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鍵について思うこと

僕の仕事は営業。

十数年のあいだ営業的な仕事をしていると、体に染み付いて来る考え方は「数字が全て」であるということ。
若く無知だった頃は上司にそれを言われる度に多少の苛立ちを覚えることもあった。
「数字に反映されない頑張りもある」と盲目的に信じていた節があったからだ。
もちろんその信念が全て間違いという訳ではないが、やはり営業マンとして会社に雇われている以上、数字、言い換えれば結果が重要であることは間違いない。
ドライなようだが、これは紛れもなく真実。
経済活動というのはそういうものだ。

言うなれば、

「前後で何も変化が無いならば、どんなに息を切らして努力しようと、何もしていないのと同じ」

ということだ。

結果に反映されない努力があるならば、手法を変える決断も時には必要である。

そう思いながら、僕は日々働いている。


その日、僕は営業で隣県に赴いていた。
まずまず忙しく仕事をこなし、夜になり会社に戻る。
行程の都合上カーシェアリングを利用していたので、パーキングに車を戻し、返却の手続きをスマホで行なう。
アプリで全ての手続きが完結するためスタッフがいる訳でもなく、忘れ物防止の注意を促す無機質な自動音声だけが車内に響いてうるささを感じる。

(しないよ、忘れ物なんて)

そんなことを思いながらも簡単に車内を確認し、アプリで施錠を完了した僕は会社に戻る。


自社の入居するビルに到着、エレベーターに乗り込みオフィスのある階数ボタンを押す。
階数表示を眺めながら(とりあえず■■の見積を作って、××を処理して、今日は疲れたし終わりにするか)などと考えつつコートの右ポケットをゴソゴソと漁る。
外出から帰って来ていない上司を除き、他に誰もいないことが分かっていたのでオフィスの鍵を開ける必要があったのだ。


あったのだが。


無い。

鍵が無い。


少々意気消沈しつつも自社の扉の前に到着。
ガラスの扉越しに漏れてくる光は無く、やはり無人。
当然施錠されている。

でも、鍵が無い。
入れない。

(…まぁあれか。今朝オフィスを出る時に、デスクに置きっぱなしにしてしまったんだろう。持ち帰る予定の無かったノートPCを自宅に持ち帰るのは少々重いが、とりあえず帰ろう。)

帰りの地下鉄の中、ふと気付く。

(家にも入れないじゃないか。)

僕は自宅の鍵、自家用車の鍵、オフィスの鍵をひとまとめにしてキーケースに収納し持ち歩いている。
オフィスの鍵が無い、すなわち、自宅の鍵も無いということ。

慌てて妻とやり取りをする。


いや、風呂はあとで入れば良くないか?
…とは言えず。

過去にオートロック締め出し事件を経験したことから鍵に対しては慎重な姿勢を取っていたのだが、迂闊だった。

妻の協力を得て自宅に入り、風呂から出てきた娘の髪を乾かしていると、社用携帯が鳴る。
急ぎで教えて欲しいことがある、という上司からの電話だ。
ひと通りの用件が終わったので、どうやらオフィスにいるらしい上司に何気なく尋ねる。

僕「そういや、僕のデスクに黒いキーケース、置いてありますよね?」

上司「え?えーっと、、、無いよ?」

僕「は?無いですか?」

上司「うん、無いね…ごめん。」

もはやなぜ僕が偉そうに「は?」とか言っているのかも、なぜ上司が謝っているのかも分からないが、全身から血の気が引き始める。

コートのポケットにも入っていなかった。
オフィスにも無かった。

こうなってくると可能性は2つ。
・借りたカーシェアの車内に取り残されている
・地球上のどこかに落ちている

後者は出来るだけ考えたくなかったので、とりあえず出来ることとして前者の確認を行ないたい。


幸運なことに僕が車を返却してから今この瞬間まで借り手がおらず、状況は降車時から変わっていない。
ただし、今から1時間後に別の誰かが予約をしている模様。
そこまでの状況が手に取るようにスマホで確認出来るのだから、技術の進歩はありがたいものだ。
欲を言えば「どこでもドア」のような仕組みで車内に落としてきた鍵がデリバリーされれば、なお良いのだが。

予約と予約の間は15分程度「誰も使用出来ない時間」が設けられている為、実質的なタイムリミットは今から45分後。
30分以内に現地に戻り、そこから15分以内に車内を確認し鍵を奪還、返却手続きを終えればミッションはコンプリートだ。
到着予定である30分後から15分間のレンタル申請手続きをアプリで行なう。

妻から自宅の鍵と自家用車の鍵を借り、急いで現地に向かった。

俺、このミッションを無事クリアしたら、家に帰ってソファに座って、録画しておいた「相棒」の最終回を観るんだ。
もちろん缶ビールも冷やしてあるんだぜ。

フラグが立った

さすが地方都市の夜の国道。
特に混んでいることもなく、スムーズにカーシェアの駐車場に到着。
再レンタル開始まであと5分。
スマホのライトで車外から各座席を照らし鍵を探す。
見るからに車上荒らしを企てる不審者の様相を呈しているが、背に腹は代えられない。
開錠可能になったらすぐに鍵を奪還する算段だ。


…という算段なのだが、気配が無い。
鍵の気配が。

鍵の「か」の字の気配も無い。

(きっと座席の下に潜り込んでしまったのだろう。開錠したらその辺も探してみよう。)などと考えつつも、嫌な予感は拭えない。
フラグが効き始めている。

時間が来る。

カーシェア開錠。

くまなく捜索。

鍵はどこにもない。
フラグは無事回収。



感情が「無」の状態になった僕は淡々と返却手続きを行ない、とりあえず一服し始める。

加熱式タバコから立ちのぼる蒸気を見つめながら、紛失してしまった複数の鍵について思いを馳せる。

オフィスの鍵の紛失は始末書か?
まぁ書いて解決するならいくらでも書くとするか。
二度とこのようなことのないよう再度確認を徹底し…などという定型文になるのだろうか。
何を徹底するのかは分からんが。

自宅の鍵は特殊なカードキーなので、合鍵屋に頼むという訳にもいかない。
管理会社に報告し対応してもらうとするか。
この場合も「二度とこのようなことのないよう…」などと担当者に言った方が良いのだろうか。
まぁ言わなくていいか。

自家用車の鍵はイモビライザー付きのスマートエントリーキーなので、これも合鍵屋に作ってもらうという訳にはいかない。
ディーラーに赴いて追加キーを購入か…たしか2万円くらいは取られるはず。
まぁ自分の身から出た錆、仕方ない。
腹を括ろう。

加熱式タバコの機械が振動し、喫煙時間の終わりを告げる。
そういえば吸殻を入れるためのケースを出していなかった。
バッグのわりと上の方に入れていたはずだったのだが、見当たらない。
どうやら奥底に入ってしまったようだ。

ゴソゴソとバッグを手探りで漁る。

つるつるした物が指先にあたる。
これは吸い殻入れではない。



鍵が収められたキーケースが、そこにはあった。




自家用車のエンジンを掛け、妻にLINEを送る。

人は簡単に信用を失う。

「どこに」あったとは言えず、ふんわりとしておいた。
上司には翌日「借りた車の中にあった」と、ついふんわりと虚偽の報告をしてしまった。
あまりにも自分が間抜け過ぎたので。

鍵をバッグに入れた状態で「鍵が無い」ということに気付き、
鍵をバッグに入れた状態で「鍵忘れたからドア開けて!」と妻にLINEをし、
鍵をバッグに入れた状態で「デスクにキーケースありますよね?は?無いだと?」と上司に噛み付き、
鍵をバッグに入れた状態で最終的に「失くしてもいない鍵を見つける」というミッションをコンプリートした。


「前後で何も変化が無いならば、どんなに息を切らして努力しようと、何もしていないのと同じ」


どうやら僕は数時間のあいだ何もしていなかったようだ。
何もしていないはずなのに、変な疲れだけが残っている。

そして、お気付きだろうか。

ここまで長々と読んでいただいたが、最初から最後まで「一切何も起きていない」ということを。

ただただ駄文に貴重なお時間を浪費して頂いたことについて、謹んでお詫び申し上げます。

たぶん厄年のせい責任転嫁なので、大目に見て頂きたい。


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