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地面と桜とレーシックの話

桜の花も開いたので、極めて視野の狭い話をする。

「これが最後かもしれない」
 
っていつもどんなときでも思うようになって、最近は特にそれがクセ付いてきた。

「人生は有限だ」なんて今更言わずもがなではあるけれど、僕はピアノを始めるまでその有限性にずっと焦らされていた。
 
…いや、有限性そのものに焦っていたわけではないな。

自分の命の残り時間をどう過ごしたら満足して納得できるのか、全然腑に落ちていないことに焦っていた、という方が正しいか。
 
たとえば…遊園地で何もしないままただ目の前を過ぎるパレードを見届け、閉園時間が迫っているのに自分は今何時なのかを知らず、なにか熱中するようなアトラクションがあるかもしれないし大人買いしたくなるようなお土産がどこかにあるのかもしれないけど、今いるところからは何も見えていない。

アトラクションもお土産も何があるのを知らないまま、ただ、有給を取ったその1日が終わる、そこに立ち尽くしているだけで感じるであろう焦燥感と絶望感。みたいな。わからないけど。
 
いま氾濫している言葉で表すと、ずっと「モヤモヤ」し続けていた。

30歳になるというのに。そしていつこの状況が「終わる」かわからないというのにいったい俺は何をやっているんだ。
 

こういう話をすると、「なにかやってみたら見つかるよ」なんて言う人が必ず出てくるけど、見つからない人が見つけようとしても結局見つかってないから困っているんだ。
 
見つからない人は見つからないだけの原因があって、だから本当に見つけたいならなにかを大きく変える必要がある。

そのまま生きてきて見つからなかったんだから、そのままで見つかるわけがない。

そして自分のなにかを変えずに周りの状況が都合よく変わるなんてことあるわけがない。
 
目の悪い人が裸眼で探しても見つからないなら、メガネをするなりレーシックをするなりしなくちゃいけない。朝起きたら視力がサンコンみたいになってる、なんてことあり得ないのだ。でもなぜか精神面・思考面の話だと、気合とか意識の仕方で結果がサンコンすると思い込む風潮がある。
 
 
僕はたしかにそのとき、「なにかを変えてでも見つけたい」と思っていた。だから、「できないかもしれないからやらないフィルター」を消したところにピアノが入りこんできた。

切羽詰まった時にようやく「それ」が見つかるのかもしれない。つまり自分の時間の有限性を認識することが、それを解決する手助けをしてくれる。
 
 
人生の有限性について、ミレニアル世代として考え抜いてきた僕にとって、今までで一番腑に落ちる表現をしていたのが写真家ワタナベアニさんのこの投稿だったので、一部抜粋させていただいてもいいだろうか。
 
“”“
(以下抜粋)
生きていることは意識せずにしていることだけど、有史以来、全員の先輩が死んでいる。終わりがあると思って生きること、終わりは来ないと思って気にしないこと、どれも人ぞれぞれのスタンスだと思うけど、結果は同じ。
 
「人は生まれた瞬間にビルの屋上から身を投げている」という言葉を聞いたことがある。地面に届いた瞬間に死んでしまう。ビルの高さという寿命の違いがあるにせよ、生まれたというのは飛び降りてしまったことに他ならない。
 
-飛び降り自殺をするということ。
ワタナベアニ
https://note.mu/aniwatanabe/n/n456c380a9203

 “”“
 
もうビルの上から飛び降りていて、どうしようもなく地面は近づいてきているというのに。

「できないかもしれないフィルター」をかけて、言い訳を並べてやらないことに意味なんてなかった。

そしてここからが大事なんだけど、何かをみつけてやり始めると、必ず、没頭する瞬間がやってくる。

心身人付き合いのバランスを崩すほどにのめり込んだその瞬間、「時間の有限性」なんてことは綺麗さっぱり忘れている。

 
地面をきちんと見つめた瞬間に、近づく地面から、自分を取り囲む世界へと目が移る。

そこで初めて、周りに広がる世界が美しいことに気づくのだ。