やさしさ

中学2年のころ、サッカー部の大会で沖縄から九州に遠征した。今となっては九州のどこに行ったのかも覚えてない、鹿児島だったかな。帰りの空港で、友達とワリカンしたお土産が西郷さんの貯金箱だったから、鹿児島だったんだろう。貯金箱は、部活帰りにいつも寄道していたまちやぐわー(駄菓子屋)のおばさんにあげた。彼女は今も生きてるんだろうか。僕が高校生になったころ、ひとりでまちやぐわーの前を通ったら、クリーニング屋になっていた。
あの貯金箱はどうなってしまったんだろう。

遠征2日目の朝、日が昇ったばかりの時間に起きて、朝食の前に宿近くの公園までランニングをさせられた。あのときの涼やかな空気が忘れられない。あの新鮮な冷気は秋の鹿児島特有のものなのか、それとも、冬の沖縄でもあんなにやさしく冷たい外気に触れられたんだろうか。早朝に起きた経験がほとんどないから、確かめないままここまで来てしまったな。
いっしょに貯金箱を買った友人とはそれからしばらくして絶交した。僕を心配してくれた彼が、僕にかけてくれたやさしすぎる一言を受取ることを、僕のプライドが許さなかったから。

早朝に起床するのは今も難しいが、早朝まで起きてることはザラにあった東京の生活だけれど、それでもあの空気に触れたことはない。大学生時代に2〜3度行った山中湖の空気がいちばん近いだろうか。でも山中湖の冷気は刺々しかった。
今はもう、あの空気は、鹿児島にも、漂わないのかもしれない。

いまいちばんやさしい空気は、エアコンが吐き出す25度の冷風で、じめっとした6月の東京の夜、冷気が寝室中を満たすまで、僕は眠れそうにない。娘はなるべく涼しいところを探すようにしてたびたび寝返りを打ち、妻は「暑い…」と呟きながら布団を抱き抱えている。

キャッシュレスが浸透しきったら、貯金箱も失われるのだろう。

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