赤い公園 『THE PARK』 - 2
1. 『 熱唱サマー』から『The Park』へ
『熱唱サマー』リリース後のインタビューで津野さんは、“今回は収録曲すべて誰でも歌えるようなメロディの曲を作る事を意図した”と語っています。 結果として収録された曲ほぼ全てが覚えやすく、歌いやすいメロディになっていると思いますが、それは単にメロディが分かりやすくなっただけではなく、メロディと伴奏の関係が単純化された結果と思われます。
初期の赤い公園がボーカルも楽器の一つのように扱い、歌のメロディとギター・ピアノ等のカウンターメロディやベースラインがそれぞれ独立して動き、時には不協和音を含むその絡み合いが独特の響きを生み出していたのに対して、『熱唱サマー』の収録曲は、ボーカルと伴奏というように通常のJ-POPの例に倣って役割がはっきりと分担されていること、そして伴奏もコード感がはっきりした物に変化しています。
非常に簡単に言えば、初期の赤い公園の音楽はギターの弾き語りでは原曲の魅力を伝え難くかったと思いますが、『熱唱サマー』ではギターでコードを鳴らしながら歌えば、曲の魅力がほぼ100%伝わるように作られています。
『熱唱サマー』と『THE PARK』の間には3年近い時間が流れており、一聴した感じでは前者のほうがまだ音楽の散らかり方が大きいと思いますが、上記を念頭に置いて改めて両者を聞き比べてみると、それぞれの収録曲は非常に近いものがあります。 例えば、『最後の花』のイントロ・Aメロのバッキングのコード進行パターンは「Mutant」のそれと殆ど同一です。 この二曲のイントロとAメロを続けて聞けば、いかに似通っているかわかるのではないでしょうか。
2. 壊れたリセットボタン ー 循環コード
実際に完成された各曲を聴いていく中で客観的事実として言える事はこの二枚のアルバムでは所謂“循環コード”が使われている事が非常に多いという事です。
『THE PARK』では、下記のような循環コードが使われています。 それぞれ微妙に音の組み合わせやベースの進行は変えられていますし、完全に同一の進行は無いのですが、下記はすべて所謂‘循環コード“に分類されるものと考えていいと思います。
過去の作品でも循環コードが使われている事はあるのですが、あくまで筆者の感覚としては “無理やりポップな曲(半ばコミカルなほどに)を作っていると思われる場合か(「ナンバーシックス」、「カウンター」等)、同じ音型を繰り返す事で閉塞感を表すような意図が感じられるもの(「潤いの人」等)に限られている様に思われるのです。 初期の曲についての拙稿をお読みいただいている方をご記憶にあるかもしれませんが、”メロディとベースがそれぞれ独立して動き、できればその二本の線だけで音楽を成り立たせたい“と考えていた津野さんからすると、コード進行優先で作曲する事はある意味”手抜き“のように思えたのかもしれません。
『熱唱サマー』以降の曲の特徴を考えると、循環コードの多用は“覚えやすくて歌いやすい、安心して聞いていられる“曲を聴き手に提供する為の意図的なものだったのでしょう。 ただ、「曙」の”リセットボタンが壊れた僕らのように”という歌詞を見ると、循環コードの使用は先に進んでも進んでもスタート地点に戻ってしまう”という無限ループのような状態を表している(つまり、「潤いの人」で使われたのと同じ意味合い)とも思えてきます。
津野さん自身がアルバムの”へそ”と呼んでいる「UNITE」と「ソナチネ」ですが、特に「UNITE」赤い公園としてはかなり特異な循環形式を持っています。 Aメロとサビが(転調しているものの)同じメロディとコード進行で同一の音楽を何度も繰り返し、違う音楽はBメロあるいはブリッジの部分のみ、という構造です。 この微妙に形を変えながら無限に繰り返す音楽をアルバムの重心と考えるならば、その他の曲がやはり循環コードを含む繰り返しの多い音楽になっているのも意図的と考えるべきなのでしょう。
ところで、同じような循環コードでも実際にはすべて微妙に進行は異なっていて、同じ進行は見られないのですが、一見バラバラに見えるこれらのコードや曲達には一つの共通点があります。
3. 半音下降音型とシシュポスの神話
如何にも津野さんらしいのですが、これらのそれぞれ微妙に違うコード進行の中に、“半音ずつ順番に下降する音列”が含まれています。
一番分かりやすいのは「Mutant」のイントロ、「ジャンキー」のサビ、「夜の公園」のイントロで、この3か所では一聴して分かる連続した半音下降があります(譜例)。
ただ、実際のところこの音型が使われているのはこの3曲に限らず、下記の様に「Unite」、「chiffon girl」には若干分かり難くなっていますが、同じ音型が隠されています。 (譜例)
上記は繰り返されるコードの中に使われているものですが、曲の流れの中で特にベースラインに同じ半音下降が見られるのは「絶対零度」、「ソナチネ」、「KILT OF MANTRA」,「yumeutsutsu」の4曲で(譜例)、これに装飾音として半音下降の繰り返しが間奏部に使われている「曙」を加えると全収録曲11曲中の10曲になり、上記の特徴が一つも見られないのは「紺に花」一曲だけ、という結果になります。
循環コードが“先に進んでも進んでもスタート地点に戻ってしまう(リセットボタンが壊れた僕らのように)”を表していると考えると、半音下降の繰り返しも“登っても登っても転げ落ちるように出発点に戻ってしまう”(シシュポスの神話のような)光景が浮かんできます。
4. KILT OF MANTRAとyumeutsutsu
このように考えると、当初はアルバムの一番最後におかれる予定であった「KILT OF MANTRA」が下記のようなベースラインで終わっている事はとても象徴的に思えます。
半音ずつ下降して一度は深く沈んだ後、ベースラインは反行して半音ずつ上り始め、それが頂点に達した所でこの曲は終わるように設計されています。
もともと、佐藤さん脱退し、3人で再出発をした際に津野さんが藤本さんと歌川さんを励ます為に作った曲です。 こういう仕掛け* があって当然とも言えるでしょう。
『THE PARK』が「KILT OF MANTRA」で終わってくれていたらいいのに、と自分はずっと思っているのですが、実際にはアルバム制作の最終段階で「yumeutsutsu」が追加されます。
「KILT OF MANTRA」はそのちょっと童謡的な曲調が「勇敢なこども」を連想させるので、この曲で終わると『熱唱サマー』と同じような印象になってしまうのを避けたいという気持ちもあったのでしょうか。 「yumeutsutsu」、は下記の様に『THE PARK』を支配している半音下降のベースラインで終わるのですが、それに続く終結部では冒頭のリフが短調から長調に変容して奏でられ、明るく希望に満ちたように終わります。
それはどこか『公園デビュー』の最後におかれた「くい」が、一瞬過去を思い出しながらも(「塊」のフレーズが回顧される)それを断ち切るように明るくはっきりと終わるところと共通しているように思えます。
*これと同じ仕掛けは、「絶対零度」のBメロからサビに移行する部分でも使われています(本文中の譜例をご参照ください)。 この進行が楽曲に果たす意味合いは「KILT OF MANTRA」の場合と同じだと思います。