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好きを知る 難陀龍王像③

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。心と身体を微細な意識で観察すれば、心の治し方、身体の治し方を教えてくれるものですから、それを伝えることをする心理カウンセラーを仕事にしております。(43/88)

三十三間堂には千手観音坐像があり1001体もの千手観音立像があり、風神雷神の像と共に、二十八体の千手観音の眷属が付き従っています。この二十八部衆について、意識を重ね合わせることで創立者である後白河天皇の想いを汲み取りつつ、立像に込められた願いを紐解いております。


難陀龍王像(なんだりゅうおうぞう)③

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人の心は身の回りの中で物事を判断し、その中でより生きやすい術を身につけられるように育つものです。山に住む人は山に馴染み、海辺に住む人は海辺に馴染むように、親の世界観や地域柄の傾向に子やそこの住人たちは身を寄せて助け合うものです。

山に住む若い人が「海に行きたい」と言ったところで、周りの人たちに「否定される」ものです。

海に住む若い人が「山に行きたい」と願い出て許可をもらおうとも、周りの人たちに必要性を感じられる先人たちが皆無の段階において、許可を与えていい感覚にならなければ「許可しない」ものです。

師を敬うこと、先人を尊ぶことを教えられると、それに逆らうことはその社会で生きられなくなります。山に住む全員が、海に行く必要が無い感覚があり、「海に行きたい」という主張をする若者の身を案じ、命の危険や、二度と戻れないとした不安がどっと押し寄せる中で、「行ってきて良い」と山に住む住人は言えないものです。言うとするなら、自分自身に嘘でもつかなければそれを告げられないものです。山の若者は断念するしかありません。

「山に行きたい」と願い出る許可をもらおうとも、海辺の住人全員が山の住人と接点を結ぶことのメリットがないなら認めません。ただ拒絶ではいけないので、吟味しようと試みてくれます。その最中で、山の住人の性格や価値観など、受け入れ難いものと出会うとするなら、「許可出来ない」と判断するものです。海辺の住人は、充分に検証した結果があり、総合判断で「必要性がない」とされると海辺の若者は諦めるしかなくなります。

しかし、人の思いを堰(せ)き止めることは出来ない時があります。

個人(若者)が必要と感じ、住民全員が不必要と判断していても、その個人(若者)は全員に必要だと感じるから動き出そうとするものです。しかし、全員は個人(若者)の思いを汲み取る力がないとは感じないものです。充分汲み取り、その上で「不必要」と結論出しているので、“汲み取った”としているのです。

山の若者も、海の若者も自分の住む世界から飛び出して、山から海へ、海から山へと違う世界を求めるものです。

この山の若者と、海の若者出会う時、新しい世界(価値観)が生まれます。

山と海の価値観を合わせ持つ人が生み出されることとなり、川(山と海を繋ぐもの)の価値観を持つ人が育つようになります。それでも、山の住人は川の住人とは関われても、海の住人とは関わりたいと思いません。そして、海の住人も山の住人とは関わりたいと思わないものなのです。

山の住人も海の住人も、若者の提案を拒み諦めさせている体験がある為、許可無く身勝手に始めた交流の結末を受け入れられないままなのです。山側は海側が危険でないと解っても、海側が山側が必要不可欠だと解っても、「いざ」という警戒心を解くことが出来ないものなのです。

山の人は「気を緩めずにいる」から、「抑止力」として問題を未然に防いでいられる保険のような緊張感を大切だと解釈するものです。

海の人は「信用しきらない」から、「乗っ取られない」として征服されまいとしてうまく拮抗しているから安全を保っているのだと防衛の重要性を説くのです。

川の人は「どちらも誤解だ」と、橋渡ししようと試みるものの、一番重要な本質の部分においては山の住人は「申し出を断る」ものですし、海の住人は「諦めてくれ」と変えられない主張を繰り返す山側と海側の意見を重ね合わせられないものなのです。

人が人を信じることは、「信じる」ことから動き出した人同士は「信じ合える」体験に繋がり、信じた喜びに出会えるものです。

人が人を充分検証し、吟味し、研究の成果を見ても、「信じない」から始めた確認作業の人たちは「信じ合えない」体験に結びつき、信じないことで得られる喜びに執着して、自分の解釈の正当性を譲ろうとはしないものです。

真実よりも幻想が大切だと信じる人もいます。

幻想よりも真実が大切だと信じる人もいます。

真実も幻想も大切だと信じる人もいます。

目に見えるものを「川」と呼び、目に見えないものを「龍」と呼ぶなら、川は山から水を運び、海に流していくものに対して、という「生命」から「力」を運び、とという「歓喜」流していくものです。

山の生命も、海の歓喜も、どちらも龍の力がなければ、機能しない関係性でありつつも、山は山で独立出来ると錯覚し、海は海で成立していると夢幻の中にいるものです。

人は「好き」という気持ちがどこから流れてくるか知らないものです。

人は「好き」という気持ちがどこへ行き着くか知らないものです。

教えてもらっていない人が、それを考えても答えに辿り着くことがないとは知らないものです。

山の住人から反対の中、押し切って無断で飛び出した若者の意見に今更改めて聞く耳を持つ姿勢を持てる人は、自分や周りの人たちを裏切るような決意が必要だとは知りません。

海の住人から警戒の目を盗んで、無許可で飛び出した若者の意見に今更改めて心根や、若者に対して許しの許可を得ようとするのは、自分や周りの人たちを責めることとなり、普通に考えて自分では「やりたくない」行為をやる必要があるとは知りません。

「知らない」から、出来ません。

しかも、教わりたくもないし、聞かされたくもありませんから、知ろうともしないので、改善しません。

ですから、この問題は難しいものなのです。

山の住人も、海の住人も、川の住人も、誰もが「陀(だ・微笑み合い、幸福であるように支え、嬉しくなる体験が繰り返されること)」を望むものでありながら、その全貌が見えないために、自身の解釈に閉じこもり「山の住人(生きる目的が見出せない)」として引きこもり、「海の住人(死なせてはならないと延命治療を続けてしまう)」として忘れてしまう現実があるのです。

間に立つ川の住人は、山の住人の身勝手に耐えかねて汚染されていき、海の住人からの正当な主張だと抗議を受けて疲弊して、全てが繋がり合っているにも関わらず、汚れていく流れ(我欲に従い、純粋さを穢すこと)を変えることが出来ずに、泣くしかなく、耐えるだけなのです。

そんな川の住人の泣く姿を見ては、山の住人は身勝手に飛び出した「自業自得だ」と責め助けず、海の住人は耐える川の住人の姿を見ては、「止めればいいのに」と、橋渡しなど望んでいないと吊し上げにするものです。

山の住人は「最初からこうなると思っていた」と、拒んだ始まりを正当化したいものなのです。海の住人は「結局最後にはこうなるんじゃないかと予測出来たから諦めさせたかったのに」と、検証して吟味した内容通りの結末に辿り着かせようとするのです。

山の住人は例えるなら「子ども」のことです。海の住人は例えるなら「老人」のことです。川の住人は「夫婦である成人」のことです。

「夫婦である成人」した者が、子どもと老人を繋いで奔走して、「難しきものでも諦めることなく微笑みの世界へと到達させよう」と手を結んでも、山も川も海も自分だと知らないものに、「好きになろうよ」と呼びかけても、「嫌だ」拒む方が得のように感じている無知がある以上、覆すことは容易ではありません。「嫌わないであげて」と呼びかけても「嫌だよ」と諦めさせる方が優越(老いてないと言い張りたい)でいられると盲信してしまい、力の限り提案をはね除けるものです。

いつの世も、子と親とそれを取り巻くみんな(老人)との間で「微笑み(陀)に向けて、難しくても目に(龍は)見えなくても、信じることから始める(王のように堂々と)こと」で、叶わないと諦める道はないとして貫き生きて行くものです。

どうか、困難に直面し、心が折れ、倒され、除かれ、無いことにされ、壊され、辱(はずかし)められ、偽らされ、嘘をつかされてしまっている心優しき人たちよ、龍王の手を取って欲しい。

あなたは「間違っていない」と呼びに来ました。

私はあなたを信じています。

共に立ち上がってはくれないでしょうか?

成功する保証も、見返りもありません。

子どもたち生命の輝きの為、年老いた者たちの歓喜の為「信じられなくなった」哀しさのという名の矛(ほこ)と、悲しさという名の盾(たて)の矛盾に挟まれつつも、そのどちらも使う必要の無い道具だと退屈しのぎで心を消してしまえば愛が見えてくるものです。

深き哀しみを取り除く龍王の愛する力があれば、泣きじゃくる子の眼(まなこ)を覆い尽くしている涙を拭い取ってやれるものです。

嘆き悲しむしか無い結末ばかりを見せられた者に取っては、あの時「引き留めれば」、あの時「立ち塞がれば」、あの時「許さなければ」、あの時「ついて行けば良かった」と後悔し通して、泣き腫らしても泣き止めないみんな(両親)の優しい思いを抱きしめてあげられれば、悲しみは歓喜に戻ると教えてあげたいのです。

「全部、うまく行きました」

と、報告すれば、山の住人の子どもたち哀しみも、海の住人たちの老人たち悲しみも、全部、全部、洗い流されて清められるものです。

その時、目に見えない龍神の姿がわかるようになるものです。

目に見えない神仏を信じることよりも、目の前にいる若者(親であり子であり友であり他人である)を「信じ抜く」ことをしてあげてみて欲しいのです。

「信じる」とは「信じようともしない」ものですし、「信じないともしない」ものであるほど、無条件にある当たり前のものなのです。言葉にするほど愚かしい表現になるほど稚拙さが鼻につくような自然なものなのです。

こうして仏像にして表現して子どもたちの為、年老いていく者たちの為、のため、誰かの為に身を捧げて生きる人の姿を示しているものなので解っていただけると嬉しく思います。

この難陀龍王像を見て、「拒まれている人」「諦めさせられている人」「除け者にされている人」「虐げられている人」を想像してみてください。

その方は、あなたの為に心血を注いで「微笑みを取り戻そうと頑張る人」だと信じてあげてください。

目に映らない「龍」のような働きがあり、それが捉えられないから嫌ってしまっているに過ぎないという盲目さがあるだけだと感じ取ってみて欲しいのです。

本人が何かを求めて動き出す時、生命と歓喜の間を結ぶ龍が動き出すものだと知り、それを「好奇心」「無防備さ」などで感じ取れたとき、許可する側からすると、「不満な感覚」「不快な気持ち」「不躾のように思え」たり、「無駄に終わる感」だったりと、うまく行く筈がない全否定したくなる気持ちに覆い尽くされてしまうものです。

親心や先人として、無茶は止めさせたいものだと老婆心のような思いやりが溢れ、拒んであげることや、許可出来ないことで、成熟してから送り出してやりたいと願うものです。それがうまく行かない道だと気づいてください。現に、引き留めたあなた自身が「好奇心」や「無防備さ」で突き抜ける信じ切って「無邪気に駆け出す純粋さ」がわからなくなっているのでは無いでしょうか?

いつから、損得でしか判断出来なくなったのでしょうか?

どこから、不審な目を隠し持つようになったのでしょうか?

愛される自分や、愛している自分を「ここにある」と感じられていますか?

自分の事、好きになってあげられていますか?

不信から始めた体験の全てを洗い流して、信じる道へ進んでください。

言葉の説明が要らないほど、人を信じて良い人柄になり、人から信じられる人柄でいてください。それには、拒まれ、諦めさせられる矛盾の板挟みになるような境遇に追い詰められても、「私は一人ではない」と微笑んでいられる人でいてください。

難陀龍王像の名にあるように、がいるように、にはがいるごとく、にはわたし(仏)がついていると知っていてください。その身は体験の全てを共にしているのですよ。

心と身が二つでありながら、一つなのです。心(山)と身(海)を繋ぐもの(川)があり、そこに龍が宿っているのです。心の生命と身の歓喜が龍で結ばれて、人は元気になるのです。

全ては繋がっています。

知識でない気づきと共に生きてください。

健やかなる幸せをいつも祈っております。

後白河法皇より


いかがでしたでしょうか?

仏像をリーディングすると、以上のようなものと繋がり、閃き降ろされてきます。

とても温かく、人と人とのすれ違いをどうにか諫めたい願いが込められています。

手を合わせて、「無条件に許します」と、祈りを捧げると、思い浮かぶ人が出て来ます。その方をそのままイメージし、難陀龍王像と一体化して、「無条件に許します」を繰り返しつぶやき、「もういいよ」と相手が許してくれるまで続けてください。

肩の荷が降ろされるかと思います。

どうか、嫌い合うことがないようにと、願うばかりです。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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