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最も小さき無くなりようのない自由

無くなることが絶対にない自由


今の状況、今の立場、今いる場、今の自分、『今』というこの現場にある物事を徹底的に理解、肯定すれば、そこにのみある『最も小さき無くなりようのない自由』というものに目が向きだします。

『最も小さき無くなりようのない自由』とは一体何でしょうか?

ごくシンプルに言うと、もっとも単純な自由のことです。原初的な自由のことです。肩の力が抜けているような全くフリーダムな何の気負いもないシンプルさのことです。これは説明のための言葉ですが、そうではない実際の感覚のことです。「無くなることが絶対にない自由」としか呼べないもっとも初歩的な理解のことです。本当の自由とはこっちだなという腑に落ちる感覚のことです。

普段生活をする中でぼくたちは無意識に自由を探し求めますが、そういう何かのルールと束縛からの解放を目指すかのような自由とは別物の、もっと根源的な自由のことです。

最も大きな違いは「無くなる」か「無くならないか」です。(制限的な自由なのか無制限の自由なのか?)

例えば、2週間の休み。これは2週間後にはなくなってしまいますね。
自由時間も。好きな放課後タイムも、いつかは消えます。大好きことをする、好きなものを集める自由、それも集め終わった瞬間に消えます。そしてまた始めます。

普段は一時しのぎ的な自由時間を数珠つなぎにして生きていると思います。それはそれです。

今の自分のある面、この自分を100%シンプルに認めてあげると、ただそれだけのことなのに、最も自由な真の自由があります。だけど、それはすごく小さいです。最も小さな自由に感じます。けれど、無くなることが無いとはっきりわかります。うまく説明できているとは思いませんが、もっとも基本的な自由の感覚というものに気が付けると思います。

それを発見するのに知るべきことはありません。学びなおすことも必要ないです。むしろ、学んだどうでもいいことをすべて単純に無視して、根源的な標準仕様で備わっている自由の感覚に目を向けて見ればいいだけです。簡単すぎます。

それをする方法が、「今のありようを認める」「今に落ち着く」「今の現状を受け入れる」「今の今を大切にする」ということ達です。

今あるがまますべてを単純に肯定してしまえばいい、というただただ単純な仕組みでした。それ以外にありようがありません。


現況を知る


話は変わり、

ぼくがどうやって現状を受け入れるのかについてのレクチャーをしようと思います。

よく使うのが、意識にはレベルがあるということです。良い悪いはないけれど「意識に相対的なレベルがある」ととらえれば、自分の意識レベル外のことが起こってもあわてないし、怖れないし、ふーんで済ませられます。
しかし自分のレベルの範囲のことが起こるとすごく慌てます。それは普通です。だからあわてたり怒ったりしてかまいません。そのレベルで学んだり体験できたりすることがあるから、そのレベルに今いるだけです。

次に、「秩序がある」ということです。秩序が無いということが無いです。
それを思い出せば、いろんな出来事が今は理解できないでも、次の機会には何かしら理解できるか、糸口がつかめます。なので、秩序があり、順番がありますので、いま全部を知る必要がなくなります。とても気が楽になります。

それと、事実は人(意識)の数だけあり、どれか一つに集約させることはできない(その必要が無い)ということです。そもそもからして宇宙は無限なので、一つに絞れません。強いてあげるならば、一つに集約するならば「愛」とかになるかな。なので、そもそもからして集約させようとする意見がダークネス寄りの意見ならばそれを受け入れる必要がありません。そもそもですが。
ブライトネスな意見ならば、受け入れてみて感じればいいと思います。

最後に、「自分に集中する」です。自分のことは自分にしかできません。特権でもあり、延滞でもあります。どうでもいいこまごましたことに時間をとるのではなくて、人生というメインストリームを選び続ける意味があります。
その他の人の話や出来事はその人のことです。他に集中すると自分のことが進みません。自分に集中できるからこそ、上記の「無くなることが絶対にない自由」というものに出会えます。

深刻に考える必要は全くありません。なぜなら無限だからです。好きなだけあふれるほどの時間をじゃぶじゃぶ使って構いません。が、このタイミングはこのタイミングでしかありません。何を優先し、今集中しているのかに気が付いているといいと思います。シンプルにやめてみて、シンプルに乗り換えてみればいいです。

この「無くなることが絶対にない自由」「最も小さき根本的な自由」というのはゲームで言うところの UR(ウルトラレア)クラス の最高レベルのお楽しみアイテムなので、見つけることができたらすごいですね!(半分冗談です)その価値はあります。

もう自由に困らなくなるからです。

いつも普遍的な価値(無くならない小さな自由)の中にいるので、自由を求めるということが止みます。自由を求める必要が無いのにいつも自由です。

言葉にすれば、それは常に「自分に集中できていて」、「他への集中を控えていて」、「今を認めていて」、「小さな小さな自由を満喫できていて」、そこから動いていませんので、常に最も楽しい価値の中にいる。ということです。

これがぼくが感じられた、最も小さき無くなりようのない自由のシェアです。自由が人生のテーマならためらわずに実践してみてください。

手順は2つ。

  1. 自分に集中する。

  2. 今をあるがまんまに肯定する。

これだけです。URクラスをゲットしてみてください。

ヒント:最も小さく感じられます。

ウェットではなくてドライ


今を認めるということは、理不尽さを感じているのに押し込めて保留するということではありません。何か嫌な出来事のさなかにいるのに、それを無視したり、通り過ぎるのをじっと耐えるというのでもないです。

事実を事実として認識できる、という意味です。何々が起こった。今こう感じている。とシンプルに認めてみるだけのことです。考察ではありません。

何が起こってどう感じて私はこう思ってそれについて意見をめぐらすという思考活動のことではないです。うまく組み替えて認めようと努力したりすることではないです。

内容の評価、考察や振り返りではなくて、ここでそのドラマが起こった事実自体を起こったこととして評価するという感じです。ウェットではなくてドライなのです。

ドラマの内容ではなくて、ドラマ自体、丸ごとを肯定するということです。ある意味、ドラマを丸ごと肯定しないというのは、暗にドラマへの否定があるから苦労すると思いますね。そのドラマへの部分的な不満があり、それについて思考をループさせてすり減らせているみたいです。

ぼく自身なぜ、単純に丸ごとを肯定すれば即時に無くならない自由があるのかの理由はわからないのですが、思うに、単純にすり減らせるエネルギーが残っているからなのかもと思います。
普通は、丸ごと肯定しない場合には、暗に否定があってそこについて独自の意見を持ち、摩擦すると思います。そこでかなり疲弊し、エネルギーを持っていかれると思いますが、見た瞬間、認知した瞬間にもう完全肯定してしまうのであれば、その分のエネルギーが残っています。だから何事にも、余裕が生まれるのかなと思います。

色付きの意見


世界は一人で成り立っているわけではないので、カラフルです。様々な色付けされた意見にあふれかえっています。

物理的に、植物は緑です。人は肌色をしています。白から黒色もありますね。動物はどうでしょうか?ハチは何色ですか?

様々に色付けされた体がそのまま意見の違いを生むとも見えますが、人だけに限って言うと、意見の違いを生むのは個性(カラー)だと思います。

ならばどうして、一色にしないと「ダメ」何ですか?

事実は一つです。「個性的に彩(いろど)られていて、みんなちがってみんないい。」です。意見も同様です。

ごっくまれに「無色透明の意見※」を持った存在もいます。しかし普通は各色様々に選んで生まれますので、その色を誇って、掲げて、喜び勇んで、その色になりきって、楽しめば十分花丸なのです。

自分のカラーを持てたらいいですね。

※個性が希薄で全体観しか持たない少年(あなた)。


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