Purity and Verity【R-18 NL】

 Case. 0<X<1 Purity and Verity

 標的の胸に顔を埋めるようにしてぶつかった。一瞬だけ全身を密着させて、自分の顔を上気させる。恥じらいを中心にして男慣れしていない雰囲気を作り出す。ごめんなさいごめんなさいと呟きながら、標的の手を握っていたことにさも今気付いたかのように振る舞う。一度強く握り、相手の手(意外なことにペンだこは確かにあった)を離す。
 こちらがあまりに慌てるのがおかしいのか、標的=自称美術家カルヴィンの表情は朗らかになった。接触は良好と判断。次の段階に移行する。
 数日前にファームが下した命令はいたってシンプル。王国に潜入して標的と接触せよとのこと。各人は配布された資料に則り標的と親密な関係を築く。第二の命令は標的の寝顔を見てから同封の小さな紙を見れば分かると言う。私としてはファームに感謝したいくらいだった。浪漫あふれる初夜なんて私には望めないのだし。
 7に拾われてからというもの、ベッドを共にするような男を見つける暇はなかった。ファームに入ってからなど言わずもがな。探す気もあまりなかったのだけれど。
「あの、ぶつかっておいてその上失礼なんですが、私の財布探してもらえませんか。この辺りで落としてしまって。見つからないと今夜野宿する羽目になっちゃう!」
「君みたいなコが野宿なんて何を言い出すんだ。家までの辻馬車代なら出してあげるからそれで帰りなさい」
 赤毛が揺れて心底心配していると言った雰囲気を醸し出す。資料にあったとおり、カルヴィンは少女に優しい。だから付け込める。
「えっと、家出してきちゃったんです」
 小声でぼそりと、けれどカルヴィンにかろうじて聞こえるように呟く。
 体を相手に寄せるのも忘れずに。
 家出の単語を聞いた途端カルヴィンが天を仰ぎ、顔を掌で覆った。
「すぐ帰る気はない?」
「出て来たばっかりなのにどうして帰らなきゃいけないんですか」
「当てもなく家出したって続きはしないよ」
「勉強にはちょっと自信があります。庶民の家庭教師してればお金も家も何とかなるでしょう」
 と息巻いて世間知らずな箱入り娘をアピールする。
 カルヴィンの溜息は私の安堵の代わりにもなった。
「財布を探すだけだぞ」
 花壇に植えられたルーベンスの根元を二人で探す。膝に土が付くのを嫌い、半端な姿勢になった結果転んでしまう。駆けて来たカルヴィンの手を取って立ち上がるも、よろめいて胸元に顔が近付く。頬を紅潮させてありがとうと囁いた。
 ちらと上目遣いで顔をうかがうとカルヴィンも満更ではなさそうだ。
 今度は汚れを気にせず探す素振りをする。カルヴィンが離れたのを見計らってスカートの中から財布を取り出す。
「ありました、ありましたよ!」
 喜びのあまりカルヴィンに抱き付いて首に手を回す。数秒くっついた後静かに離れる。今度は耳まで赤くして。カルヴィンの頬も朱に染まっているのを確認した。
「良かった、それじゃ知ってる宿まで案内しよう。一晩寝て頭を冷やすと良い」
「頭を冷やす必要なんか―― あれっ。中身が、ない……」
 眼に涙をためて財布を必死に確認する。空の財布を胸元にかき抱いてカルヴィンの顔を見上げる。
「ど、どうしましょう。この辺で住み込みの家庭教師雇ってくれそうな家ありますか!?」
「紹介状もなしに住み込みさせる程呑気な家は知らないなあ」
 あるはずもない。接触前の調査で把握済みなのだから。
 肩を震わせて途方に暮れていると、カルヴィンは言った。
「俺の家に来る? 家出止めるまでは居てもいいから、さ」
 満面の笑みを浮かべて頷いた。
「俺はカルヴィン。君の名前は?」
「アーミラです。よろしくね、カルヴィン」


 中層にあるカルヴィンのアトリエ兼自宅は絵画と絵具ばかり目について家財が埋まっていた。寝ては描き、描いては寝ての繰り返しだとぼやいていたのも納得してしまう。ダイニングのソファーとテーブルを掘り起こすのに一時間弱かかり、額に汗がにじんでいた。ブラウスが汗を吸って肌にくっついている。カルヴィンは照れもなくこちらを見てくる。慣れているのだろう。
「悪いけど今日は相手をしてられないんだ。食材用のお金渡すから、買ってきてくれないかな。俺、隣の部屋で画を片付けるから」
「ここにも画はありますよ? さっきから散々触ってますけど」
「別にいいさ、こっちのは燃やすか捨てるかのどちらかだったんだ。ただ、隣室にある駄作は本当に他人に見せたくない。明日にはベッドを空けるから今日はソファーで寝てほしい」
 男のプライドは大事にしないと操ることもままならない。健気な顔を作って了承し、食事のリクエストを聞く。
「料理つくれるのかい?」
「家出する時の為にこっそりメイドから習っていたんですよ」
胸を張って、自信満々に言うとカルヴィンが口元を掌で抑えて笑いを漏らした。
「何がおかしいんですかー。計画的な家出だって言ってるのにー」
「これ多分親御さんに、いや何でもないよ」
 気付かないふりをして小首を傾げる。
「じゃあライ麦パンって分かる?」
「何を言ってるんですか、パンは小麦でしょう。ライ麦パンなんて知りません」
ついにカルヴィンは堪えられなくなったようだ。ひいひいと苦しそうにうめきながらソファーの肘掛に顔をうずめた。私は怒った風を装って背中を両拳で何度も軽く叩く。
「世間知らずで悪かったですねー!」
「そんなこと言ってないじゃないか」
「言ってなくても文脈と態度でわかりますー!」
 その後のじゃれ合いはそこそこで切り上げた。ポークソテーを希望され、埃を落とした買い物かご片手に近くの店に向かう。角を曲がった先の金物屋で立ち止まり、鍋の反射面で尾行されていないのを確信する。
 カルヴィンには、なにかある。
 生活水準と画家の腕が釣り合っていない。隣室に置かれている絵にもよるが、ダイニングにあった絵と大差はないはず。小規模といえど住宅一軒を丸々個人が使っている財力はどこから来ているのか。かといって放蕩息子の線はない。家の付近に目付きの人間は見当たらなかった。
 だが、ファームから与えられた資料だけでは理解しがたい部分がある。標的の資料があると安心して現地入りした際の調査は周辺地域に限定したのは愚策だった。
 人柄は概ね資料に沿っている。カルヴィンは懐に相手を飛び込ませて離さない。作られた隙と気付かせずに相手を誘いこんで友好的になる。家出娘を連れ込んだのも今回が初めてではなさそうだ。
 手早く買い出しを済ませて戻ってくると、まだ隣室は騒がしい。早めの夕飯を作って休憩に誘おう。調理中、重い扉の閉じる音がした。隣室の奥にまた部屋があるのだろうか。
 ソテーの匂いに釣られて隣室のドアが内側に引かれた。汗だくかつ上半身裸のカルヴィンが現れた。タオルを投げつけたのはカバーのためであって別に私が慌てたわけではないと自己弁護に駆られた。
「美術家の人は裸が好きなんですかねっ。その、あの、裸婦とかたくさん書いてるし!」
「そりゃ大好きだよ。裸体はとても美しいから。何も飾らず、愚かさと醜さをさらけ出した一個の作品だよ」
「愚かで醜いのに美しい?」
「愚かで醜いから美しいのさ」
 カルヴィンはソテーを食べ始めて直ぐに平らげた。蒸野菜をフォークで突いて居心地悪そうにしている。私は手元にある蒸野菜をフォークで刺してカルヴィンに向けた。カルヴィンは蒸野菜から顔を背ける。机上の追いかけっこを1分ほど続けると、二人で笑い合った。蒸野菜は意地で食べさせた。
「カルヴィンみたいに夢を追いかけられたら幸せなのに。家の決まり事ばかり守らされるのはたくさんです。もっと自由に人生を謳歌したい」
「レールから外れたいのならレールの行き先を知ってからでも遅くはないよ」
 カルヴィンは新品のティーパックから出した紅茶を飲んで口を潤した。
「それにね、夢は追いかけている内が華だ」
 カルヴィンの笑顔に影が射した。
「もう追いかけてないんですか?」
「追いかけ続けて夢に裏切られたから。この家を使えてるのは幸運のおかげでね。君みたいな貴族の家で美術の家庭教師をやってるんだ。俺自身はもう昇れないが、誰かを昇らせることは出来るかもと思って」
私は視線をカップに落として俯いた。
「軽々しく聞いてごめんなさい」
「いいんだ、ちゃんと話せる機会を持てて良かったよ。それがアーミラみたいな可愛い子なら特に良い」
 ちょっと乙女としてどうかと思う速度で顔を上げ、子犬のように喚き立てる。手慣れてらっしゃるんですねそうやって女性のモデルを探してきたりするんでしょうと言いつつ自分でも赤面している。それを指摘されて私は頬を更に赤くした。
 カルヴィンの発言には虚実入り混じっている。幸運に恵まれて家を使っているのは恐らく事実だろう。美術の家庭教師は嘘だ。彼の画が特異的で、それを目当てに買っている客が居るとも思えない。あくまで一般人から見て上手いと分かる程度の腕だ。これくらいなら王国にいくらでもいる。
 だが、私は嘘塗れのカルヴィンから離れるつもりはなかった。ファームの真意を掴むまで任務は続行すべきと判断した。
 片付けを任せてシャワーを浴びて来ると、カルヴィンはソファーでくつろいでいた。隣に座ると石鹸のにおいが鼻孔を刺した。
「家出してまでやりたいことって何だい」
私は宵闇に染まった窓に視線を逸らした。両足を胸元に抱えて、膝に顎を乗せる。
「実はやりたいこと、思いつきませんね。笑っちゃいます。ただ、あの家から離れたくて仕方なかっただけ。血筋や伝統なんて背負いたくなかったけど、離れてみたら押し付けられた家のコト以外私には何もなかった」
 頭を撫でられた。固く、たくましい掌を感じる。カルヴィンの肩に体を寄せて、されるがまま十分ほど過ごした。
「そういえば、宿代はどうしましょう」
 カルヴィンの太ももに指を滑らせる。
「現物支給でいいんじゃないかな。料理を作ったり、掃除をしたり、あとは――」
 お互いの視線がぶつかった。カルヴィンから顔を寄せてきて、青い瞳が間近に見える。私は彼の厚い胸板に掌を当ててほんの少し押しやった。びくともしなかった。頭頂部から後頭部にかけて、手櫛で髪を梳かれた。
「家族の真似かな?」
「う、うん。ママが誘う時はこんな感じのことしてましたから。この後はどうすればいいか分からないんですけども」
「俺に任せてくれればいい」
 カルヴィンは私を抱きしめたままソファーに横になって、二人の唇が重なった。重ねるだけのキスと甘噛みを繰り返してくる。煙草の残り香が口内に漂ったけれど、不思議と不快ではなかった。私からもカルヴィンの唇を噛む。時折相手の唇に舌を這わせて舐めとる。身体全体がじわじわと温かくなってきた。シャワーを浴びたばかりなのに、体温の上昇が止まらない。何故だろう。
 キスの応酬を一旦止めて、鼻を擦り合わせる。相手の眼が遠くなったり近くなったり。抱き合っているのだから離したところで実際にはそれほど離れてなんかいない、でもなんだか楽しい。甘噛みを交えつつ、互いの唇を啄む。カルヴィンの腕に抱かれていると、心が落ち着いてしまう。任務中なのに自己暗示以外でこんな気持ちになれるなんて。
 カルヴィンがソファーから立ち上がって私の手を引く。引かれるままには行かずに私はこう言った。
「初めてだから、その、変だったらごめんなさい」
 言った途端、急に立たされた上に強く抱きしめられた。ここまで効果があるのは予想外。隣室に連れられていく時、カルヴィンが私の背中に当てた大きな掌は暖かった。
 隣室(カルヴィン曰く仕事部屋)はダイニングより広いはずなのに、手狭だった。壁際に設置された小さなガス灯だけが頼りだ。画材だけでなく山のように重なった白紙が部屋の圧迫感を増している。ベッドの正面には大きな鏡があった。
 2人ともベッドに転がり込む。キスしながらあちこちに転がってシーツを乱す。つい手癖でカルヴィンの服を脱がしていた。下腹部が露わになる。
 えっなにこれ。
 ファームの講義で資料を見せられたけど、その、えぇ……。
 生々しい肉の塊がなんていうかそう、器官自体に人間と別の意志を持って単独で生きてるみたいで、グロテスクだ。これ、私に入るの? 指二本だって苦労したのに無理じゃないかな。間近で見るのは初めてで困惑しても仕方ないし、身じろぎしたって仕方ないことだ。
 不安を察知したのか、カルヴィンは起き上がって胡坐をかいた。釣られて私も起きるけど、カルヴィンからは目を逸らす。
「大丈夫。いきなり入れたりしたら痛いからね」
 額、鼻先、頬とキスが落ちていく。顎から首に掛かるキスの雨に思わず喘ぎ声が漏れる。喘いだ隙を突かれて肌着もとられた。胸元を隠す手にカルヴィンの手が重なる。
「こんなところちゃんと見なくていいです。ママみたいに膨らんでないし」
「俺は見たい。アーミラの体はとても綺麗だから。画のモデルにしたいくらいにね」
「それって、醜さも同居してるってことでしょう」
「美醜混在してこその写実だよ」
 自分で胸元の手をどけた。
「ほら、綺麗だ」
「ばか」
 カルヴィンは乳房の付け根から乳頭に掛けて丹念にキスを落とす。乳頭からすぐ下に行かず胸骨から真下へ落ちていく。へそはキスだけでなく舌が入り込んだ。びくりと体が震えたけれど、決して嫌な感覚ではなかった。むしろ。いいえ、これはあくまでカヴァーに沿っているだけ、だから。鼠蹊部から速度がさらに落ちた。その分落とされる唇の数も増える。陰核は素通りして大陰唇に軽いキスをした。そのまま開くと思っていたが、カルヴィンは私の太ももを撫でた。
 顔を上げて来たので、軽くうなずいた。
 大陰唇に舌がねじ込まれる。指と違うざらついた感覚が腹部から昇ってきた。舌を入れたばかりだというのに水音がした。私はキスだけで興奮する女だったらしい。それとも、カルヴィンだから?
 陰唇を舌が蹂躙する。たまの自慰は処理するだけの作業だったけど、カルヴィンの愛撫は好物の料理を舌で転がしているような舌遣いだ。一か所たりとも逃さず味わい尽くされてしまう。
 陰部を舐められて溢れる喘ぎを抑えられなくなった。目尻からこぼれた涙が頬を伝う。掌で口を抑えて声を小さくしようとしても無為に思えた。
「鏡を見てごらん。抑えなくていいんだ。今はもっと楽しもう」
 先ほど視認したばかりだというのに、私は鏡の存在を忘れていた。ベッドと向かい合うように置かれた鏡で自分の顔を見て驚愕した。目尻はだらしなく下がって、口角もゆるみっぱなし。瞳は涙に溢れながらも悦楽に満ちている。こんなにも恍惚とした顔つきは今まで見たことがない。こんな顔も出来るのか。
 ついには我慢を捨てて、声を上げだした。意識などせずとも悦びの声が溢れてくる。背筋を走る快楽の熱量が高まってきたところでカルヴィンは止めてしまった。ものほしそうにしてしまった自分を恥じた。
「跨った方が楽だから、上になってほしいな」
 言われた通りベッドにあおむけに転がったカルヴィンに乗っかって、そそり立つ陰茎の上くらいに座った。尻に熱い肉の塊を感じる。尻を横に振るとカルヴィンがうめいた。
「仕返しかい」
「さっき散々しゃぶってくれたお礼です」
 恐怖をキスで誤魔化して、体を下にずらす。膝立ちのまま自分の指で大陰唇を開く。カルヴィンも陰茎を手で固定してくれた。腰を落とすと亀頭が肉ひだをかき分けて入ってきた。舌の時とは全く違う。悦楽よりも痛みが勝った。愛液が亀頭を濡らしたと思えるまで動かなかった。鼻息荒い私をカルヴィンは「ゆっくりでいいよ」と言いながら撫でてくれた。
 心と体の準備が出来た(多分) 腰をさらに落とし、陰茎が膜を突き破った。
 腹部全体に針で刺すような痛みが散った。涙がこぼれるのは堪えたけど、片目を閉じてしまった。体を起こしていられず、カルヴィンの胸板に手を当てながらゆっくりと前に倒れる。鼻先をこすり合わせる。痛みを紛らわせるために何度も、何度も。カルヴィンは私の背中をさすって落ち着くのを待った。
 体が性的興奮/異物侵入に順応したのを確認する。言葉には出さずに、キスで応えた。最初は呆れるほどゆっくりに。徐々にピストンの速度を上げていく。痛みはまだ続いているけど、カルヴィンと繋がっている多幸感が体全体に行き渡る。陰茎の硬度が増すのをお腹で感じ取る。開きっぱなしの口にカルヴィンが舌を入れて来た。ためらいなく応じ、舌同士が密に絡み合う。耳を打つ水音がフレンチキスなのか結合部なのか判別できなくなった。些事にかける余裕なんてない。今はただ目の前の男と繋がっていたかった。
 カルヴィンが悶えるのと陰茎が震えるタイミングが重なってきた。
「このまま、ですよ」
 そう耳打ちするとカルヴィンはピストンの速度をさらに早めた。悦楽に染まった脳は理性をかなぐり捨てて行為にのみ熱中させた。カルヴィンが達するのよりやや遅れて私も達した。何か喘いでいたような気はするけど、何を口走っていたのか全く分からなかった。
 カルヴィンが起き上がりゆっくりと姿勢を入れ替える。私を寝かせて、結合部から陰茎を引き抜いた。白濁液と愛液に塗れた剛直は未だ緊張状態にあった。カルヴィンも私の隣に寝転んで2人にキルト布団を掛けた。触れるだけのキスを交わしてどちらからともなく「おやすみ」と言った。
 眼を閉じて1時間、カルヴィンの寝息を聞いてからベッドの傍におちた自分の下着を拾う。下着に仕込んでおいた隠しポケットからファームの指令書を開く。

『始末しろ』

 端的な文章がひとつ。誤解のしようがない命令だ。
 ああ、つまり、この実習は。
 候補生が自分の好みの人物を殺せるか試している。
 我知らず涙が流れ、鼻をすすった。
 始末するに足る理由があり、候補生の教材としてカルヴィンは標的にされた。それだけのことだ。心を落ち着けるために、いつも寝る前にしている習慣をしてしまった。ここはカルヴィンのアトリエであってファームのベッドではない。枕元に銃なんてあるはずもないのに。そこに銃の重みはあった。
 ボーモント・アダムス DAリボルバー 5連装式、全弾装填済み。カルヴィンの身じろぎを背中に感じて、振り返る。寝る姿勢をちょっと上に直しただけで起きはしなかった。枕から手を抜いて今度こそ睡眠につく。浅い睡眠をしながら一晩中カルヴィンに警戒していた。
 翌朝、射し込んだ朝日に起こされた。カルヴィンはベッドに座って濡れタオルで体を拭いている。目を覚ました私に気付くとカルヴィンの手がこちらの頭に伸びた。どうやら撫でるのが好きらしい。
「泣いてたようだけど、終わってからも痛かった?」
「まあ、痛かったのはあって。でも違います。ママがいつも言ってた下着の秘密を探ってみたらメモが出てきて。帰ってきたくなったらママの知り合いを頼りなさいって。それが恥ずかしいような嬉しいような。それでちょっと泣いてたんです」
「家出は終わり、かあ。もっと君と過ごしたいのに」
「まだ終わらせないでくださいよー。夕方までは居させて欲しいんです。ちゃんと立てる自信がなくて」
「いいよ。冷蔵庫にあるモノは好きに使っていい。ちょっと出かけてくるからのんびりするといい」
 そう言って私の頬にキスをするとカルヴィンは出ていった。程なくしてドアの閉まる音が聞こえた。すぐさま私は行動を開始する。お腹はひどく痛むけれど、こんなのはあの娘が味わっている苦しみに比べればどうってことはない。ないんだ。
 部屋の隅にある絵画の山が目に留まる。布を剥がすと完品と思しき画が現れた。だが、これはカルヴィンが創造した絵ではない。贋作。しかも出来の良い部類だ。けれど、鑑定士に見せればすぐ露見するだろう。これだけでファームに眼を付けられるとは考えられない。絵画の山に隠れて地下室の扉を発見したが、女一人の手作業では短時間で山をどけるのは到底無理だ。
 ファームがカルヴィンを排除する根拠、あるいは証拠を持ち帰らなければ及第点止まりになる。ベッドの向かいにあった鏡を確認する。抱かれている最中は一度見たきりで大して気にもしなかった。改めて見てみると異様なほど鏡の周りは綺麗だ。他の場所は埃が積もったり、画材に埋まっていたというのに。鏡と壁の接する面をくまなく探すと、小さな窪みを発見した。左右両方にあり、窪み同士が平行にできている。これは意図的に作られたモノだ。指を差し入れて、鏡を揺するとクルミの殻を砕くような音が聞こえた。
 鏡は拍子抜けするほどあっさりと動いた。そっと壁際に寄せて画材で倒れないよう固定する。裏にしたはずなのに鏡越しに壁が見えていた。
(マジックミラーがなぜここに。噂だけの存在だとばかり。カルヴィンも元は共和国諜報委員会の関係者だった?)
 鏡の裏には写真の束と固定されたカメラがあった。カメラから伸びた配線はベッドに向かっていた。ベッドの裏も調べてみるとスイッチを見つけた。任意に撮影できるよう改造してある。
 ベッドから顔を上げ、写真の束から数枚抜き取ってシーツに置く。写真に写っているのは全て少女だった。私のような生娘との情事ばかり撮影していた。思わず写真を握る指に力が入ってしまった。慌てて緩めると写真の束から1枚の紙が落ちた。顧客リストと記された紙には貴族と思しき名前がずらりと並んでいる。純潔主義を娘に押し付けながら貴き血のお父上様は処女の悶える様に興奮している、と。
 心が冷え切った。
 写真の束とリストをバッグに詰め込んで鏡を戻した後、シャワー室に入った。頭からシャワーを被ったまま壁に額をあて、膝を衝き、慟哭した。スパイとは、こういうものなのだ。手段として心を律しなければ、あの娘の所にたどり着けない。

 帰って来たカルヴィンに愛想と料理を振る舞って、夕刻まで愛撫し合った。辻馬車を断り、歩いていくと答えた。カルヴィンと私はストリートを反対方向に分かれていく。角を曲がってすぐカルヴィンの行き先に向かって駆ける。道中で最低限必要なモノを盗んでおく。事前調査で把握していた交友関係を思い出す。大柄な男と小柄の出っ歯男がカルヴィンのつるんでいる主な面子だ。同時に盗撮写真の販売グループでもある。
 裏道を走って、猫の道を跳ねて、ようやくカルヴィンに追いついた。尾行し始めて十分も経つと、小柄男と合流した。ストリートの端に寄ってこそこそと話し合うのが見えた。声が小さくとも口元が見えていれば問題ない。大男が待つブロックの裏路地に先行した。
 賃貸アパルトメントが林立する路地裏に大男はいた。煙草を吹かして暇そうにしている。
「ねえそこのお兄さん。立派な体のお兄さん」
 振り向いた大男は口笛を鳴らした。昨晩学んだばかりの女の顔が通じて一瞬だけ安堵する。
「こんな暗い所で突っ立っていないで、楽しい事しない?」
「安モーテルにでも連れ込もうてか。わりぃけどよぉ、俺ァ人を待ってるんだ。だからここで済ませちゃうぜ」
 油断しきった顔を晒し、猫背気味に近付いてくる。私の唇をなぶろうと煙草の香りをむんむんと匂わせる大口を開いた。背に隠していた錆びたレンチを下から振り上げ顎先に叩き込む。上に浮いた体に潜り込み股間を右脚で蹴り上げる。下がってきた頭に笑顔を向けて、一回転。こめかみをレンチで横殴りにした。
 昏倒した男には目もくれず次の道具を用意した。ピアノ線で配管と大男を結んで仕掛けを作る。立っているように見せかけて固定した。糸を伸ばし大男と反対側の影に潜む。ゴミ箱の影から奥に居る大男を眺める形になった。
 やがてカルヴィンと小柄男の声が聞こえて来た。大男に声を掛けたようだが、一向に答えない大男に二人とも近付いてくる。カルヴィン、小柄男の順で奥に歩いていき、大男の目前に着いた。その瞬間、私はピアノ線の仕掛けを解いた。崩れ落ちる大男をカルヴィンが掴み、小柄男は驚いて身を引いた。後ろに投擲されたレンチが迫っているとも知らずに。
 小柄男の頭にレンチが直撃したと認識したのは音がしてからだった。やや遅れて私は小柄男の背中に飛びつき、果物ナイフを小柄男の喉に突きつける。カルヴィンは大男を放ってリボルバーを抜いたが、数瞬ためらってしまう。カルヴィンは優しいからそうすると分かっていた。
 小柄男を蹴り飛ばしてカルヴィンの右手に叩きつける。銃をとり落として小柄男と一緒に壁にぶつかった。小柄男から盗んだリボルバーをカルヴィンに向けた。念のためカルヴィンのリボルバーは蹴りつけて煉瓦を滑らせた。
 雲と煙の隙間から月光が射し、私たちを照らした。カルヴィンの顔に驚きはなかった。
「そうか。君が共和国の」
 私は黙ったまま撃鉄を起こす。両手で構えて引き金に指を掛ける。震えは一つも起こらない。
「スパイになった自分の選択を恨んだ挙句、共和国の犬に始末されるか。これでも、いいかな。可愛い娘の顔を見て死ねるのなら一興だ」
「ふざけないで! 私は貴方の人生を盛り上げるための道具じゃない!」
 激昂してしまった。口を開いてしまった。仕事に徹し、心を封じると慟哭の中で決めたはずなのに。
「君の本音を聞いたのはこれで二度目。本音を聞けたのは一度目だ。嬉しいね」
「二度目? 一度目が一体どこにあったっていうの」
「ベッドの上さ。先輩の諜報員から一つ忠告だ。国に尽くすな。でないと、俺みたいになるぞ」
「金言感謝するわ。でも私にその言葉は不要よ。最初から私の願いは国に託してなんかいない」
「だったら良いさ。今回みたいに上手くやって生きていけよ、アーミラ」
 死を前にして、カルヴィンは笑顔で言い切った。
「ありがとうカルヴィン。初めてが貴方で、良かった」
 引き金を三度引いた。右腹部、左腹部、鳩尾下に命中を確認。カルヴィンの拳銃を拾ってから小柄男にも同様に腹部へ三発。大男には眼窩から一発、腹部に三発撃ち込んだ。
 カルヴィンの持っていた贋作の一部が破れかかっていた。画の下に写真が隠してあった。貴族に贋作を売ったと見せかけてその実、処女の初体験写真を売りつけていたということか。
 三人の持ち物から写真の売り上げおよび財布の金を全て抜き取った。物盗りの犯行に見せかけて立ち去る。贋作は全て破って写真だけ抜きとっておいた。合流地点に向かう道中、血に染まった掌を幻視した。それでも構わない。たとえ血に塗れようとも、またあの娘の手を握れればこの身が穢れることなど、どうということはない。

 一週間後。ファームの食堂でコーヒーを楽しんでいると、向かいに同級生が座った。気風の良い姐さん肌で有名なドロシーだ。
「今回の実習も抜群だったみたいだな、さすが主席と目されるだけはある」
「雑務で酷使されて死にたくないから頑張っているだけよ」
「おや珍しく本音が出たな」
「スパイだもの、本音なんて稀少な方が良いでしょう」
「クロトカゲ星のことわざでかわされなくて安心したってことさ」
 ドロシーはシナモンロールをかじってから紅茶を飲んだ。
「オクトパスって知ってるか」
 口元はゆるんだまま、眼に真剣みを帯びてドロシーは言った。
「共和国諜報委員会の下部組織。諜報員が動くための前準備や環境調査を主任務とする。構成要員の数は膨大、ということまでしか分かってないわ。それがどうしたの?」
「オクトが、いや、元オクトのメンバーが今回の標的だったらしい」
「見覚えのある装備を持っていたから関係者だとは思っていたけれど、そういうことだったの」
「脱走者の始末を候補生にやらせるなんて、とんでもないトコだよ此処は」
 ドロシーは悪態を突き、半分ほど残っていたシナモンロールを食べ尽くした。
「で、今回に限った話なんだがな。任務内容を同僚と話してもいいとさ。閉鎖環境でのうっぷん晴らしは大事だからなあ」
「スパイは秘密主義が原則でしょう。HQはどういうつもりなのかしら」
「分かってないねえ、アンジェ」
 紅茶に砂糖を足してかき混ぜながらドロシーは言った。
「恋の話は乙女の嗜みだろ」
 ドロシーの声音は明るく繕われていた。

 Case.0<X<1 Purity and Verity END.

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