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深愛の力 娑伽羅龍王像㉔

心と言葉の研究を続けるリーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーを通して実践的な読み解く力を探求し続け、効果を確認しながら検証しています。自動書記に近いようなもので記事を書いております。(64/88)

千手観音の救済の力を具現化しようと、二十八部衆の意味合いをリーディングで紐解き、仏像の姿に一定の意味づけや方向性を示したら、独自の発想で紐解く切っ掛けに繋がればと考えております。

物事の善し悪しは、全てが終わらなければ定義することは困難なことがあります(過程の段階で善悪の判別は不可能とした意味)。

人の幸、不幸における感覚というのも、「どこからどこまで」を捉えて「幸せ」や「不幸せ」を認識するかがあるものです。

仏像は、心の迷いや悩みにおいて、自分の仏性と対話する方法を簡略化してくれるものであり、意識の使い方を目視しやすい工夫が為されているものです。

人は有り得ない「不義理(行)」「不都合(想)」「不条理(受)」「不名誉(識)」な発想があり、悪いとわかっていながらその行為に及ぶことがあります。

どうして人は自己損失だと知っている物事を実行してしまえるものでしょう?

その根本的な問題の解決の糸口を見出せるかどうかが、仏との対話の価値になるものです。

ここでは、自己損失をしてでも「許されない体験を、許される体験に変える価値を探している」と、答えておくものとします。

それには、心の作用を観察しておく必要があり、五蘊(ごうん・受想行識色)の働きによって、人の心が「制御出来なくなる理由について」よくよく考えておく必要があります。

心というものは、人が思うほど制御能力が機能していないものです。

「日の目を見られなくなるからしないで(行)」
「悪く扱われる羽目になりたくなければやめろ(想)」
「罰せられたくなければするな(受)」
「二度とまともな生き方が出来ないようにしてやるからな(識)」
「守らなければならないルールがある(色)」

人は行動を管理する方法として規律などを守る為の「判断(行)」「刑罰(想)」「道徳(受)」「法律(識)」「遵守(色)」があり、まとまった価値基準で認識を共有するものです。

しかし、人は一度悪いことをすると、何度でも間違いを行うものだとされています。それは「許すことを知らない」からです。

「仏さまは許しても、人として許せない」し、「仏の顔も三度まで」と、許さないことの方が正当性があるかのように感じてしまい、処罰など与え、服役させることが答えだと解釈する人もいるものです。

㉒大梵天王における落第に至った「識(記憶と大罪の始まり)」

㉓神母女像における差別に至った「識(記憶と嘘の飛躍)」

心は様々な意識があり、その識の中でも「解釈(受)、恩恵(想)、意図(行)、記憶(識)」があります。

ここでは、チャクラの表記がわかり易いのでそれで解説していますが、以下のような仏もチャクラに相当する七仏薬師があります。

第一チャクラ・善名称吉祥王如来(ぜんみょうしょうきちじょうおうにょらい)
第二チャクラ・宝月智厳光音自在王如来(ほうがつちごんこうおんじざいおうにょらい)
第三チャクラ・金色宝光妙行成就王如来(こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおうにょらい)
第四チャクラ・無憂最勝吉祥王如来(むうさいしょうきちじょうおうにょらい)
第五チャクラ・法海雲雷音如来(ほうかいうんらいおんにょらい)
第六チャクラ・法海勝慧遊戯神通如来(ほうかいしょうえゆげじんつうにょらい)
第七チャクラ・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)

薬師如来は第七チャクラに相当する領域のもので、全てを見渡しているものです。この七仏薬師がそれぞれのチャクラを示しているものですが、それを更に細分化しているものが二十八部衆です。

薬師如来で全ての役割を果たせてしまうものでもあります。

薬師如来と千手観音の違いは、薬師如来は「救ってください」とお願いすることで、力を借りて自分を救済していくものと、千手観音は「いつの間にか救ってくれた」と、“ありがとうございます”とお礼を述べることで救済が果たされているものの違いです。薬師如来は未来形であり、千手観音は過去形とした認識です。

「救われているとしたら?」という意識から、対話することで処罰の中に閉ざされた心の救済を行うものです。

㉔娑伽羅龍王像(さがらりゅうおうぞう)

娑伽羅龍王

人が人を許せなくなる時は、「約束を破った(行)」ことや、「深く傷ついた(想)」ことや、「処罰に値するに至った(受)」ことや、「我慢に耐えかねたとき(識)」に引き起こされるものが考えられます。

心が平穏に過ごせている場合はよいものの、仏に頼らなければならない状態では、心中穏やかとはいかないものであり、通常の理解を超えているからすがる思いで頼りに来るものです。

「魔が差す」とした考えがあるように、人の心は弱いもので「隙」があると、出来心で悪さをしでかすといったものがあります。

「隙」があっても、悪さをしない人もいれば、悪さをしてしまう人もいます。悪さをしたが改まり、悪さをしなくなる人もいれば、悪さをして痛い目に遭っても繰り返し悪さを重ねてしまう人もいます。

何がそうさせてしまうのでしょうか?

「悪さ」をしても、捕まる人もいれば、捕まらない人もいます。

「悪さを隠して」も、見つかり捕まる人もいれば、見つからない人もいます。

「悪さをした」のに、許されてしまう人もいれば、許されない人もいます。

この違いがどうして引き起こされるかがわからないと、人の心を制御出来ると解釈するよりも、制御出来ない前提で物事(法律など)を構築する方がいいものです。

しかし、心が制御出来ないことや、再犯を止められない自案の具体的解決策が見出せないと、抜本的な解決に至らないこととなります。それでは、仏の救いなどは「夢物語」になってしまい、意味の無いものになってしまいます。


人の心が病むと、阿吽の呼吸のように「⑩卑屈や卑劣(想)」な思惑から暴挙に走り、「⑰背徳(受)」な精神状態で応じてしまうことがあります。悪いとわかっていても、見つかると酷い目に遭うとわかっていたとしても「③色欲(行)」に向かってしまう判断力があり、様々な痴情のもつれを生み出す流れがここにあります。

当然とも言えるように、見つかれば「⑩卑屈や卑劣さ」であれ「⑰背徳」であれ「③色欲」であるどれでも「㉔剥奪(識)」されるべき刑罰を被るようなものです。

自分自身への自己肯定感が著しく低ければ、自分を過小に扱い「⑩卑屈(想)」に呑まれ、愛情欲しさに身を売るようなこともあります。

自分の置かれた境遇を維持する為に、「⑰背徳(受)」さに襲われながらも、お金欲しさや、スリルや自分に言い訳しながら身を堕とすこともあります。

自分の欲情する気持ちをどうにも抑えられずに「③色欲(行)」に囚われて、お金を支払ったり、立場を利用して強要するなどして身を穢していくことがあります。

どれも、関係性が壊れ、地位を追われ、賠償や刑罰を受け、あるべき幸せが「㉔剥奪(識)」される現実へと辿り着くものです。

それが因果応報というものだからです。

原因があるから結果があり、それに応じた報いが生まれるのであるなら、「背徳さが、見つかっても許される」ことがあるのは何故でしょうか? 「色欲など、恥ずべき行為がありつつも被害を受けた方が頭を下げる」ことが起きるのはどうしてなのでしょうか?

それは、「許されない体験なのに、許される体験が生まれ、気づきがもたらされた為」と解釈してみてください。

⑩金色孔雀王「卑屈(想)」

⑰摩睺羅「背徳(受)」

③難陀龍王「色欲(行)」

心を通い合わせた筈のパートナーが「③色欲(行)」に走り、不倫であれ浮気であれ、不義理をするならば、即座に離婚や、それ相応の罰を与えて構わないものと考えがちです。

処罰を履行しなければ、法律の意味がなく、約束(結婚)を守れなければ相応の報いを受けなければ、被害者が可哀想だからです。

「許されないことを許すことが許しである」という教えがあるとしても、「許されないものは許してはならない」ものだというのが心情というものです。

ここで考えなければならないのは「識(記憶)」の領域です。

そもそも深い哀しみという記憶が刻まれており、その記憶の中で「㉔剥奪(識)」が発生しており、それが今生においても具現化して、「⑩卑屈(想)」にし「⑰背徳(受)」になり、「③色欲(行)」に奔走させてしまうメカニズムが機能していることを見落としてはならないものです。

「深い哀しみ」の果てに「深愛」に辿り着きたくて、「どこにも許しが無い中で、あなただけには許されたい」という想いがあっても、業(カルマ・行為)という意識の働きは、過去世の記憶の中でも、今世の現実の中でも成長がなければ「許されないもののまま」です。

「深く愛してくれる人」と出会えるかは、「今」決められるものです。

人は他人が作り上げた規則法律や罰則を信じて疑わず自分の深く愛する気持ちが「どうか?」などとは問いかけもせずに、「苛立ち」や「憤慨」の気持ちこそ自分の純粋な思いだと信じてしまい、処罰を与えてしまうのです。

最も大切なもの「㉔剥奪(識)」させることこそが、被害者からすれば「深く哀しい」と伝えたいものであるが、転生の歴史を重ねるほどに、哀しみが蔓延するばかりで、許しも救済もない世界が広がり続ける現実があるのです。

人は自分がどれだけ哀しんでいるかを正確に伝えようとするあまり、傷ついた心中を相手に与えなければならないことで、残酷なことを正当化していい価値観が生まれます。「悪いことをした相手は人扱いしなくていい」といった認知に至り、正義の鉄槌という極刑を望むようになり、「未来永劫苦しむ罰を与えよ」と恨み続けることさえするのです。

そして転生を果たした今生でも、「苦しみ抜く罰が継続するように、③色欲に及び、⑩卑屈に詫び、⑰背徳してしまったと嘆き、許しを請いつつ愛の証を㉔剥奪され、また苦しむのです。

そして来世でも繰り返すのです。

そんな哀しみに囚われた境地の人たち「助けてあげる方法はないのか?」願う仏性を持つと、相手の伴侶となって出会い、再び同じような不義理を見せつけられて「許せない心情の中で、許しを与えられるか?」を問われ、また敗れて離縁し、哀しみが広がり、また「助けてあげたいと願う人が現れては傷つく」のです。

そのような中でも、「救済する方法はないか?」と探す仏性「娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)」です。

阿頼耶識(あらやしき)となる、過去世を思い返せる意識を使うと、「そもそも何故このような深い哀しみに至る切っ掛けを生み出したのか?」と問いかけることで、見つけ出せる原因があります。

①受けるべき処罰を親が身代わりになって受けた体験がある。
子が重大な過失を起こし、幼かったり、親が我が子可愛さに身代わりを申し出て、それが許され、代わりに処罰や処刑されたりすると「深い哀しみ」を生みます。自分が悪いのに、親が「剥奪」された為に、その後の人生が狂い続けることがあるのです。

②納得いかない見せしめの為の処罰を受けた体験がある。
他の者たちへの示しと称して、恐怖を与えて規律に従わせるための生贄になり、自分の命が不当に「剥奪」された為に、その後の人生が歪まされ続け、誰かに「止めて欲しい」とした「止まらない体験」を続けることがあります。

③友好的な関係性だった筈なのに、密告されて立場を失った体験がある。
事実であれ、虚偽であれ、無害であろうと、密告により処罰の有無に関わらず、立場を失うことで、様々な信頼関係が「剥奪」された為に、その後の人生が転落し続け、「突き落とされる」ような体験が繰り返され、這い上がることが許されないことがあります。

④時代の変化の荒波に呑まれ、個人の力ではどうにもならない被害体験がある。
戦争や疫病や災害といった波に呑まれ、居るべき親や家族など最愛の人を不意に失い、それまでの幸せが、そこから失われてしまうことで、和やかな毎日が「剥奪」された感覚が強く残り、その後の人生が判断能力が欠落している状態や、短絡的な思考しか持てなくなり、善悪の判断がつかず、堕落するような生き方にハマることがあります。

⑤劣悪な環境に呑まれ、自分の意思とは無関係に悪さをしでかして愛を失った体験がある。
貧困や柄の悪い地域においては、身の処し方や、人との関わりを学ばないと、自堕落な世界へと誘導されてしまい切り捨てられるような関わりしかさせて貰えず、何が有効で無効かなどの判別能力も育たぬまま、気づけば精神を病んでしまうほど日常が「剥奪」されていることがあります。その後の人生は、自分がどこを生きているのかわからぬまま彷徨い、劣悪な環境のまま、救済されることのない日々を送ることがあります。

このように、「深い哀しみ」というものは、生まれた時から既に持っており、持っている故に、「深い哀しみ」を追体験するようなことが発生するのです。

「卑劣に剥奪されること」「背徳されて剥奪されること」「色欲に溺れたり、溺れられてしまって幸せの形が剥奪されること」があるのです。

「深い哀しみ」全てを抱きしめてくれるような「深い愛の力」でもなければ、この哀しみの連鎖は止められないものです。

体験の全てを救済してくれるような「娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)」欠けた心を繋ぎ合わせてくれたとき、救済はもたらされるものです。

娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)は言うのです。

「許されていることを受け入れなさい」

殺意を抱いてもいいと、『殺してやりたい』と強く願っても、計画や行動に移さなければいいので、心の中だけで自分だけにわかるように強く強く念じていい許しなさい

罪悪感や後悔は全く持たなくていいものです。それが無くても学ぶものですし、改善する気持ちが失せることもないものです。ゆっくり休み、自分だけの和やかさを見つけ、信じられる人と共に生きなさい

わかり合えなくてもいいのです。自分のことが好きになれなくてもいいのです。この娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)という無機物の仏像を力づくで信じてくれれば、娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)からあなたを好きでいてくれるので、それで許されていてください。一人ではありませんよ

娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)は、転生を又にかけて、どんな生き方をしてきたかを知っている仏です。要所要所で手助けしてくれる仏性です。

この記事へと導いてくれる存在でもあります。

見えない力に引き寄せられるように突き動かされていると感じ、それに従えるようにしてみてください。

娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)に一々確認をして、「これをしたら良い?」と尋ねてみてください。首を縦に振るのか? 首を横に振られてしまうのか? そのどちらかをイメージしてみてください。

間違った解釈を持っていたら、剣でバッサリ切り払ってくれます。

安心して、エゴの心をさらけ出してください。

ワークを教えます。

娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)をイメージして「煩悩を切り払ってください」とお願いし、娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)のされるがままにしてみてください。
火の剣で斬られているイメージを持つようにしてみてください。最後には清々しい風が吹いているイメージを持てれば良いです。

まずは、それでしのいでください。

色欲、卑屈、背徳に流される心は、様々な制御機能が「剥奪」されて、理性が欠落してしまうことがあるものです。だからといって許されることをねだって悪さを正当化していいものではありません。自分で自分を許し、暴走しないように努めてください。

自分の中にいる娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)という仏性を信じてください。

娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)をイメージしながら、「私には心がない、私には心がない、私には心がない」と三回唱えてみると、欲望や煩悩に突き動かされる衝動が消え去ります。

いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。





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