小説『不透明な紅茶』
「幻のアイスティーよ」
ナナは、眼を輝かせながら、小さくて張りのある声で言った。
それは、不思議なくらい不透明な紅茶だった。
Scean1 紅い車
抱えていた紙袋を左手に持ちかえて、僕はドアのべルを鳴らした。
よくある、ピンポンという軽薄な音ではなくて、リーンと鳴るこのべルの音が好きだ。
そして、今日はどんな服を着ているだろう、とか、どんな顔で僕を迎えるだろう、と考えたりするこの瞬間がとても好きだ。
チェーンを掛けたまま、ナナはそっとドアを開けて、僕と眼が合うと嬉しそうにドアを閉める。
このまま二度とこのドアが開かなかったら、いったい僕はどうすればいいんだろう。
そんな、ありそうもないことを考えていると、カチャリとチェーンの外れる音がして、ドアが大きく開いた。
「おかえりなさい」
ナナは、体にぴったりとしたノースリーブの黒のワンピースを着て、黒い服のせいでよけいに茶色く見える髪を揺らして笑った。
そして僕は、自分でドアを開けるよりも、たぶん何倍もの喜びを抱えて部屋へと入る。
「何で来たの」
「車」
「どうして?」
「なんとなくだけど。乗る?」
「いいわね。ちょっと待って」
ナナはワードローブを開けて、真っ赤のワンピースを取り出した。
それは、全然黄色みのない紅で、ナナの、そして僕の大好きな色だったけれど、その色の他は今着ている服とたいしてかわらないように見えた。
背中のファスナーを外そうとして、不自然に体を曲げているナナに手を貸そうと、立ち上がりながら聞いた。
「今着ている服は、気に入っていたんじゃなかったっけ」
「ええ、とても気に入ってるわ」
「じゃあ、どうして着がえてるの」
「渓の車が紅いからよ。渓の車に乗るときは私、いつも紅い服を着ることにしてるの」
「ごめん。気がついてなかった」
ナナは振り返って、ファスナーを外す僕の眼をのぞき込むようにして、ゆっくりと微笑んだ。
「怒ってないよ。私、自分が気持ちいいからそうしてるだけ」
ナナは肩を軽く揺らして、黒いワンピースを脱ぎ捨てた。
僕はナナが気を悪くしなかったことに、半分ほっとして、半分淋しい気もした。
ナナは、するりと音もなく紅いワンピースを着ると、ついと体を伸ばして、今度はさっきより簡単に背中のファスナーを閉めた。
背の高い鏡に体を映しながら、服と、ナナいわく車の色にあわせてマニキュアを選んでいる。
夜中の十二時半から、ふたりが眠くなるまでの軽いドライブに、マニキュアを塗りかえることに僕は少しとまどった。
でも、楽しそうにマニキュアを塗る姿を見ていると、急かしたりして小さな楽しみを壊してしまうのは、とてもつまらないことのように思えてくる。
僕はマニキュアを塗る指の動きや、爪に髪がかからないように顔を軽く振る仕草を、黙って見ていた。
両端が離れてしまうぐらい、はっきりした二重瞼。
きつく見えるぐらいすっきりと通った鼻すじ。
細くて濃い眉は、それぞれナナの顔に深刻で悲しそうな印象をあたえていた。
そこに、小さくてぽってりした唇の、アンバランスなぐらいあどけない表情の口もとが、全体の悲しさを優しい頼りなさに変えていた。
それが、笑うと、ぱっと雰囲気が変わる。
生きて動いている人間の激しさと気まぐれっていう感じ。
ナナは一度目のマニキュアを塗りおえると、唇をとがらせて、慎重そうな眼をして、爪先をフッと吹いた。
そして、冷たそうなスプレーを万遍なく吹きかけている。
その手。
無理な力を加えたりすると、音もなく簡単に折れてしまいそうな手首と、その手首からほとんどそのままの細い手の甲に、きれいに収まっている長い指。
僕がはじめてナナを見たのは、その手だった。
あの時、僕のテーブルにグラスを置いたその手は、僕が今まで見てきた手の中で一番素敵な手だった。
僕はいつも、女の人を見るとき手を見てしまう。
とてもきれいな女の人に、ごつごつして爪の上に指先が頭を出しているような手がついていたりすると、がっかりしてしまう。
反対に、清潔感のないメイクや服装の女の人に、か弱くて繊細な手がついていたりすると、ああ、もったいない、と思ってしまう。
でもたいていは、後のパターンで、きれいな手にはっとして顔を見上げて、何となく淋しくなってしまうことが多い。
でも、あの小さなカフェで僕が顔をあげてみると、ナナの横顔はただきれいなだけではなくて、その手の一部みたいにぴったりとはまっていて、僕は思わず声をかけてしまったんだ。
「きれいな手ですね。とても」
ナナは驚いたふうでも、バカにしたふうでもなく、にっこり笑って
「どうも、ありがとう」
と言った。
それから3年後にナナに会ったとき、僕はそのことをすっかり忘れてしまっていた。
きれいな女の子を相手に、騒いだり歌ったりするのが目的の店に連れて来られた、場違いな僕と。
同じくらい場違いな様子で、ナナは物静かにブランデーのグラスをかき混ぜていた。
きれいな手の中で、ゆっくりと水割りが出来上がっていくのを、話すこともなく見つめていた。
「きれいな手ですね。とても」
黙っていることに、居心地の悪さを感じて、何気なく言った。
「どうも、ありがとう」
ナナが懐かしそうに笑ってそう言ったとき、僕ははっきりとあの時のことを思い出した。
「私、この手を褒められたのは二度目なの」
「思い出したよ。駅前のカフェ七色だったね」
「ずっと憶えてたわ。あれから私、自分の手がとても好きになったの」
僕はぼんやりとしていて、ナナがマニキュアを塗り終わって、こちらへやって来たのに気づかなかった。
「どう?渓の車の部品みたいに見えるかしら。私」
「僕も、紅い服を着てくればよかったのかな」
ナナは、僕の爪先から頭のてっぺんまでをゆっくり眺めた。
「その服は、渓の一部みたいによく似合ってる。その服を着てる時の渓がとっても好きよ」
「ドーナツを買って来たんだけど。食べる?」
「車のなかで食べてもいい?」
そうしよう、と僕はうなずいた。
僕は、二人乗の車のドアを開けた。
後ろの座席が狭い、とかじゃなくて、僕の車は完全な二人乗だ。
何年か前に車高を下げたので、走っていると、他の車とは視線の高さが違う。
他の車の人たちとは、全然眼が合わないし、他の車に乗っている時とは視野が断然違ってくる。
シートを倒しぎみにしてこの車に乗って、せこせこと前かがみに走っている他の車を見上げると、なんだか自分がとても余裕のある人間になった気がして、昔はこの車がとても好きだった。
この歳になってみると、こんな改造をしてしまったことが、なんとなく気恥ずかしくなっていたせいで、ナナに会うまでは、あんまり女の子を乗せなかった。
「この車、なんだか排他的なところが好きよ。なんとなく、渓らしい」
ナナの価値観は、こういう理由だからいい、とか正しいからいい、とかじゃない。
好きだから、いい、好きじゃないから、しない、ただそれだけ。
わかりやすいように聞こえるけれど、そんなナナを本当に理解するのは、時々とても難しい。
僕たちは高速にのって、ほとんど車のないまっすぐな道を、危ないくらい速く走った。
「もっと速く。もっと速くよ」
僕は、車がバラバラになりそうなぐらいに、スピードをあげた。
「どこに行こうか」
「いなか」
「どんな?」
「どんなって。そうね。なんにもないところ」
「なんにも?」
「そう。たとえば、渓が、どこに行こうかなんて考えなくなるぐらい、なんにもないところ」
僕は最初に目についた出口を降りて、海沿いの道をあてもなく走った。
一生懸命いなかを捜してもよかったのだけれど、ナナが望んでいるのは、そんなことではないと思ったからだ。
Scean 2 こわいくらい きれい
僕たちは、海沿いの暗い道を、黙って走っていた。
海岸線に沿って大きくカーブしたときに、ナナが、ふいに言った。
「私、どんどん歳をとっていくわ」
「そうかな」
「そうよ。あの店で再会したときよりも、私、歳をとった」
「あの時と変わらないくらい、きれいに見えるけど」
「少なくとも、はじめて渓と会ったときよりは、ずっと醜くなったわ」
「それは醜くなったってことじゃないよ。あれから4年も経つんだし、きれいの性質が変わったんだよ」
ナナは前を向いたまま、僕の目を見ないで言った。
「あの時みたいに、人をはっとさせるような美しさが、今の私には、もう、ないわ」
「僕は今でもしょっちゅう、はっとするけどね」
バックミラーに映ったナナは、かさかさと声だけで笑った。
高校の時ひとりだけ、出席をつけるときに「はい」と返事をさせる先生がいた。
小学生の時と違って、みんな変に構えてしまうから、突然返事をすると妙に上擦った、かさかさした声が出て、きまりの悪い思いをした。
僕は、そんなことを思い出していた。
海沿いの道路の脇に車を止めて、僕たちはドーナツを食べた。
ドーナツを食べおわると、僕は黙って車を走らせて、もと来た道を帰る。
行きと同じように、高速に入ると僕は猛スピードで車を走らせた。
ナナはとりとめのないことを、ひとりでしゃべり続けた。
そして、ふっと黙りこむと、独り言みたいに言った。
「本当の私のことを、好きでいてくれる人はいるのかな」
「僕が好きなのは、本当のナナじゃないのかな」
「言い方を変えるわ。みんな本当に私のことを好きでいてくれるのかしら。私の言ってることわかる?」
「心から好きか、ってこと?」
「ちょっと違うわ。心を好きかってことかしら」
ナナは、考え事をしているときの癖で、不自然に目玉だけをちらちらと動かした。
「それもちょっと違うかもしれない」
「いろんなふうに言ってみて。思いついたことを。僕がもっとわかるように」
ナナの細かい表情の変化をできるだけ見落とさないように、僕は車のスピードを少し落とした。
スピードオーバーを知らせる警報ベルが急に鳴り止んで、重いエンジンの音だけがお腹の底から響いた。
「みんなが、私をちやほやしてくれるわ」
そうだろうな、と僕は思った。
ナナの眼の光や、ゆったりとした唇の動きを見ていると、ナナの口から出た言葉がどんなに僕を傷つけたとしても、僕はちょっと困ったように苦笑いをして、それで許してしまう。
みんなナナの顔を見ていると、多少のわがままは無意識に受け入れてしまう。
「笑わないで聞いてね。みんなが私を好きなのは、言ってみれば崇拝なのよ。ひとりの女の子として、私を愛してはくれないわ」
笑わないでと言ったのに、ナナは僕のほうを振り返って、自分で少し茶化すように笑った。
「先生って結構、残酷なのよ。よく好きなものどうしって分け方するでしょう。私あの言葉を聞くたびに、逃げ出したくなるの」
ちょっと意外だった。
たしかに黙っているときは、とっつきにくそうに見えるけれど、見た目も性格も、人を惹きつける華やかさでは誰にも負けていないナナが、どうしてそんなことに傷ついたんだろう。
「最初に覚えてるのは、幼稚園の時。ほらよくやるでしょう。2人組、3人組とか言って、先生のピアノとかけ声に合わせてみんなで手をつなぐ遊び」
「そんなのがあったね」
「あんまり憶えてないけれど、昔から鈍いほうじゃなかったから、最初は楽しんでたと思う。でもここからは忘れない。そのころから、なんて言ったらいいのか分からないけど。なんとなく感じてたの。私は特別なんだって」
自分の言っていることが、おかしな感じにならずに伝わっているかを確かめるように、ナナは僕の顔をじっと見つめた。
「なんだか話が、めちゃめちゃになってきたね。その時、先生が『一番なかよしの人』って言ったのよ。誰も私のところへ来てくれなかったの。最初は、ああ、あぶれちゃった、ぐらいにしか思わなかった。でも、何度やってもあぶれちゃうのよ。『一番なかよし』のときだけ」
「何度やっても?」
「そう。何度やっても。それでそのうちだんだん怖くなってきたの」
「ひどいな、その先生。僕ならそんなこと何度も言わないな」
僕が片手でたばこを取り出すと、ナナは僕に車のライターを差し出した。
「小さい頃はまだいいの。これが続くって気づかなかったから」
「続いていくの?」
「いつもじゃない。忘れた頃にやってくるの。そのときもね、先生が『よぉし中学最後の遠足だから、今回だけ特別に自由班にしよう』って言ったのよ。みんなわぁーって盛り上がって」
そこでナナは、姿勢を正すみたいに座りなおした。
「そのクラスで、休み時間に独りぼっちでいたことなんて一度もなかったのよ。それなのに誰も私をグループに入れてくれなかった。みんな夢中で、だあれも私のことなんて思い出さなかったのよ。その5分ぐらいの時間が、私にとってどんなに長かったかわかる?」
「もちろん。でも、どうして誰かに入れてもらわなかったの?ナナだったら、みんなきっと喜んで入れてくれたと思うよ。きっと、誰かのところにもう入ってると思ったんじゃないのかなぁ」
「そう。みんなもそう言った。でもやっぱり、渓もわかってない。私怖かったのよ。だってみんなパーッて立って行って、集まっちゃって、私どこへ行けばいいのかわからなかったの」
ナナが少し体を起こして、僕の表情を見つめる気配がした。
「だって渓、一番心を許してる友達のこと忘れちゃったりする?私のこと一番だと思ってくれてる人が一人もいなかったのよ。二十人もいるのに。そんなことってある?私どうすればよかったって言うの?」
「簡単なことだよ。みんなと一緒にキャーって走って行って、誰かの手を握っちゃえばよかったんだよ。プライドが高すぎたんだね。そうじゃなきゃ、普段が八方美人すぎたんだ」
「そう。そうかもしれないわ」
張り詰めていたナナは、急に肩の力を抜いて、シートにもたれ込んだ。
僕は、ナナを深く傷つけたような気がして、少し慌てた。
「だから、渓といると安心するのよ。普段はびっくりするぐらい甘いのに、こういうところで手厳しいのね。面と向かってプライドが高いなんて言われたの、渓、あなたが初めてよ」
僕は、ナナが穏やか気持ちになったのに、びっくりしていた。
言ってしまった瞬間に、もう二度と口をきいてもらえないかもしれないと、すぐにも取り消したいような気持ちだったのに。
「渓といると世界はとてもシンプルね」
ナナは少しだけ笑った。
「ねぇ、渓。淋しかったの。ただ怖かったのよ。本当に誰かにそばにいて欲しいときに、独りぼっちになっちゃうかもしれないって」
バックミラーに映るナナを見ながら、僕は、きれいじゃないナナを一生懸命想像してみた。
でも、それは、うまく頭に浮かんでこなかった。
ナナがそれをどんなに悲しんでいるかを知ってしまった今でも、バックミラーに映るナナはとてもきれいで。
眉を寄せて遠くを見つめるナナは、いつもより、いっそうきれいに見えたから。
「怒らないで聞いてね。渓も私のことを、本当に心から好きでいてくれてるのか、時々わからなくなるのよ。私ずっと、誰かのアクセサリーだったの。みんな疲れて寄り添いたいときは、もっと暖かい胸を選ぶわ。悲しいときには、もっと優しい人を選ぶ。一生いっしょにいるなら、もっとわかりやすい人を選ぶわ。誰かの自慢になんてならなくていい。私が私だから好きでいてくれる、そんな人がほしいの。ねぇ、私の言ってること、わかる?渓」
半開きになったナナの柔らかそうな下唇が、少し震えて、ゆっくりとあふれだした涙が、頬の途中からぱらりと素早く流れ落ちた。
僕はなにか言おうとしたけれど、今は、何を言ってもただの気休めにしかならないような気がして、何も言えなかった。
その、本当の答えを知っているのは、僕ではなく、ナナ自身だったから。
「きれいじゃなくても私は、渓と出会っていたかしら。こんなふうに愛されていたかしら」
そう言ったときのナナの横顔があんまり淋しくて、そして、やっぱり、こわいくらいきれいだったから。
Scean 3 朝の自転車
部屋の中がうっすらと明るくなってきたのに気づいて、窓の外を見ると、ビルの隙間の空が、下の方だけ甘いオレンジ色に染まっていた。
オレンジ色、というのもちょっと違う。
不透明な白と、淡くて重い桃色をまぜたような、子供の頃に飲んだヤクルトのような色。
昨日眠りすぎてしまった僕は、なんとなく眠れないまま、ベッドの中でぼんやりしていたのだけれど、何だかベッドに入っているのがもったいない気がして起き上がった。
朝焼けをもっとよく見ようと、窓の側まで立って行って、ガラリと勢いよく窓を開けた。
蒸し蒸しとした空気が、まだ季節のどこかに引っかかっているような朝だったのに、窓の外の空気は、冬の朝のように冷ややかに流れこんで来た。
しばらく窓の外を見つめていると、さっきまで濃紺だった空が、下のほうから次第に、明るい透けたような青になって来る。
僕の知っている真昼の空に近づいてゆくに連れて、空の高さはどんどん高くなってゆき、目を覚ましたときよりも、ずっと空が大きくなってしまったような気がした。
ふいに思いついて、窓の側を離れて、冷たい水で顔を洗った。
まだ夏のパジャマを着ていた僕は、それを脱ぎ捨てると、洗いたてのTシャツとジーンズに着がえた。
窓の側へ戻ってみると、窓の外の空は、すでに朝の活気を持ちはじめている。
僕は、急に自転車に乗りたくなって、窓際のトレイの中に放りこんだままになっていた自転車のキーをつかむと、トントンと軽快な足音を意識しながら階段を下りた。
ゆっくりと自転車に乗っていると、耳の横を冷たい風が流れて行くのを感じる。
仕事柄、夜の遅い僕は、目が覚めて頭のてっぺんにある太陽しか知らなかった。
ナナはこんな朝があることを知っているだろうか。
僕は、今来た道を引き返して、自分の家を通り過ぎ、ナナの家へと自転車を走らせた。
ナナは、きっとまだ眠っているだろう。
でもこんな朝なら、早朝の突然の訪問も許されるような気がして、僕は朝が終わってしまわないうちにと、勢いよくペダルを踏んだ。
呼び鈴を鳴らすと、パジャマ姿のナナが、少しびっくりした顔で出てきた。
いつも通り、一度ドアを閉めてから、チェーンを外すあいだ、ナナの着ているパジャマが、昨年僕にくれたものと同じ柄であることさえ、いつもより嬉しく感じていた。
「自転車に乗ってきたんだ」
ナナが尋ねる前に、僕はそう言った。
ナナは少し驚いた顔をして、ウキウキした僕の顔を見ると、つられたように楽しそうに笑った。
「どんなことが、あなたをそんなに楽しませているの?教えて?」
ナナは母親のような眼をして笑った。
「ナナに素敵な朝を届けにきました」
僕はちょっとおどけて、王子様のような身振りで恭しく言った。
「そんなふうに、いつもとちがう渓を見ていると、きっと楽しいものだって気がするわ」
僕はナナの手を取ってギュッと握った。
「早く見に行こう」
ナナがいつもより手早く着がえるのを見ながら、こんな朝早く起こされたナナが、僕の楽しい気持ちを壊さずにいてくれることを、とても嬉しく思った。
洗いざらしの白いTシャツをきたナナは、自転車に飛び乗った。
ナナにしてはめずらしいジーンズ姿は、その時の気分にすごく忠実に服を選ぶ、ナナらしい選択だ。
「こんなところに公園があったわ、行ってみましょう」
それは、僕たちが夜中のコンビニに行く時に通りぬける、いつもの見慣れた公園だった。
「こんなところに、公園があったね」
僕も楽しくなって、芝居がかって繰り返した。
公園の真ん中には、コンクリートで固めた大きな山があって、表側は本物の石を埋めこんで、鉄の鎖を吊るしてあり、ミニチュアのロッククライミングができるようになっていた。
裏側は大きなすべり台のようになっている、よくある遊具だ。
ナナは自転車を止めると、勢いよくコンクリートの山を駈け上がった。
僕も追いかけて駈け上がったが、靴のせいかツルツルと滑って、ナナのようにはなかなか上手くいかない。
僕たちは夢中で追いかけ合い、最後にナナが山のてっぺんでゴツンと膝をついて転んだ。
ナナは、膝を抱えたままで僕を見上げて、びっくりするぐらい大声で笑った。
「痛い?」
僕はナナの上にかがみこんで笑顔で聞いた。
「すこし、痛いわ」
ナナは、僕を見上げて微笑んだ。
「子供にぶたれたぐらい?」
僕が尋ねると、今度はすこし深刻な顔で言った。
「100mくらい向こうからブロック持って走ってきてゴンって、子供にぶたれたくらい」
ナナは、早口に言った。
「ひどく痛そうだけど、ちょっと楽しそうだね」
楽しくなって言ったけれど、悪ふざけがすぎて危ない目に合わせたことを、すこし後悔しはじめて心配になってきた。
その瞬間、僕は足をすくわれて、大きく尻もちをついた。
ナナはパッと飛びのいて、
「スキあり」
と眩しく笑った。
僕は少し後悔したことも忘れて、また夢中でナナを追いかけた。
「ねぇ、渓、おなか減らない?」
「言われてみると、ものすごく減ってる」
「でしょう?」
「お弁当を買って、公園で食べよう」
僕はチラッとナナを見て全力で走り出し、自転車に飛び乗った。
ナナも笑いながら追いかけてきた。
僕たちは自転車に乗って、無駄に遠いコンビニまでお弁当を買いに走った。
ナナが、せっかく自転車に乗って来たんだから、いつもより遠くの、知らないコンビニへ行きたいと言ったからだ。
「僕も同じことを言おうとしてた」
今日はふたり、同じことばかり思いつく。
気持ちのいい朝の空気が、二人を、とても近づけているのかな。
それとも、こんな素敵な朝には、誰だって、同じことを考えてしまうのかもしれないね。
僕たちはそんなことを話しながら、軽快に坂道を走り降りて行った。
Scean 4 逆光の中のナナ
「今日はいつかの朝より、ちょっと気だるい朝なの。ねぇ、モーニングを食べに行きましょうよ」
ナナは、胸の中にいる僕の髪を優しく撫でながら言った。
一晩中、ナナは起きていたのだろうか。
「こうしているほうが、ずっと落ち着くの」
昨日の夜ナナは、自分の腕の中に、僕の頭を抱いた。
真っ暗な部屋のなかで、カーテンを透かしてわずかに洩れる月の明かりだけが、二人の顔を薄っすらと浮かび上がらせていた。
最初のうち僕は、腕まくらをされることに慣れていなかったし、僕の頭の重みはナナの細い腕を壊してしまうんじゃないかと落ち着けなかった。
でもナナに優しく髪を撫でられていると、腕まくらって初めからこうだったような気さえして来る。
「私こうやって渓の頭を抱いていると、男の人がどうして、女の子の髪を撫でたがるのか、わかるような気がするわ」
ナナは、僕の頬に優しく手を置いた。
「あなたを抱いているとね。たまらなく、いとおしいものに思えてくるの。今まで、私が渓にいだいていた愛情とは、ちょっと種類の違う。わかる?」
「そうだね。今僕が、ナナの肩に頭を乗せて感じている愛情が、今まで感じていたものと違う種類のものだってのは、わかる。うまく言えないけど」
「そう。うまく言えないけど。でも、今あなたに言ってあげたい言葉なら、はっきりと分かるわ。私が守ってあげる。ずっと側にいてあげる。何も心配しなくていいのよ、って。だからこうして髪を撫でるのね」
ナナは胸に僕の頭を抱いて、痛いくらいにギュッとした。
「こうやって。耳を当ててナナの体を伝わってくる声を聴いてると、わけもなく泣いてしまいたくなるよ」
ナナは、僕の額に柔らかな唇をつけた。
「どうして、男の人は女の子を抱くのかしら。どうして、反対じゃいけないのかしら。ねぇ、渓」
僕は、ナナのあごの下の曲線に、頭を埋めて答えた。
「わからないな。今僕は、とっても安らかで幸せな気持ちだけど。でもずっと、こんな頼りない気持ちのままじゃ、僕はきっとダメになってしまうよ」
「私は?私もダメになるかしら」
ナナは、僕の耳の後ろの髪を、指でなぞった。
僕を優しく抱くことで、ダメになっていくナナを、思い浮かべることができなかった。
だから、壊れそうなナナを抱きしめることしかできない僕が、いつも感じていた、そのままを口にした。
「きっと、やりきれなくなってしまうよ」
ナナは、それっきりなにも言わなかった。
そのまま知らないうちに、僕は眠ってしまったけれど、優しく首すじを辿るナナの指先に、僕は時々目を覚ました。
僕は目を覚ますたびに、ナナの問いかけを思い出して、その問いかけの本当の意味を捜そうとした。
そしてまた、自分でも気づかないうちに眠りに落ちて行った。
淡い色のカーテンを通して差しこむ朝の光が、少し眩しく僕たちを照らしはじめたころ、ナナは言った。
「今日は、いつかの朝よりちょっと気だるい朝なの。ねぇ、モーニングを食べに行きましょうよ」
ナナは起きだして、淡い色のカーテンをサァーっと軽快な音を立てて開けた。
窓の外の眩しい景色は、真っ白な四角い空間となって浮かび上がり、僕の顔を刺すように照らした。
少しだけ昨日の気だるさを残しながらも、どこまでも爽やかな朝を楽しんでいるナナは、まるで、昨日僕がどんなに考えても見つけ出せなかっ
た答を、たったひとりで見つけてしまったみたいだ。
ナナは、とても気に入って買ってしまったんだけど、なかなか着る機会がないの、といつか笑って見せてくれた、真っ白なリゾート風のサンドレスを取りだした。
朝の光を背中に受けて、ナナはゆっくりと白い服を着る。
ベランダに続く大きな窓は、まぶしい光の輪郭になって、ナナを蜂蜜色に縁どっている。
白いサンドレスを着た姿は、ひとつの影のように見えた。
僕はそんなナナをもっとよく見たくて、眩しく眼を細めた。
「街を歩く服じゃないし。だからって、その辺へ買い物へ行くのに下ろすのも、なんだか悔しくって。でも、今日は、特別な朝だから」
ナナは、眩しそうに見上げている僕を、まっすぐな眼で見つめた。
僕たちは、朝の公園を通り過ぎ、商店街のほうへ向かって歩いていた。
「私、あの公園をひとりで横切るたびに、あの朝を思いだして楽しくなるのよ。新しい思い出ができてしまったら、あの日の記憶が薄れてしまう
ような気がしない?私、それがもったいないの」
ナナは、この街の商店街を知らない、行ってみたいと言った。
僕は、生まれ育ったこの街の商店街に、何ひとつ特別なものは、見つけられなかったけれど、ナナはそれをもったいないと言う。
「こういうところにね、この街が隠れてるのよ」
ナナは、アーケードさえ無い小さな商店街の入口に立つと、そこに隠された秘密の匂いを捜し当てるみたいに、深く鼻で息を吸いこんだ。
「私ね、計画的に開発された市街地で育ったの。だからこういう、ある意味めちゃくちゃな、小さな商店街に憧れるのよ」
この通りは、一応商店街という看板は立っているものの、民家の中にぽつりぽつりと店が並んでいるだけのもので、確かにある意味めちゃくちゃなところがある。
僕はこの街で生まれ育ったけれど、近くには賑やかな駅前商店街や、華やかなショッピングセンターがある。
ここは、僕にとって単なる抜け道でしかなかった。
ただでさえ淋しいところなのに、朝早すぎてほとんど開いている店のない商店街を、ナナは物珍しそうに、あちこちのぞいて歩いた。
「このへんに、モーニングを食べさせてくれるところはあるかしら」
「ナナが働いてたみたいな、きれいでお洒落なところはないよ」
ナナを初めて見たカフェは、冴えない格好だと気後れしてしまいそうな、お洒落で煌びやかな店だ。
きれいな食器や小物なんかを置いている店の一角が優雅なティーラウンジになっていて、その店の繊細なグラスや、アンティークっぽい陶器類は、女の子たちにとても人気がある。
僕は、ナナがこの商店街の喫茶店にガッカリするだろうと思った。
「それじゃあ意味がないのよ。ここでしか食べられないようなモーニングじゃないと、意味がないの」
「たとえばどんな?」
「そうね。なにがいいかしら。たとえば、幻のアイスティーとか」
「幻のアイスティー?」
ナナは後ろで手を組んで、僕の少しだけ前を、気まぐれに踊るように歩いている。
「そうよ。見かけは全然普通の紅茶と変わらないのよ。でも、今じゃそのアイスティーを作れる人は、もう、ひとりしか残っていないの」
「世界に?」
「そう。世界に。そして今では、群がるグルメや一儲けを企む人たちに嫌気がさして、この街でひっそり暮らしているのよ。そして、本当の味がわかる人だけに、本当のアイスティーを作ってくれるの。どう?素敵でしょう?」
ナナはくるりと振り向いて、いたずらっぽく笑った。
「いいね。でも、後継者はいないの?」
「後継者なんていらないの。その人が死んでしまったときに、幻のアイスティーも終わるのよ」
「それがこの通りなの?」
「そうよ。幻のアイスティーを求めて世界中から集まった人たちで出来たのが、この街なの。本当のアイスティーの味がわかるなら、私たちにも
見えるはずよ。その店が」
ナナのでたらめな話に、僕は楽しくなって笑った。
「見つかるといいね」
「ええ。でもこんな話あったよね」
「そうだったかな」
「裸の王様かしら?それもちょっと違うわね」
いったい何だったかしら、ナナはそう言いながら、開きかけた店をのぞいて歩いた。
「たしか、この街の、言い伝えだよ」
僕がそう言うと、ナナは逆光のなかで笑った。
Scean 5 不透明な紅茶
それは不思議なくらい、不透明な紅茶だった。
商店街の中を僕たちは、いろんな店をのぞきながら歩いていた。
「モーニングには、ゆでたまごがついてなきゃいけないのよ。エッグベネディクトとか、ベビーリーフのサラダとかが彩りよく並んでるようなのじゃなくて」
これぐらいの、とナナは親指と人差し指で1㎝ぐらいの隙間を作って見せた。
「これぐらいの薄い、バターを塗っただけのトースト。洒落たワンプレートじゃなくて、普通に家で使うようなお皿にそのまま乗ってるようなの」
そんなことを話しながら、小さな商店街も終わりにさしかかった時、古ぼけた木造のアパートの1階にある喫茶店が、目にとまった。
入口のドアは開け放されていて、ドアの横には、アパートの2階に続く錆びついた螺旋階段が繋がっていた。
ドアと螺旋階段の間の木の柱に『モーニングあります』と書かれた色画用紙の短冊が、頭の黒くなった画鋲で止めてあった。
ナナは、大きく眼を見開いて、僕を斜めに見上げた。
「見えたわ」
入口に近づくと、古い民宿の洗面所に敷いてあるような、淡い水色の細かいタイルを敷きつめた床が見えた。
ガラス窓には、住む人のいない古いアパートの窓に貼ってあるような、ステンドグラス風のシールが貼りつけてあった。
入口のところに立ち止まっているナナの後ろから、僕は店の中をのぞいた。
そこには、僕らの生まれるずっと昔の時代から時間が止まってしまったのではないかと思うような空間が広がっていた。
安っぽい木目調の木のテーブルや、どっしりとした、脚の短い磨き込まれた艶のあるテーブル。
旧校舎の木の教卓のように表面のカサついた古ぼけたテーブル。
様々な統一性のないいくつかのテーブルに、おそろいの白くて細かい細工のある背もたれのついた、小さな椅子が並んでいた。
外から見えた、タイル張りの床は、入口にある小さな水道のためのもので、そのずっと奥のほうには、フローリングというより板張りと呼びたくなる感じの木の床が広がっている。
パジャマの上に淡いブルーグレーの薄手のカーディガンをはおったおじいさんが、入口に背を向けて座っていた。
一番奥の席には、半袖の白いシャツを着た四十過ぎの男の人と、首のところに黄色い刺繍のある白いブラウスを着た、ふくよかな女の人が向かい合って座っていた。
僕はとても温かな懐かしい気持ちになったけれど、ナナの思い描いていたのは、もっと西洋風なアンティークではないのかな。
「素敵ね」
ナナは振り返ると、心からの笑顔を見せた。
僕たちは、店の右側に寄せたふたり掛けのテーブルに座った。
ナナは窓を背にして、店の奥を向いて座った。
この店には、メニューは見あたらなかった。
ナナの後ろにみえる窓は、少し横に長い窓で、出窓になっている部分には、大きな古ぼけたボンボン時計と、趣味に統一性のない様々な人形が並んでいる。
出窓の一番右のはしにある、茶色くてどっしりとしたボンボン時計は、燻んだ文字盤にローマ数字が並んでいた。
そのとなりには赤い着物を着た日本人形のガラスケースがあって、その上では爪先立ちのセルロイドのバレリーナが踊っている。
木彫りの熊のとなりには、陶器製の犬の親子と、ほこりっぽいぬいぐるみの動物たちが無造作に置かれていた。
「何にしますか」
僕の左ななめ後ろに背中を向けて座っていたカーディガンの老人が、読みかけの本を机に伏せて立ちあがった。
僕たちは慌てて
「モーニングを」
と、言った。
「モーニングは、何にしますか」
カーディガンの老人は言った。
何と聞かれても、メニューもないのに、どんなものがあるのかわからない。
「ゆでたまごを。それから、トーストとアイスティー」
ナナはさっき通りで僕に話したとおりのメニューを言った。
僕もそれをくり返した。
カーディガンの老人は、黙って店の奥に消えた。
「あれが、このお店のご主人だったのね」
ナナは店の奥へ入っていく後ろ姿を、目で追いながら囁いた。
「禁煙かな?喫煙かな?」
机の脚の根元から、色ゴムで結びつけたライターがぶら下がっているが、灰皿が見あたらない。
「灰皿は棚の二段目の左端。ストローの後ろ」
奥の席にいた白いシャツの男の人が、棚の方を振り返らずに、まっすぐ僕を見て言った。
たぶん、この店の常連なんだろう。
僕は立っていって、奥の食器棚のガラス戸を開けた。
ストローの後ろをのぞくと、たしかに灰皿が並んでいる。
ナナは、その変わったシステムをとても気に入って
「いつもここでお茶を飲んでるのね。私も食器棚をのぞいてみたかったな」
と、言った。
僕がたばこの煙をはくと、その煙は人形たちのすきまから差しこむ光の縞模様の中で、そこだけマーブリングのように、ふわふわと揺れてみえた。
それがあんまりきれいだったので、僕はそれを指さして、何度もその光の中へ煙を吐いた。
カーディガンの老人は、トーストとゆでたまごだけが入った、白くて飾り気のないお皿を、僕たちの前に置いた。
「これが私の食べたかったモーニングだわ。でもトーストが先に来るなんて」
ナナが笑った。
僕は今まで、何が先に来るかなんて、深く考えたことがなかったけれど、実際こうやってトーストを先に並べられてみると、まるで、おあずけの犬みたいで、おかしな気分だった。
アイスティーが運ばれてくるのを待ちながら、僕たちは何度も目が合っては、間の悪さにクスクス笑った。
「幻のアイスティーよ」
ナナは眼を輝かせながら、小さくて張りのある声で言った。
それは、不思議なくらい不透明な紅茶だった。
下の半分は、普通の透明な紅茶だったけれど、上のほうが不思議に不透明になっていた。
濁っている、というのでもなくて、白っぽい、というのでもなくて、ただ紅茶の色そのままに不透明だった。
僕たちは、その二層が混じり合ってしまわないように、そっとシロップを入れてかき混ぜた。
ひとくち飲んでナナは、
「おいしい。とてもおいしいわ」
と、言った。
今この時でなければ、そのアイスティーはただ少し苦味のある、なんでもない紅茶だったのかもしれない。
でも、幻のアイスティーの話と、そんなふうにおいしそうに飲んでいるナナは、まるでこれが本当にかけがえのない、世界にたったひとつのアイスティーなんだと僕に思わせる。
「まあ、渓もおんなじことを考えていたのね。私もそんなふうに半分だけ殻をむいて食べようと思っていたのよ」
ナナは、よく磨き込まれたテーブルに傷をつけやしないかとためらいながら、ゆでたまごの殻を割っている。
たまごの殻をぶつけたテーブルを、優しくなでているナナを、僕は抱きしめたいくらい、優しい気持ちで見ていた。
今なら、きれいでなくてもナナを心から愛していると、言葉にして言えるのに。
僕は、ゆでたまごを食べながら、きれいじゃないナナを、はっきりと心に思い浮かべた。
きれいじゃなくなったナナは僕の頭の中で、やっぱりこんなふうに嬉しそうにゆでたまごを食べて、僕の少しだけ前を気まぐれに歩きながら、幻のアイスティ一の話をした。
白くなった髪を、柔らかく後ろに束ねて、しわくちゃの頬で微笑んだナナが、同じように年老いた僕の姿と一緒に、はっきりと頭に浮かんでいた。
そして、そんなナナを、やっぱり心から愛していると、僕は思った。
バターのたっぷりしみ込んだ、カリカリのトーストをかじりながら、昨日の問いの答にも手が届きそうな気がした。
「どうしたの?」
「なにが?」
「そんなふうに、ひとりでにこにこしてること。何を考えてたの?」
トーストとゆでたまごを食べおわったナナが言った。
「そうだね。もったいないから言わない」
「ずるいわ、教えてよ。とっても嬉しそうだったもの」
「僕にとっては、とっても嬉しいことだよ。当ててみて」
きれいな二色のアイスティーが混じり合わないように、ナナはそっと、アイスティーを吸った。
「そんなんじゃわからないわ。私にとっても嬉しいこと?」
「そうだといいんだけど」
なぜか僕には、きっとナナも同じことを考えていたように思えた。
「これから何をするか。きっと素敵なことを思いついたんでしょう」
「大きな意味では当たってる」
「大きな意味で?じゃあ今すぐじゃなくって、もう少し、先のことかしら」
「たぶんそうなるんだろうね。僕は今すぐだって構わないんだけど」
「そうね。なにかな。もう一度ここに来ること」
「それも含まれるかもしれない」
「そんなんじゃわからないわ。もっとヒントをちょうだい」
「そうだね。僕は、答を見つけたんだ」
「昨日の?」
「それだけじゃない。今までのナナのすべての問いの答を」
ナナは、僕の眼の中に何か答を見つけ出そうとするみたいに、まっすぐに、僕の眼を見つめた
僕は頷いてゆっくりと続けた。
「僕たちの永遠と、腕まくらの気持ちと。それから、きれいでなくてもナナを愛すってことも」
「わからないわ。それは、きっと」
僕は、とまどうナナの言葉を、さえぎるように言った。
「結婚しよう。ナナ」
Scean 6 夜明けのアイスクリーム
「わからない。私にはわからないわ」
ナナ少し唇を開いたまま、他人を見るような眼で、僕の顔をぼんやりと眺めた。
「どうして?それがナナの答なの?」
テーブルに置かれた手は、その色を失ってしまうほど、きつく握りしめられていた。
「わからない。本当に、わからないの」
ナナは震えながら言った。
僕のほうこそ何もわからなくなっていた。
さっきまで僕の心を、あんなにも和ませ、弾ませていた答、心を捕らえていたナナの存在。
『結婚しよう』その言葉の何がナナの心をこんなにも苦しめているのか。
「僕が言ったのは、プロポーズの言葉ではなかったのかな」
「たぶんそうなんでしょうね。あなたがそういう意味で言ったのなら」
ナナは、混じりあわないように、そっと飲んでいたアイスティーを、カラカラと力なく混ぜた。
上の層を彩っていた不透明な成分がふわりと揺れて、さっき僕が光の中に吐き出した煙のように、揺れながらグラスの中を回った。
煙のような不透明なものは、ふっと姿を消して、後にはただ普通の、悲しいくらい普通の赤茶けた紅茶が残っていた。
「たぶん。こういうことなのよ」
僕は一瞬ナナが何のことを言っているのかわからなかった。
ナナは、子供のころ小学校の飼育小屋で見た兎のように無表情な眼をして、アイスティーのグラスを見つめていた。
「たぶん。こういうことなんだわ」
ナナは、もう一度、力なく繰りかえした。
僕たちを不思議な気持ちにさせた、あの幻のアイスティーは、魔法が消えてしまったように、ただ冷たくグラスの中の氷を揺らしていた。
「もう、やめましょう」
魔法の解けた紅茶のグラスを、軽く押しやりながらナナは言った。
「それは、僕のプロポーズのことなのかな。それとも」
僕は眼をそらせて、窓際の壊れた時計を見つめながら言った。
「それとも、僕たちふたりの全て、という意味なのかな」
ナナは唇を強く噛み締めなから、テーブルの上に置かれた手を少し震わせて、そして軽く握りしめた。
「あなたが、そう、思うのなら」
色を失くすほど噛み締められていたナナの唇は、口を開くと、いつかの紅い服のように真っ赤に染まった。
激しく紅い唇をしたナナは、まるで僕の知らない人みたいだ。
僕たちは、黙って店を出た。
「ちょっと、頭がどうかしてるの。ひとりっきりで考えてみたほうがいいんだわ。私も。そして、あなたも」
そう言ってナナは、僕に背を向けた。
ナナの白い服が小さくなるまで、僕はじっと後ろ姿を見送っていた。
今朝部屋で見たときに、金色の蜂蜜のような光に縁どられていたナナのシルエットは、魔法が解けてしまったように、白く、ただ白く小さくなって行った。
部屋に帰ってからも僕は、小さな喫茶店で起こった出来事を、何度も思い返してみた。
それは、ある気持ちのいい穏やかな朝の、単純すぎるぐらい一点の曇りもないプロポーズだった。
どんな細かなニュアンスも見落とさないように、ナナの言葉から手がかりを捜し出そうとしたけれど、何度思い出してみても僕の頭は混乱するばかりだ。
僕はもう考えることをやめた。
ナナのいない数日は、僕を不思議なくらい穏やかな気持ちにさせた。
ナナの側で感じた安らぎにくらべると、どこまでも澄み渡って、青い色をした穏やかさ。
僕はナナと出会ってから、していなかった部屋の模様替えをした。
ナナと出会うまで、僕は度々模様替えをした。
家具の少ない無駄のない僕の部屋は、時々何かを変えていないと、やりきれなくなってしまうような冷たい部屋だった。
フローリングの床に傷をつけないように、汗まみれになって家具を運んでいると、自分のために生きているという不思議な充実感があった。
真っ白なシーツを干したり、自転車で買い物に行ったり、一人分のお茶を煎れたりしていると、僕はひとりでもやっていけそうな気がした。
ふと揺れたカーテンの影に、ナナの気配を感じて振りかえったりして、どんなに激しく愛しているかを思い知らされるけれど、僕たちはもう戻れない、そう思った。
ナナは、僕が思いもしなかったほど、酷くやつれていた。
「会いたかったの。本当に」
たった数日で、こんなにも人は彩を失くしてしまうのか。
力なくドアを開けたナナは、僕を魅きつけて離さない、あの不思議な輝きを失くしていた。
そんなナナを、僕はなぜかたまらなくいとおしいと感じた。
「こんなにあなたを必要としていたなんて、知らなかったわ。たぶん、たまらなく愛していたけど。渓がいないと、自分が自分で無くなるほど愛してたなんて」
渓を愛している。
ナナがはっきりと、そう口にしたのは、たぶん、これが初めてだ。
ナナがいなくても生きて行けると、ひと時でも思った自分が不思議だった。
そして、こんなにもナナを弱らせているのが、ただひとり僕せいだと気づいて、僕は声をあげて泣きたくなった。
おそるおそる僕に差し出した細い手を強く握りしめて、ただひとこと僕は言った。
「愛してる。たぶん。前よりもずっと」
僕は、ナナのために熱い紅茶を煎れた。
ナナは黙って、それを飲んだ。
「ちゃんと、食べた?」
何かあると、すぐ食べられなくなるナナが心配で、僕は聞いた。
「今朝、夜明け頃。食べたわ。少し」
「そう。よかった」
僕は言った。
「よくなんてないわ。悔しかった」
ナナは、少し笑って言った。
「ずっと、何にも食べられなかったのよ。ちっとも眠くなかったし」
「眠らなかったの?」
「そうよ。眠くなかったんだもの。でも、そんなことどうだっていいの。ただ、昨日の晩。だんだん眠くなって『ああ、私、こうやってだんだんと弱って死んでいくんだわ』そう思って、眠ったの。『私が死んでしまったら、渓は泣いてくれるかしら。あんなにひどいことをしたのに。それでも悲しんでくれるかな』って」
ナナの、静かな微笑みは、僕の手足がゆっくりと暖かみを失くしてしまうほど、僕の心を激しく動かした。
恋で泣いたことの無い僕は、自分でも気づかないうちに静かに涙を流していた。
泣いているのを知られたくなくて、僕はナナの頭をそっと胸に抱きしめた。
「でもね、ちゃんと眼が覚めた。それにとてもお腹が減ってるの。プリンを食べたわ。とっても美味しかった。冷蔵庫の奥のアイスクリームも食べた。どうしておなかなんて減るのよ。渓もいないのに。悔しくって私泣きながら。でもやっぱり美味しかった」
僕は、泣きながら噴き出した。
左手でナナの頭を抱いて、右手で慌てて涙を拭いた。
僕は、人前で泣いたのも、泣きながら笑ったのも、初めてだった。
ナナは、顔をあげて僕を見た。
そして、黙って、僕の眼にキスをした。
Scean 7 オレンジ色の明かり
「そんな急には、ちゃんと、食べられないわ」
ナナは軽やかに笑った。
それでも僕は、いろんな物をナナの口に入れようと躍起になった。
「ちゃんと栄養のあるもの食べてよ。ほらまた、そんなものばっかり食べる」
僕は、ナナの部屋の白いテーブルに、考えつく限りの食べ物を並べた。
濃厚なチョコレートケーキ、こってりしたチキンの照り焼き、地元ではおいしいと人気のあるコロッケ。
歩いて行ける距離の店には、たいしたものは無かったけれど、栄養のありそうな美味しいものを、手当たり次第に買ってきて並べた。
ナナは僕の心配をからかうように、ポテトサラダの上のサクランボや、串カツに添えてある野菜スティックなんかをほんの少しだけ摘んだ。
「どうしてこんなに、こってりした物ばかり買ってきたのかしら。見ているだけで、お腹いっぱい。渓らしいわ。『真っ赤なお寿司』を思い出しちゃう」
ナナはそう言って、憎らしいくらい朗らかに笑った。
ずいぶん前、ナナは折詰めのお寿司をふたつおみやげに買ってきて、僕と向かい合ってそのお寿司を摘んでいた。
「折詰めのお寿司って、どうしてこんなに押しつけがましく、どれもひとつずつしか入ってないのかしら。握ってもらう時だってそうよ。同じものばっかり頼んだら『またそれですか。それは邪道ってもんです』って感じにじろりと見上げるんだもの」
胡瓜巻やトリ貝なんかを、興味無さそうにお箸で指差しながら言った。
「一度でいいから、あぁもうお腹いっぱい勘弁してって言うぐらい、ウニといくらを食べてみたい」
そう言ってナナは、うらやましくなるぐらい美味しそうにウニやいくらを食べた。
次の晩僕は、仲間と飲みに行った帰りに、折詰めいっぱいのウニと、もうひとつの折詰めいっぱいのいくらのお寿司をぶら下げて、ナナの家のベルを鳴らした。
得意気に蓋を開けて見せると、ナナはちょっとびっくりしてから、堪え切れないように噴き出した。
本当に可笑しくてたまらないように涙を浮かべて、いつまでも笑い続けた。
「紅い。本当に考えられないくらい、真っ赤なのね。私こんなに素敵なお寿司、初めてよ」
酔っぱらって上機嫌でナナを喜ばせたかった僕は、少し頭にきて、昨日のナナの台詞を思い出させようとしたけれど、ナナがこんなに楽しそうなら、もうそれでいいやと思ったんだ。
ナナは、テーブルいっぱいの御馳走を前にして、あの時のお寿司を思い出して笑った。
「渓って、ホントにそういうとこあるわね。お腹がペコペコの時には、上手な買い物ができないっていうけど。渓ってどんな時でも、あんまり買い物向きじゃないんだわ」
ナナは楽しそうに笑った。
これが、他の人だったら、僕はまた思い出して、頭にきたかも知れない。
でもナナはいつも、意地悪な気持ちなんてこれっぽっちも無く、本当に心の底から無邪気に可笑しがるので、僕の方までついついつられて笑ってしまう。
それじゃあんまり締まらないので、僕は少しだけ悔しそうな顔をして見せた。
「僕は、大真面目だったんだよ。あのときは」
ナナは少し真面目な顔をして言った。
「でも、うれしかったのよ。本当に。抱きしめたいぐらい」
そう言って、また、ころころと笑った。
僕たちは、悲しい気持ちで過ごした数日を取り戻そうとするみたいに、いろんな楽しいことをしては、笑った。
バカバカしいようなことで、夜が近づくまで。
ナナは、僕たちが何か可笑しなことを思いつくたびに、今までのいろんな楽しい思い出に結びつけて笑った。
僕も、はじめのうちは笑っていたけれど、そのうちだんだん笑えない気持ちになって行った。
ナナがずっと、後ろを向いているような気がしたからだ。
どんなに楽しいことをしても、思い出以上にナナを喜ばせることは無かった。
ナナは僕に微笑みかけながら、同時に僕たちの未来に、背を向けている。
僕たちは、もう笑えないというぐらい笑い、ふと笑いが尽きた時、空っぽになってしまった気がした。
沈黙の中で見た窓の外は、もう真っ暗になっていて、窓から見える家々には団欒の明かりが灯っていた。
どうして居間の明かりは、どこもオレンジ色をしているんだろう。
カーテンを通して初めて、その微かなオレンジ色に気づくような、微妙で暖かな柔らかいオレンジ。
それは、ご飯が美味しそうに見える色。
家族のみんなが、幸せそうに見える色。
『結婚しよう』
僕たちを遠く引き離してしまったあの言葉。
この数日のあいだに、どんなふうにナナの心に消化されて行ったのか、今ナナのどこに、どんなふうに存在しているのか。
僕はそれを確かめなくちゃならない。
Scean 8 流星のタクシー
「ナナ。もう一度だけ言わせてほしいんだ。僕たちは」
ナナは悲しい顔で、遮るように言った。
「言わないで。お願い」
それは、僕が今まで見たナナの中で、一番悲しい顔だった。
『言い出さなければよかった』ナナを悲しい気持ちにさせた時、いつも僕は思ったけれど。
僕たちの心の隙間のなかで、これだけは眼をつぶって通りすぎることはできないこと。
僕たちがふたりでいるため、僕たちがふたりじゃなくなるためにも、ちゃんと眼を開けて見つめて行かなければならないことだから。
「言わないでなんて、言っちゃいけないね。このままじゃ、どっちにしてもダメになるわね。私たち」
ナナは僕の心の言葉が聞こえたかのように言った。
「ナナの本当の気持ちを聞かせて。それが僕を傷つけるようなことだったとしても」
傷つけるようなことだったとしても。
自分に言い聞かせるように、その言葉を心の中で繰り返した。
「本当のところは、私にもよくわからないわ。わかっているんだけど言葉にできないの。そのことは、かえって渓を傷つけるかもしれないけれど」
ナナは窓の外の明かりを見つめながら言った。
あの明かりはナナの心に、どんなふうに映るんだろう。
「たぶん。あの、アイスティーと同じようなことなのよ。うまく伝わるかどうか、わからないけど」
僕はナナの言葉の、どんなニュアンスさえも聞き漏らさないように耳を澄ませた。
「あのアイスティーみたいに。透明も、不透明も、あんなにきれいで私たちを魅きつけたのに。無理に混ぜようとしたら。ただの、どこにでもあ
る紅茶になってしまったわ」
魔法がとけてしまった。
僕はあのとき感じた気持ちを思い出していた。
「月並みなのよ。堪えられないくらい」
悲しいくらい、普通だ。
「このままじゃダメなのはわかってる。でも私たちの思い出が。私たちは違うはずだ、私たちは特別なんだって」
わかるよ、その気持ちは。
わかりたくなんてないのに。
僕はやりきれなくなって眼をそらした。
「あなたが私にとって、こんなに特別じゃなかったら、私きっと喜んだわ。めちゃくちゃに聞こえるかも知れないけど」
「でも、もうこのままではいられないよ」
「そう。そうね」
ナナが、ゆっくりと髪を揺らした。
茶色い髪がナナの首すじで揺れて、ふわりと細い肩を包んだ。
オレンジいろの明かりがナナの茶色い髪を一層柔らかに照らした。
『月並みになろうよ。
どこまでも月並みになろうよ。
耐えられないくらい。
このまま終わってしまうよりは、きっとそのほうがいい』
僕の言葉は声にならなかった。
僕たちは、ただ黙って窓の外の景色を見ていた。
腐りきった水の中に漂うどんよりとしたものが、僕たちの幻のアイスティーの中に漂いはじめている。
ありふれた紅茶よりも、もっとやりきれない何か。
「もう少しだけ、考えさせて」
ナナは弱々しく眼を伏せた。
「だめだよ。もう僕たちは。もう、終わってしまったんだ」
ナナは、ふいに強い眼差しで、僕を見た。
僕は、その眼差しで、我に返った。
ふたりを終わらせる決定的な言葉が、僕の口をついて出たことが信じられなかった。
僕は今まで別れを告げる言葉を、自分から口にしたことは一度もなかった。
これほど深く、誰かを愛したことはなかったけれど、それでも僕はいつでも別れを受け止める側だった。
「何かあるはずだわきっと。このままじゃ終われない」
僕は、自分の口から出た言葉にひどく驚いていたけれど、今のナナの言葉は僕の心をはっきりと固めた。
「もう、だめだよ。僕たちは、もう戻れないよ。ナナの気持ちも。僕の気持ちも」
ナナは息を止めたように、しばらく身動きひとつしなかった。
ナナの顔が不思議にゆがむと、それが合図のように、激しく声をあげて泣き出した。
僕は、ナナがこれほど強く何かに動かされるのを見ことがなかった。
「嘘だわ。絶対いやよ、信じない。私は終われない」
どんなに悲しくても、静かに涙をこぼすだけだったナナが、首を激しく振って、動物的な激しさで泣いているのを不思議な気持ちで見ていた。
僕たちに別れがあるとすれば、そのときナナは平気な顔をして、手なんか振りながら僕の前から姿を消すのだろう。
たとえ心の奥で、どんなにひどく傷ついていても、僕から見えなくなるまでは、颯爽と歩いて行くだろう、ずっとそう確信していたのに。
想像もしなかったナナの姿は、それだけで僕を跪かせるような力を持っていたけれど、僕はただじっとナナを眺めていた。
今でもナナを愛しているか、そう聞かれたら、僕は何のためらいもなく、愛していると答えるだろう。
でもこの恋は壊れてしまった。
ナナは、いつしか泣きやんで、ただ黙って僕を見つめていた。
こめかみのあたりに、涙で張りついていた一房の髪を、ナナは静かに細い指で払った。
「だめなのね」
僕は、ナナの眼を見ないように頷いた。
人の心を強く惹き込む、あの眼を見るのが怖かったから。
ナナの眼を見てしまったら、きっとどんな決心も投げ捨ててひれ伏してしまう。
そして僕たちは繰り返すだろう。
僕はナナのそばで、忘れてしまったふりをして、叶えられなかったオレンジ色の団欒を思い続ける。
どこまでも月並みになってしまった僕の中に、ナナは特別だったころの面影を捜しつづけるだろう。
そして、ふたりとも、おたがいを、少しづつ愛せなくなっていく。
そんなのは、いやだ、絶対に。
薄暗い部屋の中に、青白く浮かび上がるナナの細い顎の線、あんなに泣いたのに澄み切ったように透明な瞳も。
僕は頭の中から、激しく振り払った。
「抱いてよ。最後に。もう一度だけ」
ナナはその瞳に何の表情も浮かべずに、震える声でゆっくりと言った。
『最後に』その言葉をナナは、噛み締めるようにゆっくりと言った。
「抱いてよ。愛してなくてもいいから」
ナナの手は少しだけ震えていた。
僕はゆっくりと近づいて、その手をそっと握りしめた。
「できないよ。それだけは」
僕はナナの額に優しく唇をつけて、自分に言い聞かせるように言った。
ナナの額は、驚くほど冷たかった。
冷たさに驚いて、僕はナナを強く抱きしめそうになったけど、そんな気持ちを振り切るように立ち上がった。
「帰るよ」
ナナは細い顎をあげて、僕をゆっくりと見上げた。
「送るわ」
ナナは静かに立ち上がった。
「送らなくていいよ」
「お願い。送らせて。一緒に歩きたいの。最後に」
僕たちは歩きなれた道をただ、黙ってゆっくりと歩いた。
時々触れ合うナナの肩の感触を、僕は一生忘れないだろう。
僕のマンションの裏の府道で、僕は立ち止まった。
「ここでタクシーを拾おう。それに乗って。ちゃんと帰ってよ、まっすぐ」
「平気よ。ひとりで歩きたい気分なの」
「お願い。僕を心配させないで」
僕は、財布から千円札を2枚取り出した。
「いやよ。受け取りたくない」
「だめだよ。何も持ってきてないのに」
「いやよなのよ。何だか、二千円で精算されるみたいで。それに、多すぎるわ。千円だってお釣りがくるのに」
ナナは笑いながら、ひらりと逃げて、僕は捕まえようと、追いかけた。
ナナはいつも、とても軽やかに歩く。
地面に着いている時間が、人より短いみたいに。
「何があるかわからないじゃないか。いつだって、多めに持っててよ。お願いだから。これ以上心配させないで」
いやよ、いや。
深刻そうに言う僕に、ナナは哀しいことなんて、何もなかったように涼やかに笑った。
その笑顔は少しだけ、僕をほっとさせた。
「わかった。受けとるわ。ちゃんとタクシーで帰る」
でも。
ナナは、すこし哀しく微笑んで言った。
「でも、これは使わない。最後に渓がくれたものだから。一生、大事にするわ。旧札になって、使えなくなっても」
本当に最後なんだ。
こんなふうにナナを見て、微笑んだりすることも、本当にこれで、最後なんだ。
僕はさっきのナナのように、声をあげて泣きたくなった。
僕は静かに背を向けて、タクシーを拾うために府道に身を乗り出した。
府道には何台もの車が、ゆっくりと流れている。
そのうちの一台が、すっと歩道に車体を寄せた。
ナナは僕の眼を見ないで、ゆっくりとタクシーに乗りこんだ。
タクシーのドアが閉まる寸前に、ナナがうつむいたまま『本当にだめなのね?』と小さく言った。
タクシーのドアがゆっくりと閉まって、ナナは静かに顔をあげた。
「さようなら。渓」
タクシーの閉じられた窓から、唇の動きだけで言った。
真っ暗な夜の道路を、何台もの車が流星のように流れて行く。
僕はその中のひとつに、ナナの見慣れた後ろ姿を探しながら呟いた。
「結婚しよう、ナナ。結婚しようよ」
ー完ー
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