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おばさんと電車と死体【リレー小説/⑯ : 終】

「まんまSF小説」
「私も同じこと思った」
 鏡のなかの猫田さんは微笑んだ。窓の外の光をうけて、彼女の眼がほんの一瞬、金色に光った。
 ぼくの心臓はどきんと跳ねた。

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 カフェ・アリスの厨房の近くの床に、ダンボールがうずたかく積まれている。飲み物と調味料や食品の箱。中嶋さんは厨房で料理を作り、従業員の宇佐美さんは、メモを片手にぶつぶつ言いながら箱をチェックしたり、従業員用のドアから出たり入ったりしている。

 ぼくは、宇佐美さんの後ろ姿を眺めて、何となくうしろめたい気分で席に座っている。新しいシェフコートがまだ届いていないらしく、ラフな服装の上にエプロンをつけた中嶋さんが、楽しげにお盆をかかえて戻ってきた。テーブルのうえに、パスタの皿とフォークを一本、ビールの小瓶をふたつ置いた。そしてぼくの向かいに腰を下ろすと、両手のひらを上に向けて「どうぞ」と言った。
「いただきます」
 湯気の、なんともいえない香りにうっとりする。はちみつ色のソースが絡む皿をじっと観察した。複数のチーズの香りの上に、つんと刺激的な香りがする。フォークでショートパスタをひとつ口に入れた。チーズの複雑な酸味と塩味と濃厚さ。そして……
「コショウじゃない、山椒ですか」
 ぼくは驚いて叫んだ。中嶋さんは得意そうに笑った。
「そっ。ペンネ・アル・ゴルゴンゾーラ。看板メニューのひとつにしようと思ってさ。どう?」
「……チーズのクセが……香りも玄人好みかも……いやでもゴルゴンゾーラ好きにはたまらない……調味料のせいかな、クセが尖り過ぎずに絶妙な加減になってますね。これやばい。うまいです、めっちゃうまいです……はあ」
 ぼくも一応、プロの端くれだから凄さが分かる。食べるのが止まらない。ぼくががつがつ食べているのを中嶋さんは満足そうにながめて、ビールの小瓶から栓を引き抜くと、うまそうに飲んだ。

 パスタを夢中で食べ終えてひと息つき、ビールの存在を思い出して栓を抜いた。ひとくち飲む。ため息をついて背もたれに身体を預け、正面の男をじろりと見た。
「すごい人だったんですね中嶋さんって……」
「同業者にいわれると非常に気分がいいな」
「オープンはいつですか」
「再来週の金曜日。関係者だけでささやかにオープニングパーティーするからさ、井上くんも来てよ。あとほら、猫ちゃんもつれてきなよ」
「その猫ちゃんってのやめてもらえます?」
「付き合ってもいないのに彼氏づらかよ」
「本人が死ぬほど嫌がってるんです」
「名前といい性格といい、猫っぽいのにねえ。まあがんばれ」
 ぼくはため息をこらえた。「なかなか会えないんです。公務員は忙しいんですよ……警察は特に」
「でもたまに会ってるんだろ?猫ちゃ、いや猫田さんはさ、まったく気のない相手に無駄に希望を持たせるようなことはしないでしょ。会うってことは脈あるんじゃね。有珠もそうだったなー。おとなしそうに見えて、サラッと『わたしあなたに興味がないんです。ごめんなさい』バッサリ!みたいな」
「それは悲しい」
「むやみに引っぱるほうが残酷なのよ。千鳥はそのへん無器用っていうかね。相手のために一生懸命になるのはいいけど、一生懸命すぎて拗らせちゃうとこあってねえ。……昔っからそう。だから心配なんだよな」
「生体ハッキング、じゃない生体ダイブの研究でしたっけ。大場さん、まだスウェーデンですか」
「金はもらえるって言ってたけど。できることをして償いたい、みたいな気持ちがあるんだろうなあ」彼は目を伏せた。「……悪者は、ほんとうは俺なんだ。あれは俺のために始めたことだったんだから。なのに赤シャツも山猫も裁判中で、マイメロは閉鎖病棟にいる」
「宇佐美さんは大丈夫だったんですね」
「怪我した被害者が身内だったんだ。だから被害届を出さなかった。でも通院してカウンセリングは受けなきゃならない。俺もまだ通ってるよ。どこまで役に立ってるのか怪しい気もするけど」
 ぼくは窓のそとをちらっと見た。通行人のほかは誰もいない。中嶋さんは苦笑いした。
「一時期に比べたら、だいぶ平和になったろ。店を再開したら、また記者連中来るかもしれんけど。飯食ってけ、ついでに社内で店の宣伝もしろって言ってやるさ」


「ドリームダイブ無差別傷害事件」は、運よく死者こそ出なかったものの、重症12名中軽症8名を出して、テロか拡大自殺かと、新聞やテレビを大いににぎわせた。マイメロは実名で報道され、現在は病院に入院しながら裁判が進められている。
 大場さんは裁判を受けたが実刑はつかなかった。しかし週刊誌がかなり事実に近いことを(おそらく近藤漱石が情報を売ったと思われる)仮名で記事にしたので、事件のユニークさに世間は沸き立ち、一部の一般人とメディアが本名の割り出しにやっきになった。そして大場さんと宇佐美、近藤、山根の三人はほぼ特定されてしまった。眉に唾つけていた読者も実在の人物が特定されたことで、生体ハッキングの存在を認めざるをえなくなった。
 現在では、ドリームダイブの是非をめぐって、世間で激しい議論になっている。限りなく現実に近いフィクションが、人間の認知能力に与える影響は、どのようなものか──。

 大場さんはしつこい取材と、ネット上で加熱する酷い誹謗中傷と、それに伴う陰湿な嫌がらせの連続にすっかりまいってしまった。ちょうどそのころ複数の研究所から協力依頼が舞い込んでいたこともあり、面接やら書類やらをいろいろ経た後、スウェーデンの研究所に行くことになった。
 中嶋さんとぼく、それになぜか猫田刑事……の三人は、空港まで見送りに行った。大場さんと、研究所から派遣されたコーディネーターのおばさん(日本人とスウェーデン人のハーフの女性で、会って間もない大場さんと、すでに昔からの友達みたいに仲が良い)は、搭乗口で笑って手を振った。

 中嶋さんは猫田刑事を、ぼくの彼女と勘違いしていたらしい。事件のときに猫田さんを見ていたはずだけど、あの時は混乱していたし、覚えていないのも無理はない。彼女が私服だったせいもあるだろう。でも警察の人間と知ると、嫌な顔をした。
「警察の仕事って大変だねえ。出国する直前まで見張んなきゃならないとは」
 彼がいやみを言うと、猫田さんは肩をすくめた。
「そんな意図はないよ。今は非番だし、井上くんについてきただけ」
「おまえらどういう関係なの?」
 猫田さんが口を開く前に、ぼくは急いで答えた。「SF友達です」
「エスエフ友達?」
「今日はマシフィコ横浜でSFフェスがあるんですよ。それで一緒にどうですかってぼくから誘ったんです」
 中嶋さんはあきれ顔になった。
「意味がわからん。まあいいや、じゃ俺はこれで」
 すると猫田さんが声をはりあげた。
「刑事だってSF読むしクソするし甘いもん食うよ。一緒にお菓子を食べませんか?井上くんお手製の」
 背中を向けて踏み出していた中嶋さんは、ぴたっと足を止めた。そして振り返ってぼくをじろじろ見た。「お前が作った菓子?」
「一応パティシエなんです」とぼくは答えた。

 空港の広い展望台は、平日でも小さな子連れの母親や、飛行機を眺めるのが好きな人、休憩中の職員などがのんびりくつろいでいで、それなりに人が多い。広々としたウッドデッキには、飛行機が離着陸する様子を眺めるのにうってつけの、色んな形のベンチがたくさんある。
 自販機で買ったコーヒーを片手に、猫田さんはマカロンをほおばった。
「おいしい」ニコニコ笑ってる様子はとても刑事には見えない。こんな風に彼女が笑ったのは初めてで、ぼくは内心ガッツポーズをした。中嶋さんは、ぼくと猫田さんの様子を眺めたあと、無言のままマドレーヌをかじった。空を眺めながらひとつ食べ終わると、彼は保冷袋からもうひとつ取った。ぼくと目が合うと、彼は微笑んだ。
「うまいよ。やるじゃん。なんか久々にうまいもん食ったって感じ」
 その言い方があまりにも優しくて、ぼくはびっくりしながら応えた。
「ありがとうございます……」
 猫田さんは早くも5個目のマカロンを手に取っている。ぼくもマドレーヌをかじった。卵とバターの甘い香りが心地良い。中嶋さんはコーヒーをひとくち飲み込んだ。
「俺さ……刑事がいるのに言っていいものか分からんけど。今でも時々、夢に見るんだよな。ドリーム・アリスのこと。お前にひどいことしたよな。ごめん」
 中嶋さんはぼくに向き直ると、頭を下げた。そして話を続けた。
「夢とはいえ、感触も見た目もほとんど現実と変わらない世界でひとを殺して殺しまくってさ。それが楽しかったんだよ……ひとりで寝てるとき思い出して怖くてしょうがなくなるんだ。あの時はおかしかった、とか仕方なかった、とか言い訳しても、それは違うって自分でよく分かってるんだ。ああいう面は確かに俺のなかにあるんだ。俺は人殺しだ」
 中嶋は弱々しい笑みを浮かべて猫田さんに言った。
「どうする?俺は善人じゃない。逮捕するか?」
 猫田さんはむしゃむしゃ食べながら答えた。
「自分は悪人だ、って表明するだけでは刑事罰の対象にならない。けど怖いって自覚あるならいいと思う。詐欺と同じでさ、自分は絶対大丈夫だ善人だって思う人ほど危ういんだ。けどさ……」猫田さんはごくんと飲み込んだ。「どうしても誰か殺したくなったら言って。対応するから」
 中嶋は苦く微笑んだ。そして手元の菓子を眺めた。
「井上、お前この菓子をさ、猫田さんに食べさせたくて作って持ってきたんだろ?俺も誰かのために初めて作った弁当は、有珠に作った弁当だったんだよ。花見にかこつけてさ。有珠はおいしいおいしいって喜んでくれてさあ」
 中嶋さんは空を見上げて、ため息をついた。
「……で、……自分があいつらに何をできるかって考えたら、やっぱ飯屋しかないよなって。だからさ、カフェ・アリスを再開する。宇佐美と近藤と山根に声をかけて、一緒に店やろうかと思う。それで千鳥と篠田を待つ。……俺にできるのはそれくらい。毎日、奴らにうまい飯を食わせる。続けられる限りそれを続ける……」ぼくの顔を見て笑った。
「お前が作った菓子も店で出そうかな。頼んでもいい?」
「よろこんで」ぼくは胸がいっぱいになった。

「乾杯しよう」と、唐突に猫田さんが提案した。
「なにに対して?」
 ぼくの問いに猫田さんは「なにに乾杯する?」と中嶋さんに訊いた。中嶋さんはコーヒーカップを手に取って、それをかかげた。

「俺たちの出会いと、今日の空に」

 ぼくらはカップをかかげて乾杯した。目の前を滑走する飛行機が力強く飛び立ち、その白い姿は、青い空のなかに溶け込んでゆく。

 どこまでもつながる空。すべての国に。過去と未来に。


(完)

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