水泡に帰すとも


 ダヴィンチバルのカウンター席、七席あるスツールの内で右から三番目はエルメロイ二世の定位置です。タブレットに指を滑らせては眉の角度が鋭くなったり、眉間にしわが寄ったりしています。琥珀色で満たされたグラスを傾けると、氷がからんと鳴りました。
 バルのドアが開き、ヒールの音がカウンターに近付いてきます。エルメロイ二世は振り返りもしません。いつもの、と店主代理のデミヤに告げて二世の左隣に座ります。
「この前の礼だ」
 二世はそう言って葉巻を一本差し出しました。マタ・ハリに渡して、自分の手元でも葉巻をマッチで炙ります。マタ・ハリは葉巻を咥えて二世の傍に寄せました。二世が二本目のマッチを擦るとマタ・ハリの頬がほんの僅かに膨れましたが、二世は気付きませんでした。
 ちらとマタ・ハリがタブレットを覗くと日本語の文字列が並んでいます。
「【微小特異点■■修正における魔術的現象について】か。マスターいじめも程々にね、元マスターさん」
「必要だからさせている。人理修復前は元一般人でも今後はそうもいかん。いずれ英語、ラテン語でレポートを出させたいところだが、まずは母国語で論理的思考を養うために日本語も容認している」
 二世は深くゆっくりと煙を吐きました。
「グランドオーダーの報奨金として幾らかは支払われるだろうが、魔術師として見れた大した金でもない。時計塔にやってくれば早晩底を付く。後ろ盾を作るためにも魔術世界の知識も蓄えてもらう。でなければ人理を救った英雄が魔窟に囚われて食い殺される」
「ご高説には概ね同意するけれど、それだけじゃないのでしょう?」
 二世は葉巻を指で挟み、一息でグラスを空けました。横目でちらりとマタ・ハリの横顔を見ます。
「人理を修復した今でも未熟なところはあるけれど、生に対するひたむきさはすごいと思うの。そんなマスターが一時の栄光に甘んじて無様を晒すと考えていて?」
「いいや、アレは私と同類だ。凡才であるが故に立ち止まってはいられない。一度見た輝きを忘れられず、その光に恥じぬ生き方を求めるだろう。この先カルデアから出たとしても、だ」
「だったらセンセイの狙いは他にある」
 マタ・ハリはグラスを手首で振って弄びました。
「報奨金と開位の栄誉を活用し、元一般人が生き残る道で真っ当なのはエルメロイ教室に入ること」
 注がれた二杯目に一切口を付けず、二世は黙ってマタ・ハリの言葉を聞いています。
「ここ十年で借金の返済に目途はついたみたいだけれど、余裕があるとは言えない。そこに庇護を求める生徒が寄付金を持参してくれたのなら断る理由なんてないわよね。ましてや開位の存在を放置したら他の閥に吸収されてしまう。枯れた神秘に潤いを取り戻す可能性があるなら、突然変異の一代目にだって縋る人。たくさんいるのでしょう?」
 マタ・ハリは流し目を二世に送ってからグラスを中ほどまで空けました。
「この答案は何点頂けるかしら、センセイ?」
「50点」
 葉巻を吹かしてから二世は答えました。
「全く、ネットの進歩と言うのは恐ろしいものだな。こんな僻地にも窮状が伝わっている」
 二世の眉間のしわが一段と深くなりました。
「カルデアの職員にお願いしたら快くサーフィンの仕方を教えてくれたわ。でも分からないことも在った。残りの50点分教えてもらいたいな」
「分からないのではなく、確証がないのだろう」
「あら、そんなことないわ。精々あちらの枝とこっちのセンセイはどっちがダンディなのか気になってるだけ」
 マタ・ハリはにこやかに笑ってそう言いました。二世は苦い顔で一本吸い切りました。シガーケースから取り出した二本目を丹念に炙り、少しだけ吸うと指に挟みました。
「何のことはない。この時代に居る私に丸投げしているのさ。変種聖杯戦争を何度も乗り越えたマスターの偉業を闇に葬るなぞ見過ごせん」
「マスターに仕込んでいるレッスンは自分だけがわかるサインかしら」
「それでいてマスター本人が私のトリックに気付いてはならん。協会の監査に引っかかっては隠蔽に関わったスタッフやダヴィンチ女史の苦労が報われない」
 二世が投げやりに吐いた紫煙は、マタ・ハリの紫煙とぶつかって絡み合いました。
「自分を信じているからこそ、かしら」
「能力のなさは信じている。呆れるほどにな。だからこそ、他人の能力を信じられる。この世界の私もカルデアの真実を知れば自ずと力を貸すに違いない」
「疑わないの」
「ロマンチストなのでね」
「浪漫に本気になれる男、好きよ」
「光栄の至りだ」
「なーにそれ。もう」
 しばらく二人共黙ったまま過ごし、紫煙は濃くなっていきました。
「マスターが最近よく私のところに来るの。センセイのことばっかり話すのよ?」
 マタ・ハリは笑顔で言いました。二世の肩がぴくりと揺れました。
「愚痴の相手をさせているのはすまないと思っている」
 二世はマタ・ハリのいる席と反対側に顔を向けました。
「分かってるならもうちょっと手加減しなさいな。男に苦労を掛けられるのは慣れっこですけどね」
「気が付くと熱が入っていて、うむ」
 神妙に頷いた二世の耳をマタ・ハリが軽く引っ張りました。
「ねえセンセイ。本当に真意を気取られてないの?」
「そこは信じてくれて構わない。なので、離してはもらえないかなレディ」
 言われてからも二秒ほど掴んでいましたが、二世の耳は解放されました。
「こうしてると夫婦みたいね。父親が叱り過ぎて、ぐずる子どもを慰める母親みたいで」
 二世が髪を揺らして隣を見ました。マタ・ハリはカウンターに肘を付き、顎を掌に乗せていました。その視線は遠くを見ているようです。
「お互いの本名を知らない夫婦なんて居る訳ないわよね」
「別にいいんじゃないか。偽名で付き合う関係性でも」
 そう言ってから二世はタブレットをしまいました。
「カバー上で感傷が生じたとしても、それを受け入れるかは本人次第だ。必要に応じたカバーがきっかけだからといって、ロールプレイの中で産まれた全てを切り捨てる義務などない」
「実体験でもあるのかしら」
「一度だけだが。相手に偽装を見抜かれた上で同居を許してもらっていた。偽装が破れたことに気付いたのはかなり後だった」
「説得力が皆無になったわ」
 二世は歯噛みしました。くつくつと笑いが漏れて来たので、隣を見てみるとマタ・ハリが笑っていました。目尻の涙を指で拭っています。
「幸せなカバーを聞かせてくれてありがとう。まあ、なんとなく言いたいことも分かったし。マスターとセンセイで家族ごっこに興じてみるのも楽しいかも」
「私は家族と言うより、担当ゼミの講師だがな」
「子どもが知らないだけで昔別れた夫婦だったりして」
「教育に熱が入るのは実の子が為か」
「パパったら親バカねえ」
 二世もマタ・ハリも静かに笑っています。二人はグラスを掲げました。
「マスターの未来に」
「家族の幸せに」
 乾杯、の言葉と重なってガラス音が響きました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?