やっほー!

今日も今日とて娘と公園へ。
娘はいちいち他人とコミュニケーションをはかる。
すべり台へのステップで他の子供と出くわすと「どーぞ!」と両手を突き出して先を譲る、あるいは「じゅんばん!」と言いながら僕のほうを振りかえって口を曲げてみせる。娘なりに「どっちが先だったか」の基準があるらしい。

スポーツ紙を読んでた爺さんに「いくつ?」と聞かれたので、僕が2歳になったばかりだよね、というと「あたし、2さい。おじいさん、2さい。パパ、2さい」とそれぞれに指さしながら答える。

摘んだ黄色い花の蕾と石ころを休憩中のウーバーイーツマンに手渡す。

娘の愛嬌に微笑みつつも、知らない人に喋りかけちゃいけないよ、とそろそろ教えておいたほうがいいのかな、と思ったりもする。でもそんなのはやっぱりおかしくないか?と思いなおす。そして「子供が大人に疑いを向けなきゃならないのは、世界が狂ってるせいだ」と結論した。変わるのは世界のほうだ。

僕は世界を変えなくちゃならない、とその瞬間は本気で思った。それはまだ信念というほど立派なものではないけれど、僕はあの瞬間そう決意した、それだけは忘れたくない。邪悪なものと闘わなくちゃならない。

生きとるだけで悲しいことたくさんあんのに、なんでわざわざ人は人に悲しいことするんやろか。
『心の傷を癒すということ』(NHK、2020年)

阪神淡路大震災のあと、精神科医として被災者たちの心の傷と向かい合った男のドラマに、今年のはじめしたたか泣かされたのだけれど、上記のセリフは特に忘れられない。
やさしくなっていいんだよ、と言われた気がしたからだ、変な話に聞こえるもしれないけど。
僕らはわざわざ悲しみに身を浸す必要なんてないのだ。どうせ人生は悲しいのだから。
それだったら、日常くらいやさしくおだやかに楽しく生きようじゃないかって、思えた。
僕にとっての邪悪とは、災害や事故、病魔、シリアルキラーなどだ。不滅の不条理。そこら中に転がっている不運に足元とられらないように、日常を生きたい。

というようなことを考えてヒロイックな心持ちに浸っていたら、娘がブランコのほうに駆けていく。ブランコを囲む鉄柵にもたれる娘の正面で揺られるふたりの姉妹。娘は明らかに年上の彼女たちに「やっほー!」と大声で呼びかけた。少女たちの背後に立つ母親が「やっほー!だって。かわいいね。返してあげな?」というと、向かって左のブランコに乗る姉が「やっほー!は◯◯ちゃんにしかしないの〜」と言って、右で揺られる妹に笑いかけた。ふたりは「あはははは」と楽しそうに笑い、揺られつづけた。

娘の「やっほー!」が初夏の空気に溶けていく。娘は別に気にするでもなくブランコから離れて花壇へと向かった。姉妹にも悪意なんて微塵もなかった。ただの仲睦まじい姉妹の光景だった。それでも僕は「なんでわざわざ人は人に悲しいことするんだろう」とひとりごちる。無視しなくたっていいじゃないか。彼女らはなんで応えなかったんだろう。

娘に「やっほー!」と呼びかけられた姉妹は、なんだか照れくさそうだった。照れたとき、素っ気なく振舞ってしまうことは誰にだってある。僕の場合、その素っ気なさは自己保身からくる。突如呼びかけてくる屈託のない全力の「やっほー!」に応えるのは、なかなか気恥ずかしい。姉のほうはそれなりにませた年頃だったようにも思う。同じように大声で返さなきゃいけないのかな?と思うと躊躇ってしまう。それに別に呼びかけに応答する義務なんてそもそもないのだから。僕自身、娘よりも姉の気持のほうが容易に想像できてしまう。

でも、全力の「やっほー!」には、全力で応えてやりたいな、と今日のところは思った。娘が可愛いからそう思っているだけかもしれない。実際、僕は見知らぬ子供から声をかけられても、人目を気にして応えないタイプの人間だ。
それでも、今日は、娘の全力の「やっほー!」にはきちんと応答したいし、知らない子供に呼びかけられたときにも、応えてやりたいなと思ったのだ。

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