自然生態系からみた人間の生存論と生活論 第一章〈一生物種〉にすぎない人類

本来、人類はあまたの生物とそれをとりまく環境により構成される生態系の中の一生物種にすぎない。しかし、人類は他の生物と比べ資源やエネルギーを著しく多量に消費し、環境の大きな改変を伴いながら文明を築き、その個体数(人口)を著しく増大させ、生態系あるいは環境において特殊な存在となってきたという一面をもっている。今日、ヒトという一生物種の活動が環境を地球規模で改変し、多くの生物にも影響を与えつつある。
 まず最初に、生態系からみたヒトという一生物種の特殊性を、他の生物との比較の中で整理しておきたいと思う。それに先だって、生物の進化と絶滅の歴史を振り返ってみたい。それにより、人類が悠久の地球史においてはただの一生物種にすぎないことを再確認してみたい。

◆有機物から直立二足歩行へ

 生物が誕生したのは約35億年前とされ、その後単細胞のバクテリア類が全中に広がっていったものと考えられている。当時の大気組成に酸素は希薄であった。約25億年前から6億年前まで全盛をほこったシアノバクテリア(藍菌類)の出現により、水と二酸化炭素が光合成によって酸素に生まれ変わっていった。その反映は〈酸素汚染〉をひきおこし、他の多くのバクテリアを死滅させたといわれる。その後酸素を利用できるバクテリアは、約14億年前には出現していたと思われる真核生物の細胞内に取り込まれ共生するようになる。それが、細胞内でエネルギーの生産を司るミトコンドリアの起源になったと考えられている。これにより、真核生物は当時多くの生物にとって有害であった酸素に対処し、有機物からのエネルギー生産に酸素を活用するように進化したとされる。人類および現在の生態系にとっては欠かすことのできない酸素であるが、大気組成が大きく異なった時代の生物にとっては今日の有毒ガスとなんら変わりなかったというのは興味深い。そしてその大気の変化にあわせて進化する生物が現れてきたというのは、将来の生態系にも当てはまることだと思う。人類が種の存続を果たしていくためには、大気組成が大きく変化し生息環境が大きく変化する現在、それに適応していく新たなミトコンドリアを体内もしくは体外装置として付加することが必要ななってくるであろう。

 酸素を活用できるようになった細胞は、分裂して増殖し多細胞生物となり、約7億年前には食物摂取、運動、再生などのために特殊化した機能を担う細胞群を持つぜつ虫類も現れた。カンブリア紀(6億年前~)になると、現在生存している多細胞生物の主要なグループ(動物門)が一斉に現れる。哺乳類は中生代の三畳紀中期(約2億3000万年前)に誕生したとされる。
 この時期は、爬虫類が〈適応拡散〉によってシダ類や裸子植物の繁茂する陸地、そして水中や空中もその生息地域を拡大していった時期とみられている。〈適応拡散〉とは、動物が異なった環境に進出し、そこに適応することによって形態的分化を行い、新たな種を生成し新たな系統を分岐させていくことをいう。人類の場合その〈適応拡散〉は自らの形態的分化によって適応するだけでなく、周りの環境を自分たちの種に適応させる道具や言葉、そして知能を獲得したことが、その〈適応拡散〉のスピードに拍車をかけたのである。

 恐竜の絶滅については無数とも言える仮説が提示され、いずれも水泡のように消え去ってしまった。それほどまでに、生物の絶滅に対する一般の人の関心が高いことが分かる。恐竜だけでなく、約4億3800万年前、約2億5300万年前、約2億1300万年前のそれぞれに、現在に続く生物の祖先たちは大規模な絶滅を経験してきた。比較的小規模な絶滅も何度か経験してきた。特に大きな絶滅の中には環境の変化、例えば大規模な寒冷化などが要因となったものが多い。そうした何万年、何十万年というタイムスケールで変動する気候の呼吸にあわせるかのように、生物は進化と絶滅を繰り返してきたのである。人類もその例外ではない。
 後で詳しく述べるが、確かに人類はこれまで地球上に現れた生物の種から見ると特殊な部類に入る。だが、連綿と続く生命の輪の一生物種という意味においては、なんら他の生物種と変わることなく、自然生態系と調和していかなければ生きていくことができない存在である。高度に築き上げられた文明社会も生態系の一部に組み込まれていることは明らかである。私たちも地球の呼吸に合わせてしか生きてゆくことができないのである。

 樹上生活者であったサルがヒトに進化していく過程で、現代人が他の生物種に比べて特殊とされる要素の原型は獲得されていった。サルとヒトの決定的な溝は直立二足歩行という行動様式の獲得にあるとされる。それがどの様に獲得されていったかを整理してみたい。樹上生活に対してサル類は特異な形態的適応を成し遂げていく。木から木への移動、果実や葉の採食が求められ、それに適応して親指と他の4本の指が向き合うようになり、物を指でつかむ能力が発達した。それにより、手と足の分化が進む。次に水平であった躯幹を垂直にしなければならず、血液循環における心臓への負担が大きくなる。その問題は、直立二足歩行の前段階として森林生活の中で採食行動の際に手で物をとるために、上体を直立する姿勢を確保することによって、しだいに垂直の姿勢に見合った血液循環系が確立されていった。視覚能力の向上も必要である。枝から枝への跳躍などに際して距離を正確に把握する能力が要求され、両眼が顔の全面にならぶように進化した。これにより、立体的な視野を獲得した。さらに霊長類は陸生哺乳類の中で特に多彩な色覚を獲得している。樹上生活はもうひとつ人類への進化に必要な条件を用意してくれた。樹上は天敵も少なく食物にあふり極めて生活条件の良いところであり、当然個体数が増大した。それには、個体数の自己調整能力を進化させた。成長速度を遅くするとともに、一産一子、出産間隔の長期化、生理的早産を進めたのである。それは個体数を比較的平衡にするだけでなく、母子関係を緊密にしサル類の社会性を発達させた。
 豊かな熱帯林に育てられたサル類は、直立二足歩行と協同行動を可能にする社会性を獲得しながら、サバンナへと生息地域を拡大していった。サバンナではライオンに象徴される強敵から我が身を守るための防衛力と、鹿などを狩猟により獲得するための攻撃力が要求された。肉体的な武器を持たないサル類は、道具(武器)の使用と制作、そして共同行動によりその要求に応えていった。
 こうしてヒトへの進化は完成されていく。この過程を見てみても、長い時間をかけて自然生態系に適応していく姿は、なんら他の生物種とヒトが変わるところはない。だが、現代の人類は環境に対して極めて特殊な存在になっている。ヒトとチンパンジーのDNAの塩基配列の違いは1~2%程度であるという。身体の仕組みでは脳の容積以外はほとんど変化していないが、自分たちが生み出した文化によるヒト独自の活動様式が、環境への適応を深化させ、人類と自然生態系の間にひずみを生み出している。

◆増長する人類

 また、これは私的見解だが、このサルからヒトへの進化の瞬間を人類が科学的に解明したことは、人類に過剰な自信を抱かせた様に思う。まるでキリスト教において、「神は人を自分の姿に似せて造った」という見地から、人類を地上で最も優越する存在と信じ込んでいたようにである。神の存在が否定され、普遍客観的とされる科学で説明されても内実は変わらない。人類だけが生態系の中で特別な進化を達成したのであり、それは人類が生態系で持っても優越した者の証拠であるというまさにご都合主義の発想でしかない。これについては、ゴア米副大統領が「地球の掟」のなかで同様のことを示唆している。「人間はどんな変化に出会っても必ず適応して生きていけるという根拠のない自信をもっている。人間は適応する習性を身に付けており、しかも非常にうまくやってのける。実際に我々は技術の助けを借りて、地球上の全ての気候に、海の底に、さらには宇宙空間の真空にさえ適応してきた。地球の隅々にまで人間がその主権を拡大してきたのは、まさに適応によってである。それでつい地球環境の危機に対する明白な対応策は〈適応する〉ことだと結論づけたい気持ちになる。…人間が進んで適応しようと考えること自体が、実は問題の根底に潜む重要な要素になっている。…人間がどんなことにでも適応できるとおもうことは、突き詰めれば一種の怠慢であり、人間の能力への傲慢な信仰である。しかし私は、人間の適応能力についての信念は、間違っていると考えている。事実、人間の怠慢さが地球生態系から人間を疎外してきた原因の一つである。…」
 人類の自然に対する意識の変遷は第2章で詳しく考察するが、遺伝子にまで支配権を拡大するほどの力をもった人類にしみれば、これまでの人類史は全て賢明な適応選択の歴史であったと信じ込んでも不思議はない。その素晴らしき適応の端緒は、ドラマティックに直立歩行を始めた一匹の人類であり、今までもそしてこれからも我々はどんな困難にも賢明な適応を続けていくこであろう、と信じていたくなる。しかし、もはやその神話も否定されなければいけないでろう。ヘラ鹿のオスの角は大きければ大きいほど、メスを惹きつけるという。平和な時は角の大きいオスほどメスに恵まれ安楽な生活を享受することができる。それは、ヘラ鹿という一生物種の賢明な適応であろう。ところが、いざ外敵から自分たちのグループを守らなければならない危機が訪れたとき、扱いきれないほど巨大化した角をもつオスは真っ先に外敵の餌食となる。どうであろうか、ヘラ鹿はそのようにして生態系の中で適応・自己調整しているのである。犠牲のない調和がありえないように、犠牲のない適応選択もありえない。傲慢な優越意識を捨て去ることのできない人類は、その種の適応の結果として手痛いしっぺ返しを食うであろう。残念ながら、いまだ人類は生態系から完全に離脱して活動していけるほどに進化していないのであるから。

 ◆人類の特殊性

 次に、生態系の枠組みの中で人類がいかに傲慢と怠慢をむさぼっているかを見てみたい。比喩ではなくそれは須内として現れる。人類と生態系の関係を「環境白書平成7年度版」を参考にして、個体数・生息密度、生息域・行動圏、エネルギー消費、食糧などの面からみていこう。生態系における人類の特殊性が浮き彫りにされてくる。
 最初に生息密度をかんがえてみよう。体重と生息密度の関係が一つの手がかりとなる。一般に生物の生息密度と体重は反比例するとされていて、哺乳類では生息密度は55×体重(kg)のマイナス0.90乗(匹/km2)という関係があるとされている。人類であるならば、体重60kgとしての生息密度は1.4人/km2と予測される。実際は39人/km2で、約28倍の数値である。日本を考えると327人/km2。生態系の常識からは考えられないほどの密度で人類という大型哺乳類は生息していることになる。その生息域も極めて広く、一つの種でこれだけ広範な生息域を有する動物は他にあまり見あたらない。行動圏においては、人類であるならば約12km2、だいたい半径2kmの円に対応する土地が一般的とされる。一人に対して半径2kmの土地が生物であるなら普通といわれても、私たちの常識とはかけ離れている。
 それらを踏まえて人口問題を考えてみるとぞっとしないものがある。例えば中国には、1994年現在で、ヨーロッパ、ロシア、北アメリカ、日本、オーストリアの人口を全てあわせたよりも多くの人間が住んでいる。最近一年間で約1300万人の人口増加があったのだが、それはスウェーデンとノルウェーの合計人口に匹敵する。一生物種の分布状態として偏り具合のひどさが伺える。
 1994年9月、エジプト・カイロで国際人口開発会議が開催された。2050年に世界人口を98億人以下に抑えることを目標とする世界人口行動計画が、160カ国以上の賛同で採択されたのである。歴然たる事実として今も世界の人口は増え続けている。生態系において環境収容力を超えて個体数が生じた場合、およそ3つの方法で個体数の調整が図られる。一つは変動幅が小さくなりながら調整が進むもの。一つは環境収容力を超えてからの変動は一定のもの。そしてもうひとつは、行き過ぎと激減という不安定な変動がおこるものである。人類が生態系の一生物種として環境収容力を超えているかどうかは、判断する者の基準によって解釈は分かれるところであろう。カイロで設定された目標は、人類が持続可能な社会を実現し、種として存続していくためのぎりぎりのラインである。だが生物一般の常識から言えば、とうに環境収容力を超えてしまっているということは明らかなのである。
 次にエネルギー消費の面から見てみよう。一つの基準として標準代謝量と体重の関係がある。標準代謝量とは、安静状態でのエネルギー消費量であり、一般に単位時間あたりの酸素消費量で表される。人類の場合、食糧供給によるエネルギー消費と、電気な内燃機関の利用などによる人類に特有なエネルギー消費との両方を合算して計算する。すると、日本人は世界平均の約2倍程度のエネルギー消費をしているのだが、生態系の常識からすると体重約4トンの動物と同程度の標準代謝量があることになる。人間一人に馬4頭分のエネルギーが費やされていることになる。
 標準代謝量は、単細胞から多細胞へ、変温動物から恒温動物へという進化の過程でそれぞれ比例して10倍ずつ増加してきた。この意味で、現代人のエネルギー消費が他の恒温動物よりさらに一桁大きくなったということから、現代人という種が他の種と質的に異なった生き物になったと考えることもできる。エネルギー消費の面において人類は、生態系の常識から桁違いにはずれてしまっているのである。
 最後に食糧のことを考えてみよう。動物の食物摂取・栄養システムは、動物とその食物との長い相互作用の歴史の中で形成され、動物は多くの難問を解決して生態上安定した位置を占めるようになった。動物は種を残すために、食べることについても進化したと言える。様々な食物摂取システムがあり興味深い。例えば寄生虫は一世代の一生においても、食べるために形態と居住空間を進化させていく。広節裂頭条虫はね水中で孵化した幼虫がミジンコに食べられると、あとはひたすら食物連鎖の流れに身をゆだねつつ、サケ・マス、人間へとたどり着く。中間宿主が死んでいく中、広節裂頭条虫はすくすくと発育を重ね、接種する栄養の質も変化させていくのである。
 人類も生態系の中で特異な食物摂取・栄養システムを獲得した部類に入るであろう。加熱処理の発見は可食物の範囲を大幅に拡大した。また、道具・武器の発明や農耕・牧畜は食糧の安定した確保をもたらした。大規模に自然を改変することで人類は食糧を摂取している。第3章で詳しく考えるが、人類は他の生物に比べて、食糧を獲得するために消費するエネルギーの割合が非常に高い。植物消費量は食用だけでなく多用途(材料、燃料など)にもちいていて、莫大な割合を人類が消費している。そのために、1日あたり50~150種に及ぶとされる生物種が絶滅していることは忘れてはならないであろう。

 ◆第1章まとめ

 これまで見てきたように、人類は生態系の常識からすれば異常値ばかりで活動している存在である。他の生物が生態系の均衡と調和の中に身をゆだねている状況を考えれば考えるほど、「生命の原則からはずれてしまった異質な存在」として人類は認識される。人類は生態系とは異なる社会・文明という系を築きあげ、その中の調和を中心にして考え、活動してきた。だが、その社会・文明という系も、まだまだ生態系に依存しなければ存在し得ないのである。私たちは「自然生態系の一生物種でしかない」ことを強く認識し直そう。これから将来、自分たちの社会・文明の系の存続を考え、困難にたちむかってゆく過程とは、図らずもその事実を深く噛みしめていく過程なのではあるまいか。

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