見出し画像

好きかどうかと受け取り手の話

タルト生地にクランチが乗り、その上にチョコがたっぷりとかかっているお菓子。

それを見て、「甘いモノが好き」という人がいれば、「甘いモノは嫌い」という人もいる。ちなみにぼくは甘いモノ好きである。

甘いモノが嫌いという人にどこを見ているか聞いてみたところ、「チョコが甘そう」という答えが返ってきた。

それに対して、甘いモノが好きという人は、「タルト生地が好き」「クランチのザクザク美味しそう」とかそういう答えが返ってくる。

もしかすると、甘いモノが好きだという人ほど実は甘いところを見てないのかもしれない。

甘いモノっていう「くくり」の中にいて、実は自分の好きなポイントをあげているだけ。好きな理由を探しているとも言えるね。だから、好きなものがたくさんあるひとで「ネガティブなことよく言うなー」みたいなひとはあんまり見たことがない。

つまり、自分と同じ言葉を使っていても、同じ言葉のことを話していたとしても、相手がデフォルトで自分と同じ受け取り方をしていると思っちゃいけない。

僕はクランチのことを言いたいのに、相手はチョコだけを見ているかもしれないのだ。
逆に、相手がチョコだけを見ているかもしれないことに気づいたとしたら、クランチの歯ごたえやタルトのしっとり感のことを話せるかもしれない。

だから人とコミュニケーションとるときはここにひどく神経を注ぎ込むし、でもバックグラウンドが同じだったり似た経験をしていたり、通じやすい人は必ずいて、その人とはとても快適な時間を過ごすことができるのだ。

そしてよくよく考えると、そもそもクランチを食べたことがあるか?が第一のハードルとなっていることに注目したい。

相手の受け取り方に気を配る、というのはその次の問題だ。クランチを食べて「ザクザクしたのがうめえなあ」と思うから、じゃあ相手はそれを知っているのか?という思考になるわけで、クランチを知っていること、食べた経験があること、経験が全ての入口になる。

だから自分の世界を「チョコは甘いから嫌い」で終わらせてしまう人にはなりたくない。
クランチが好きかもしれないし、チョコも苦味のきいたものがあるかもしれないし、とてもその甘さだからこそ合うコーヒーがあるかもしれない。

知らない世界があるかもしれない、という期待と、そこへ出かける足の軽さは常にもって、「受け取ることのできる人」でいたいよね。というはなし。