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早く恋愛から解放されたい話


冒頭から失礼するが、私は社会人になるまで恋人ができたことがなかった。今までに男性経験は多少あるものの、長くお付き合いをして愛を育む、というような経験はないし、想像もつかない。

25歳になり、会社の同期やかつての同級生たちをフォローしているInstagramのアカウントでは、入籍報告や妊娠、出産を匂わせる投稿が頻繁にタイムラインに流れてくるし、そういう話もめちゃくちゃ聞くようになった。

大学生のとき、都会の街ゆく人を見て、「この人たちはどうやってお互いに見つけ合ったのだろう。周りの男女たちが、私の知らないうちにどんどんカップリングをされていくこの現象とは、一体何なのだろうか」と不思議に思ったことは記憶に新しい。

よく私が笑いバナシとして話すことなのだが、大学の卒業式で、卒業生の女子たちがみんな花束を持っていた。どこかで配っているのだと思った私はあたりを見回したのだが、実はそれらの花束は、彼女たちの恋人から、卒業の記念に贈られたものだったそうだ。女子大だったので、私はてっきり、みんな恋人はいなくて、それが普通だと思っていたので、これだけハッキリ可視化されると正直面食らった。「どうして…」と思った。いや、ほんとにどうして…。

学生の頃はジャニオタだったので、周りのクラスメイトよりも推しが尊かったし、好きな人は人並みにはいたけれど、告白もせず、それっぽい表明もしないまま終わることがほとんどだった。自分に自信がなく、好きな人に気に入ってもらえる自分ではないと感じていたので、「自分が好ましく思っている相手が、同じように私のことを好いてくれる」なんていう現象は、漫画かドラマの世界のことのように感じていた。恋愛のことになると、手放しに唖然とするか、もしくは、精神的・容姿的に劣っている自分を憎らしく、悲しく、苦しく思いながら生きてきた。

就職活動をしているあたりから、同居の祖母が結婚のことを暗にさぐる発言をすることが増えてきた。いくらなんでもハタチそこそこの娘に早すぎる話だが、祖母の世代としては仕方がない。しかし、就活の心理戦の最中、すごくデリケートになっていた私は、発狂したように怒る以外に成すすべがなく、祖母には悪いことをした。なお、今でもずっと「結婚はしたほうがいい」、「恋人はできないのか」と何度も聞いてくる。ここで冷静に相手の気持ちへの配慮を忘れず、毅然として柔らかな対応ができるかどうか、精神的安定性としたたかさが常に試されている。

小中学生の頃に書いた人生年表では、私は24歳で結婚をし、そこから2年おきに子どもを2〜3人産んでいる。25歳の私はまだ結婚の予感すらない。残念。同世代のアイドルたちが、バースデーイベントで、ウェディングドレスを思わせる、白いチュールの多くついた衣装をよく選んでいるのを見て、その意図は分からないが、私の主観フィルターを通して見ると、ものすごく共感する。小さい頃から漠然と思い描いている“結婚”や“ウェディングドレス”に対するあこがれは、私の中では未だに丁重に仕舞いこまれ、身近ではない絵空事として、いつまでもキラキラしている。

シンデレラコンプレックスをいい加減やめよう、と思った。

私はどうやら自分に対して、ありえないほど厳しい。私は私の思う基準に全く達しないため、今となっては諦めて半ば見捨てているようなところがある。きびしく育てられたことも影響しているかもしれないが、私は「出来ない自分」がことごとく許せない。許せないので悔しくて努力すら放棄してしまう。どん詰まりである。

話は変わり、私の性格を客観視すると、自分で言うのもなんだが、私はかなり人に優しい。“罪を憎んで人を憎まず”という性善説の擬人化のような思考なので、周りの人に対して怒りを覚えることすらほとんどない。しかし、私に好意を表してくる男性に対しては、無意識的に非人道的な扱いをしてしまい、そのような身分でもないのに、“品定め”するような視線を投げてしまう。(自分が特定の男性に対して思いを寄せているときは、話がまた別である)小学校のとき、私は同じ人に2回告白されたが、真顔のまま問答無用に断り、学年イチの不良を泣かせたこともある。

この、恋愛に引きずりこもうとしてくる男性への、一線を画した冷酷な感情、ある種の凶暴さは何なのだろうかと、ふと最近考えた。「蛙化現象」かと思ったが少し違う。自分の色んな感情の動きを見つめ直して、気がついたのは、「私は“恋人”を“自分”という枠組みの内側に置いている」ということだ。

つまり、これまで自分だけに向けてきた鋭い自己否定観を、“恋人”の枠へ近づいてくる人間へそのまま向けてしまっているということだと思う。自分に対して向ける意識は見えにくいため、他人へと発せられて初めて、その凶暴さに驚く。これほどまでに鋭く、醜い感情を幼少期から自分に対して突き刺し続けていたのだと思うと、我ながら本当にかわいそうだとすら思った。

そして、その凶暴さに起因する、地を這うような自己肯定感の低さによって、私は恋愛ができない。とてもそんな精神次元にいないと思った。なので、そもそも出来ないし向いていないことを、無理にしようとしたり気に病んだりするのは、生産性がないにも程がある。拗らせている自覚はあるので、もういっそ、拗れるところまで行ってみればいいと思う。恋愛以外にも人生の楽しみはたくさんあるのだから。

これを読み返して、数年後の自分はどう思うのだろうか。恋愛というものはタイミングなので、案外いい人と出会って結婚しているのかもしれない。しかし、今のところの私には結婚願望がなく、恋愛よりしたいことがたくさんある。1人は気楽だし、誰にも縛られず自分のためにお金を使うのだ。

田舎に住んでいるので、都会の人たちとは違い、独身のままいるのはきっと色々と大変だと思う。精神的圧や親戚的圧、同僚圧など、心労が絶えない事は目に見えている。しかし、今はきちんと目の前のことから逃げずに仕事を頑張って、自分が自分に課す高いハードルに挑み続けるしかないのだ。自分の尻尾を追いかけ回しているような文章になってしまったが、ここ2年くらいの暗闇のようだった精神状態から、最近、やっと脱することができたので、自分の将来のこと、資産のことをしっかり考えて、老後への準備がしたい。がんばれ!!私!!!!!

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