぬ 毘楼博叉像⑤

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。独自の心理学を探究している研究者です。心の働きを調べていく内に、人の心は様々なことを「この場に居ながら世界中のことがわかる」という感覚を捉えられるようになりました。この知力を使い、人の潜在無意識で認知の歪みを引き起こしている根源的な問題を相対的に解決する方法を編み出して、提供しております。(45/88)

千手観音像といえば、三十三間堂という程に有名な仏像群が展示されている二十八部衆についてリーディングによって紐解けるものを記事にしています。

東寺・立体曼荼羅の二十一体においても紐解いてみました。過去記事にありますので、是非読んでいただけると、仏像が伝えようとする深い気づきの世界の片鱗を知ることが出来ます。

立体曼荼羅二十八部衆と千手観音像を比較すると、立体曼荼羅は己の修練、修行の場所に思えますが、二十八部衆から伝わる情報は、優しく諭してくれるものばかりです。

毘楼博叉(びるばくしゃ)は、立体曼荼羅では広目天と紹介されているものです。大日如来の化身が二十体の仏像群となり、リーディングも大日如来が起点となり、学ぼうとする者との対話が中心になるような教えになります。ここは、後白河天皇が創建したこともあり、祈りの空間としての思いが残されており(焼失して尚)、その後白河天皇の思いに触れつつ、仏像から伝わる情報を届けております。

毘楼博叉像(びるばくしゃぞう)⑤

びるばくしゃ 1

人の目は、人の数の倍あります(左右二つの眼があります)。見て聞いたものと、見ずに聞いたものでも解釈が変わると、人の数だけ聞き違いが生まれますし、見ていても間違えることまで考えると、誤解する数もたくさん起きていそうです。

親子で同じものを見ていても、親にはわからず、子には理解できるものもある為、年齢や立場によって見えるものもあれば、見えないものもあるようです。

博識で、勉学に励んでいる人が、ごく知られている野菜の名前を知らないこともあり、人は精通していない(関わった体験がない)ものに触れなければ「覚える」ことが皆無であると考えて良さそうなもののようです。

人と人との言い争いを見ていると、色々な怒り方が目に止まります。

「知り(見)もしないくせに」と怒る人がいます(受)。

「知っ(見)ているくせに」と怒る人がいます(想)。

「知らない(見ていない)はずは無い」と怒る人がいます(行)。

「知らな(見ていな)かった」と怒る人がいます(識)。

それぞれの立場で、自分の感じるままに怒り出しているようです。


「知り(見)もしないくせに」と相手からの関わり方が『悲しく』て怒るようです(受)。

「知っ(見)ているくせに」と何故、解っていながら言わないのか『寂しく』て怒るようです(想)。

「知らない(見ていない)はずは無い」と、同じ情報を共有する立場でありながら、白を切られることの『冷たさ』に怒る人がいます(行)。

「知らな(見ていな)かった」と、こちらの立場を知っていながら、何の情報も呼びかけも出来たのに、声かけしてもらえないことに対するどうすることも出来ない『後悔の念』を消したくても消せずに怒る人がいます(識)。

この話しさえ、何を「受け取り」、何を「想い」、何を「していたかと振り返り」、何が「あったからそうなるしかなかったもの」がそれぞれの立場で思うものです。同じ一つの現実を見ていながら、100人が100通りの解釈や感じ方など、見ていたり、見ていなかったりと、知っているはず、聞いていたはずと、同じ情報を共有出来ているものだと思い込むのです。

これを書物に記して読ませると、「書いてあったでしょ!(受)」「読んだくせに!(想)」「読んでいてそれ?(行)」「なんで読まないの?(識)」とした怒り方も生まれることが想像出来ます。

これが大衆からの心情を受け取るなら、「薄情!(受)」「最低!(想)」「無能!(行)」「もういい!(識)」とした怒りが現れることが想像出来るでしょうか?

誰か①が怒っているのを見ます。

みんな②が怒っているのを見ます。

あなた③が怒っているのを見ます。

私④が怒っているのを見ます。

そのどれをも(①〜④)見ているわたし⑤いるのが解るでしょうか?


人は、人の姿を真似ていく生き物です。「誰か①」がやっていたから、それが親であることが多いものの、外の世界を知れば知る程「みんな②」やっていたという条件に左右されるものです。

その中でも「あなた③」がやっていたから真似たという尊敬する人に近づきたくて、同じになりたくて、似せようとするものです。

そして「私④」でも、「あなた②」「みんな①」「誰か③」に似せられたことを嬉しく思う気持ちがあるから、それを継続しようとするのです。

ただ一人、そのどれをも知っている「わたし⑤」は、真似したいと思っているのかどうかは未確認なのです。

「私④」は、「誰か①」の真似をしたかったのですか?

「私④」は、「みんな②」の真似をしたかったのですか?

「私④」は、「あなた③」の真似をしたかったのですか?

「私④」は、この「わたし⑤」が納得していると思っているのですか?

このように、人の心は何かと比較し、それに合わせて行くか、合わせずに行くかで出来上がっていくものです。

合わせるのは手本があるので簡単ですが、合わせなくなると手本が無くなるので、とても不安定であり、心許ないものです。

しかし、誰かの真似でもない、私自身のオリジナリティーを示せるようになります。このオリジナルの私は、習って身についたりするものではなく独自性になるので、他者の認知からはみ出してしまい、理解不能な姿として見えるものです。

見知ったものから独自性変化してしまうと、人は昔の姿に戻って欲しいと願い、新しく見せてきた独自性の「私」の姿を「怒り」により、叩き潰そうとする人がいます。

どの時代も、変化をさせていく存在は叩かれるものです。

「(見知って)そんなことをしていいと思っているのか!」(大衆・受)

「(見知って)みんなに言いふらしてやる!」(みんな・想)

「(見知って)親に知らせてきたから!」(あなた・行)

「(見知って)なんとも思わないのか! 私には真似できない!」(私・識)

「見知ってもらうしかないじゃないか! これが私なんだよ!」(わたし・色)

人は自分の感受し得る解釈の範囲でしか感情を制御することが出来ない為、想像を超える新しい事象に出くわすと、その独自性を示してきた者の弱点となる存在に言いつけて懲らしめて、元に戻らせようとします。上記で言うなら「親」に言いつけて、諫(いさ)めてもらおうというものですが、独自性に目覚めた人に取っては、偽りのない自分の姿ですから親だろうと誰であろうと止まるものではないですし、見知ってもらうしかないものです。

政治家なら「大衆(誰か)」に知られて、地位を失うことを恐れるだろうと他の人は思うものです。

組織の長なら「みんな」に知られて、計画やプロジェクトの夢が壊れることを恐れるものと思うのです。

関係者なら「あなた(力ある人)」に知られて、立場が覆ったり、信用を失うことを恐れると思うものです。

友人なら「私」に知られて、友である自身を失い、友が対立者となり立ち塞がることを恐れると思うものです。

最愛の人なら「わたし」に知られても、本来の純粋な思いに従わせようと恐れることなく応援するとは知らないものです。「誰」「みんな」「あなた」「私」も、「わたし」さえ居れば、「私と共に立ち上がり、独自性を出せる」ものなのです。

心というものは、一人で考えることも、十人で想いを巡らすことも、百人で取り組んでみることも、千人で作り上げていくことも、万人で築き上げていくことも、一人を支える二人目が居なければ始まりません。

もしも、これまでの自分が自分に嘘をついて生きていて、全員に間違っていた自分を見知ってもらっていたとするなら、その間違いを正して、独自性の本来の純粋な気づきを起こした自分を見知ってもらおうと動き出したとき、世界はどんな風に変わるかは、それさえも自分次第と受け入れることです。

自分がその人の最愛の人なら?(わたし)

自分がその人の唯一の友人なら?(私)

自分がその人の大切な仲間なら?(あなた)

自分がその人の大事な人だとするなら?(みんな)

自分がその人の縁もゆかりもなくても支えてやりたいと思う人なら?(誰もが)

そう考えてみたとき、自分自身の見知った知識や解釈の範囲や感情などで、関わり合うその人に「怒りの矛を向ける」ことが、その人の未来を守ることなのかどうかを考えてみて欲しいのです。

隣に居る最愛の人や、友や、仲間や、大事な人や、見知らぬ人であったとしても、大衆の怒り、みんなの怒り、あなたの怒り、私(友)の怒り、最愛の人(私)からの「怒りの矛」を見知ったとき、自分自身は「慈愛の盾」でもって、その「怒りの矛」を消し去って無に還してしまう人であって欲しいと願うものです。

大切な誰かが自分の独自性という純粋さに気づいて立ち上がったとき、隣にいて支えとなる最愛の人(友)であって欲しいのです。誰にでも優しく、通りすがりの人であっても、「あなたのことを信じている」と言ってくれる出会いが、人の心を救い出すと知っておいて欲しいのです。

それは物語(幻想)の中にあるものではなく、真実の世界にあるものです。

「人を物扱い」したからといって、怒る前に『それしか知らない環境で育った』考えられる優しさを想像してください。

「人を優劣や善悪批評」したからといって、怒る前に『その方法のメリットを伸ばすこと』を考え、代替え案があるならそれを周知させることに考えを向けられる優しさを想像してください。

「人の礼節さが欠いた」からといって、怒る前に『何も失っていない事実がある』ことを考え、躾けや礼儀作法を伝えて届けられていない自身の教養への取り組み方に結果が出せていない事実を直視出来る厳しい優しさが持てると想像してください。

「人の不義理を見た」からといって、怒る前に『その人に対して掛け替えのない代わりが効かない唯一の人』として見知っているのか自問自答して考えを用意することです。母の代わりは幾らでも居るとか、父の代わりは幾らでも居るとか、子の代わりは幾らでも居るとか、口が裂けても言ってはならない言葉があるように、独自性を持つあなたそのものを見つめたとき、肩書きとなる「妻」「夫」「娘」「息子」「孫」「祖父」「祖母」といった敬称はありつつも、どれも代えなど効く存在ではないのだと知っているなら、結婚や出産を迎える前の覚悟の無さや稚拙さを許せる優しさが「今この瞬間に持つ恩恵だ!」と想像してください。

「人の愛の無さ」を見知ったからといって、怒る前に『相手も愛を知らない、哀しみに閉じ込められた人に違いない』と考え、嘘偽りの教えによって見せかけばかりを与えられ、誤魔化すことを正当化され、犠牲を払うことが普通のことだと教え込まされ、死ぬまで隠蔽すれば真実になると自分さえ欺くことしか見知らされて来ていない人に、純粋に愛すること意味感覚など想像することも出来ないことを察してあげ、わたししか愛してあげられる人はいないと気づいてあげてください。

人と人との言い争い見つめると、とても哀しくなるものです。


どうか、互いに、「知らない」だけである事実に気づいて、知り直す方法があることに気づいて、怒ることをやめることを願うものです。

怒ることをやめると、「泣き止み」ます。

怒ることをやめると、「動ける」ようになります。

怒ることをやめると、「聞いてくる」ようになります。

怒ることをやめると、「話し出してくる」ようになります。

怒ることをやめると、「笑いかけてくる」ようになります。

どうか、「笑いだそうとする独り立ちしようとする、純粋な思いの始まり」怒ることで、何もかも台無しにしてしまう无(む・何もかもないままにして無視し通すこと)に閉じ込めて、子どもの今を消し去らないであげてください。

ただ、子どもは、お父さんのように、お母さんのように、純粋でいて、輝いていて、美しく、格好良く、素敵で、素晴らしく、優しくて、温かくて、立派で、尊い存在だと見知っているから、そのように真似て立ち上がろうとしている真実に気づいてあげてください。

見知った世界から、自由な世界へ手を離して挙げられたとき、自分自身が楽になり笑えるようになります。

みんな、誰もが、ただ微笑みたいだけなのですよ。


いかがでしたでしょうか?

毘楼博叉(びるばくしゃ)は、広目天でもありますから、「眼で見る世界のこと」を知らせてくれています。毘(び)は、「知恵知識を比較して認識するもの」を示し、楼(る)は、「掛け替えのない最高に輝く手をかけたもの」を表し、博(はく)は、「誰をも等しく扱い、同じ環境や、人間関係で包み込んだら同じ解釈に辿り着くであろうとする仮説のこと」であり、叉(しゃ)は、「穢(けが)れに身を堕とし、憎悪に狂う体験をした者を救い出すには、同じ体験をして回復出来た体験をした者でしか出来ないもの」のことを示しているので、毘楼博叉(びるばくしゃ)とは、「全部知っているからここから始めよう」と呼びかけるのことです。

その「わたし」のことであり、この肉体そのもののことです。

心と共にこの肉体哀しみの全てを共に体験し、離れることを知らず、傷つけられようとも、苦しめられようとも、心が逃げ出したとしても、肉体は逃げ出すことはせずに、ここに留まってくれている存在です。

その愛の大きさに気づけたとき、人生は始まります。

眼が開きます。

目覚めてください。

後白河天皇より。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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