悲しみの向かう先


最近、下記のニュースを読んで思うことがありました。


記事の内容によると

・この事件の数時間前に少年複数人で施設を訪れ、大音量で音楽を流したり、たばこを吸ったりする迷惑行為に及んでいた。

・その行為を60代の男性警備員が注意し、出入り禁止の措置をとったことに腹を立て、「外国人を差別するな。爆破してやる」と警備員を脅した疑いで逮捕されていた。

・商業施設で煙の出る花火を投げつけて、施設の営業を妨害したとして逮捕。

うん。少年達よ。
こりゃお前さんらが悪い。

んで、捕まった少年は

「僕が外国人でお店で悪いことをすると自分だけが怒られ、差別されていることに腹が立った」

と話したもよう。

この逮捕された少年はトルコ人で埼玉県に住む14歳の男子中学生らしい。

少年に関するそれ以上の情報は書かれていないし、いたずらに詮索するのもよくないのでここから先は僕の主観になる。

彼が差別を受けていると感じざるを得ない生活環境があったんじゃないのだろうか。
自分のルーツにネガティブになる瞬間が多々あったんじゃないだろうか。
積もり積もった悲しみが警備員の注意により煙を上げて爆発したんじゃないだろうか。

彼がお店に花火を投げつけた行為は愚行だと思うし、警備員も外国籍だからといって辛く当たった訳ではないかもしれない。
少年の一方的な癇癪で起きた出来事かもしれない。

だけど、彼が感じている差別について、僕らが考える余地はあるんじゃないかな。

昔は2ちゃんねるぐらいでしか目にすることがなかったような他民族へのヘイトが、近頃ではあちこちで見られるようになった。
最近では匿名どころか、顔も名前も出して活動しているミュージシャンが堂々と差別を煽動するようなツイートを投稿しているから驚いた。

たぶん、そんな人たちの言い分って差別ではなく批判なんだろう。
先述の事件の内容から考えたら、彼がした迷惑行為は批判にあたるし、差別を受けてきたからといって迷惑行為に及んで良いなんてことはない。
外国人でも日本人でも同じ法のもとで裁かれるべきです。

しかし、昨今の悪びれなく差別的な言論が行き交う状況に入管法改正といったタイミングが重なると、外国籍の人達が日本で生活を送るには僕には想像できないぐらいのプレッシャーを感じるだろう。

僕らでもそのプレッシャーの一端ぐらいは想像できないかな?
その上で言葉を選べないかな?

正当な批判のつもりが無意識に差別になってないかと自分の正義を疑ってみない?

以前、沖縄署で暴動があった時、まだ事件の概要が分かっていない時点で、警察擁護・被害少年及び沖縄の人へのヘイトが行き交っていた。

そして捜査が進むにつれて警察側の過失が明るみになった際も、ネットでは警察擁護の世論がほとんどだった。
これってきっと沖縄だからじゃない?

反体制的なレッテルは叩きやすいもん。
そこに暴動を働いたのが若者達というスパイスが加わったら罵詈雑言のサンドバッグ状態だろうね。

別に暴動を美化しないがアレが無かったら警察の過失は明るみになっていたかな?

公と私
内と外
右と左
正と悪

二極化するには主語が大きい事柄は、個々でもっと理解を深めないといけない。
ヤフコメ民のコメントや論破王の切り抜き動画とかじゃなく、自分の知識と道徳で考えなくちゃいけない。

正当な批判のはずが差別になっている危険性を考えなきゃいけない。
差別を受けた人の悲しみの向こう側にある気持ちまで考えなきゃいけない。
自分ごとのように人のことを考えなきゃいけない。

なんか、昨今の日本を見ていると、色々なことをすっ飛ばして議論が進んでいる感じがします。
もっと譲歩し合える部分があると思うのに。
制度も人も。

自戒を込めて

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