作品の倫理観と、作者の倫理観について

作者は倫理的人物であるべきなのか

 まず最初に、ここは明確にしておこう。作者はクズでもゲスでも全く問題ない。作品の素晴らしさと作者の性質は全く切り離して考えるべきである。

 ただし、作者が犯罪者である場合に、ゲイリー・グリッターやマツキタツヤのような問題が生じることはあり得る。これは作品の芸術的評価が損なわれると言う問題ではなく、作品が被害者の目に触れることによる弊害や、犯罪で得た名声をお金に換えることの倫理性(ヘロストラトスの名声問題)など、社会的・経済的側面の問題として理解するべきである。

ヘロストラトス
ギリシャ時代、ヘロストラトスは羊飼いか奴隷だったが、アルテミス神殿を焼いて自分の名前を歴史に残したかったと供述。怒った人々はその名前を記録することを禁じた。
が、周辺諸国の人々が歴史書に残し、ヘロストラトスの邪悪な願望を阻止することはできず、今に伝わる。

 その上で、作者の倫理観が疑われると、作品にとってどのような不都合が生じるのか、少し考えてみたい。

作者の倫理観が疑われると生じる不都合

・日本沈没2020のとある描写について(微ネタバレ)


 日本沈没2020を見た。そこで、とある人物の性別(あるいは性自認)がほのめかされる場面がある。ぶっちゃけてしまえば、それまで男性として描写されていた登場人物が、元は女性、もしくは性自認が女性なのではないかと推察されるシーンがあるのだ。しかし、その人物が生物学的男性で性自認が女性なのか、生物学的女性で後に男性として生きるようになったのかは、描写上ハッキリしない。
 ラストに近いシーンで、主人公は、その人物のことを「彼女」と呼ぶシーンがでてくる。このシーンから、その人物の性自認が女性であるということが強く推認される。なぜなら、生物学的には女性であるが、男性であることを自認し、男性として振る舞っている人を、「彼女」と呼ぶことは、まともな人間ならやらないことだからだ。それをそれなりにまともな、そしてその人物に敵意のない主人公が言う以上、その登場人物は「女性」として扱われたい人物であると推測するべきだろう。
 しかし、この推測が成り立つためには、非常に重要な前提がある。すなわち、「ある性別を自認している人に対して、その自認とは別の性別で呼ぶことは大変に失礼な行為である」という倫理観を、作品の作者が共有しているという前提である。この前提がなければ、そもそもこの描写から何かを読み取ることは不可能となる。
 「作者がある程度のまともな倫理観を持っている」という前提は、作品を読解する上で、重要な前提となる場合があるのである。

・この登場人物、バカなんじゃない?はいいけど、この作者、バカなんじゃない?はマズい


 小説家の阿刀田高は、著書『ミステリーのおきて102条』(1998年、角川文庫)にて、以下のように述べている。
「もちろん、小説はなにを書いても自由な世界だから、初めて世界一周を実現したのがマゼランではなくコロンブスであった、という独創的なフィクションを書いたって、いっこうにかまわないけれど、それは”世間一般に信じられていることに、あえて反することを私は書きますよ”という前提を用意しておいてのことである。知らんふりをきめこんでいるのとは少し事情がちがうだろう。」(350頁)

また、トリックの成功確率という観点から、このような指摘も見られる。

「執筆するときには、作品に現実感を持たせねばんらない実行者の気持ちになり替わって考えることは絶対にひつようなのだ。たとえば、新人賞の選考などで、アマチュアの書いた作品に接していると、『おい、おい、おい。あんた、このくらいの思案で、人を殺したりする?』と問うてみたくなるケースは多い。(中略)六〇パーセントくらいの安全性で実行したとなると、「この犯人、頭、わるいんじゃないの」となり、ひいては、「この作者、頭、わるいんじゃないの」となり、推理小説としての現実感が保てなくなる」(119-121頁)

 ここでいう、「知らんふりを決め込むこと」、「作者が頭わるいと思われること」が問題の中心だと考えられる。小説なのだから、六〇パーセント、もっといえば三〇パーセントの安全性で犯罪に手を染めるバカな犯人が出てきても何の問題もない。しかし、それを作者が「バカな犯人」と描写せずにやっていたら問題である。「この程度のトリックで行けると思っている」バカが犯人ではなく、作者になってしまうからだ。
 倫理観についても同じことが言えるのではないか。これは非倫理的な物語である、この悪役はひどい倫理観を持った人間である、という描写が、読者に読み取れる形でどこかに提示されていれば、それがどんなに非倫理的な物語であっても問題とはならない。しかし、「おいおい、この作者、わからずにやってるの?」となった瞬間、それは作品の問題ではなく、作者の問題に転換してしまうのである。

 人の傘をパクる、人を殺す、といった描写は、もちろんフィクションの中に登場していい。しかし、それが倫理的に悪いことであるということについて「知らんふり」を決め込む作品、これはすこしマズい。物語の展開上、最終的に正義が勝つべきであるということではまったくない。「これは悪が勝利する物語である」「これは、社会の人々が当然視している倫理観に疑問を投げかける物語です」ということさえ何らかの形で示されていれば、そのような問題が生じる恐れはない。

 また、サウスパークのように、意図的にある宗教や国家を貶め、批判するメッセージを含めて作られている作品であれば、作者がそのような意図を持っていることが明らかであることから、同様に問題は生じない。例えば、芸術家の会田誠さんの作品には、人の倫理観をストレステストにかけるようないくつも作品があるけれど、それを作者も意図して制作しているし、作者がそのつもりで作っていることを受け手も理解している。そういう意味で、その非倫理性は有標である。単純に倫理観がないのとは全く違う。むしろ、「知らんふり」とはもっとも遠いといえる。

 問題となるのは、非倫理的な描写が出てくるのに、作者がそれに気がついていないとしか思えない作品である。純粋に正義の味方であると描写されている主人公が、当たり前のように人の傘をパクり、特にそれが問題視も有標化もされていないような場合だ。ここで大事なのは、その意図が読み取り可能な形でどこかに示されているかどうかなのである。

・作品の倫理観について


 倫理観のない作品、大いに作ろう。倫理観のない登場人物、素晴らしい。しかし、「あれ、これ作者わからずにやってる?」と思うような、「意図しない倫理観のなさ」は作品をゆがめてしまう。

 作品を解釈するにあたって、読み手である自分と、作者の常識感覚があまりにもかけ離れているように感じてしまうと、読解は困難を極める。また、「これは意図的な描写である」という何らかのサインがないと、作中の描写の解釈の問題は、容易に作者の問題に転換しうる。

最後に


 自分は倫理観がないからなぁと心配する作者のみなさんも心配する必要はない。自身に倫理観がなくとも、世間一般の倫理観は学ぶことができる。これは一般常識を学ぶこと、「登場人物をただのバカにしない」ための取材・調査と全く同じことである。科学者の描写をリアルにするなら、ある程度科学の取材をするのと同じだ。勉強しよう。
 勉強することで、「最高に倫理観のぶっ飛んだ物語」や「最悪の倫理観を持つラスボス」を思う存分描いてくれ。
(まぁせっかく勉強したなら、自身も倫理観のある人間になってくれた方が、世のため人のためになるとは思うが)

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