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デザイン観の話

前書き、本題、そしてあとがき。

デザイン観って人それぞれだと思う。最初にこんなに断言されるとわかる話も分からないだろうから、少し詳しく話していこうと思う。前にも言ったように、自分はデザインについて大学で学んでいる。大学では、自分の興味の有る無しを問わず、様々な分野のデザインについて学ぶ。色々な先生が、デザインする時に大切なことだったり、実際にどのような過程でデザインしてきたのかなどを実際の資料などを用いながら教えてくれる。なんというか、至極当たり前のことだけれど、10人の先生がいれば、10通りのデザイン観があるのだ。デザインに正解なんてないってわかりきっていることだから全然理解できるし、むしろおもしろいと感じることができる。だが、正直慣れていないのだ。正解がないことを許容されていることに慣れていないのである。今までの学問では、数学のようにしっかりと解が定まっているものが多くを占めてきた。また、英語や国語のように絶対的な正解がないものでもいわゆるベターな回答があったりと、デザインを学ぶ時のように、考え方の多様性を肯定する学問に出会ったことがないのだ。この分野を、何も縛られないから楽しいと感じている人や、制約がなさ過ぎて不安に思う人がいると思う。ちなみに、自分は前者である。縛られないことをいいことに、めちゃくちゃ楽しんであれやこれやと思索している。そして、このようなことを考えている最中に気づいたことがある。それは、思考が制限されないって本当に素晴らしいということだ。正解がないのだから、当たり前なのだが、個人が好きなように考え、好きな場所に帰着する、それがデザインっていうものだ。正解がないと言いながら、ユーザーあってのデザインだからとかいって、ユーザー中心に考えを発展させていかないといけないことは重々承知の上だ。でも、ユーザーのことや環境のことなど様々な要因を考えたものでないとデザインと言えないと極端に言ってしまえばそれも違うように思う。自分なりに表現したいものがあり、それが明確じゃなくてもよいが、きちんと対象さえ存在しているならそれはデザインと言えると思うのだ。ここまで、分かるような分からないようなことをつらつらと書いてきたが、言いたいことはひとつで、デザインって可能性がめちゃくちゃあるんじゃない?ってこと。とにかくみんなが思っているようにはっきりと形はないが存在しているものだから、関わろものも、関わる人の数も関わり方も無限大である。周りに目を向けてみると、自分たちが歩いている商店街だったり、よく目にする公園だったり、身の回りには思った以上にデザインはあふれている。そのことを、ちょっとずつ意識してみれば、実際にデザインしてみるとか関係なく、自分なりのデザイン観っていうものが、植物が根を張り、幹を作り、葉に分かれ、実が成るように、少しずつ出来上がっていくのではないだろうか。

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