戸締まりのメモ書き

友人がなんでもいいのでくれと言ってたので一回目見た後の夜中に一旦まとめたメモ書きをそのまま置いておきます。

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すずめの戸締まり、マジで気に入っております。

それはそれとして色々と見たり読んだりして頭の中で色々と渦巻いてるのでメモ書きをします。



ネタバレ注意

まず、親密になってきてから鈴芽が座ったり乗ったりキスで起こしたりし始めて、えっちだね…ってなりました。あれえっちだったよね?おれがおかしいんか?
鈴芽・・・尋常ならざる行動力の鬼、お前が主人公だよ……
死ぬのは怖くない、所詮生きるも死ぬも運だからという死生観が震災によるものという種明かしはとてもきれいにキャラを構築してるな…ってなったけどあの行動力だけ何由来か全くわからなかったので序盤を思い返すとおもろい女…
初手イケメン追って廃墟行って重役出勤はマジでおもろい
常世で一回出会ってたんですよ〜つってもさあ…
とても伝奇主人公っぽいって言われて確かに〜ってなった
この死生観から大切な人がいなくなってしまうのが怖い、という形に変化していくのサビすぎる

草太・・・存外ゆかいなイケメンくん(ヒロイン)
めっちゃ頭いいように見えて病院行きたくなかったり椅子のままとりあえず突っ込んで鍵持てなかったり寝相寝起きがゴミだったり何故か教員免許試験4日前くらいに宮崎まで来てたりするのでポンかぁ?ってなる
ただ閉じ師であるだけじゃなくて大学生で教員志望であるという設定が深みを出していて上手いな…ってなる

ダイジン・・・邪悪かと思ったら気まぐれな神様だった…おれは見事にシンカイの手のひらの上
全体的に感情と行動の因果がわかりやすい本作において読み解きが難しい枠な気がします。サダイジンも分かりにくいけど
引っこ抜かれて、うちの子になる?って言われた鈴芽に懐くのは分かるんだけど草太を椅子にしたところはどういう意味で邪魔だったんだろうね
単純に鈴芽と二人でいるには草太が絶対追いかけてくるからってことかね
要石にすることがメインで椅子にしたのはオマケ?最後の自己犠牲は気に入った人間のことを救う、大神としての一面?

サダイジン・・・突然出てきて飲み込みに時間かかったわ
東京で外れたもう一つの要石だね
こっちは片側だけでは抑えきれなくて止む無く外れたわけで、わりと積極的に抑えに行く側だったところよダイジンと対比的
環のネガティブな感情を操ったのと行く先々でポジティブに受け入れられていたダイジンの対比だったりするんかね

草太枠を女性にする案もあったけどプロデューサーが止めた話、まあ正直これで良かったのではないかと思う。
商業的なとこもあるのかもしれないけど、新海誠クラスで注目されてる作家の新作がガール・ミーツ・ガールになるとその点で注目され得ると思うけど今回の映画のキモはとことんシンプルなコメディで震災映画の重さを牽引する、単なる震災映画では拾えない層をコメディで拾うという点だと考えると、コメディ側はできるだけ引っかかりのない、ともすればシンプルすぎるくらいにスルスル入るものにすべきであり、ガール・ミーツ・ガールに力を入れるならそれを主軸にする必要が、まだ世間はあるという意味での「まだ早い」であるという形で納得できなくもない。
震災に区切りをつけた次回の新海誠でガール・ミーツ・ガールが見れることを期待。


後からサーチすると色々と是非の別れる感想が散見されましたが、個人的には見てる間に否の感情が湧くことはなかったし、後から考え直してみてもこれは新海誠をより深めた作品であり、その意味では彼の最高傑作、集大成と呼ばれるのもあり得ない話ではないと感じている。
つまり、賛の側にいる人間のメモだということを念頭におく。

今作はとても直球な映画だった。
設定としては伝奇ファンタジーであり、形式としてはロードムービー、魔女の宅急便を意識したという男女ペアの成長の物語、ある種バディもののような関係の構成ということで難しい捻りのない直球のエンタメ映画である。
その点では結論と原動力に捻りを加えた「天気の子」よりもニッチ側だった新海誠を一般受けするエンタメにするために様々な配慮された「君の名は」に近いものを感じるが、この映画は直球のエンタメ映画であると同時に直球の震災映画であった。
企画書によるとこの映画は3つの柱があるというが、ざっくり言うと①「鈴芽の成長物語」②「鈴芽と草太のコミカルで切実なラブストーリー」③「震災を鎮めていく戸締まりの物語」の3つをロードムービーの上で展開することで構成される。
前2つがコメディ映画であり、震災の話をすると震災映画に類される。
ここで重要(だと個人的に思ってる)なのはこれらが三本の柱であって、混ぜこせになった一本の柱ではないことである。つまりこれらの話は分離している。
戸締まりと移動は③によって駆動されるが、その先での出会いは草太が椅子になっていて対話できないため主に①のみで動き、草太と鈴芽のみのシーンで②が駆動する。……、

この点でロードムービー的部分と震災映画的部分、つまり前半と後半でどうしても温度差が生じてしまうところはある。特に神戸でのエピソードをもう少し震災、ひいては震災から立ち直る話(鈴芽のラストに繋がる)を出来れば良かったのではないかという批評には納得させられるものがあった。
個人の邪推だが、各地の忘れられた土地、廃墟を戸締まりして回るというロードムービー的側面が先に思いついて、終着点を考えたときに東日本大震災が後から出てきた(新海誠本でも東日本大震災は後からみたいな記述)という思考パターンによって前半を後半の震災という重い話題に耐えうる構造にする必要があったがそれだけのリソースが足りなかったのではないかと考えている。つまり考え無しに感想を書いていたら書き始めと書き終わりでテンション違いすぎるけど今更書き直すの無理だよ問題(プロがそんな素人みたいなことするか〜〜〜〜?)


つまりこの物語は震災をエンタメとして消費するのではなく、震災映画を広く一般に見せるためにエンタメの力を利用しているという形で捉えられるべきだと思う。
震災の話を主軸に据えた震災映画はこれまでも幾つもあった。ただ、それらをどれだけの人が見ただろうか。結局のところ震災映画とは震災と向き合いたい一部の人だけが見る作品になる。それでは大多数がいつか震災を遠くに忘れ去ってしまう。実際、震災を覚えていない世代が成長してきたがそれらのどれだけが震災映画を見たか、震災と向き合えたか。
この映画が震災映画でありながらエンタメ映画である最大の意味は、新海誠がこれを打ち出した意味は、意識していないより多くの層に震災と向き合う機会を与えるためなのではないか。
正直ボーイミーツガールみたいに宣伝してた各社はだいぶ騙し討ちをしてると思うが、新海誠は再三これは震災の話をすると言っていた、ような気がするので(ソースなし)…
カップルとかで見る映画とちゃうでコレ…

だからこそこの映画における東日本大震災の描写には直接的な物が非常に少ない。ここまで取り扱っておきながら津波は一度も描写されていないし、町並みは草の生い茂った何年も経ったあとの現在の町並みか、常世の燃え盛る町並みである。東日本大震災のシンボル的な表現も東北、3.11、屋根に乗る船など。主な描写は黒塗りと音。とことん配慮された範囲での描写であり、それでもそれらから誰もが東日本大震災を思い起こすこと自体が震災を思い出す、震災と向き合うという震災映画の本懐を達成している。


この物語の③は決して片手間のものではなく、真摯に向き合っている部類であると考えているが、一部の層は震災の存在にファンタジーを噛ませた時点でこれを否定するだろう。
だが、このファンタジーは震災をなかったことにするものではない。実際、劇中においても東日本大震災に類する物は既に発生しているし、戸締まりは災いをなかったことにするためではなく、これから発生する未知の災いを押し止めるものである。
もっとメタにいえば、過去を思い返し向き合うことで災いを軽減するというものの言い換えであり、…?

メモ

無思慮とも無敵ともいえる若々しさで社会的倫理に反してでも一人を救った天気の子は、その捻りから主人公のみを感情移入の対象にする層から共感を得られず一部において賛美を引き起こしていたが、それに比べれば今作は感情の導線が真っ当に感じられる。

ところでこの直球さは表裏がある。これはより多くの人間にとっつきやすくするが、しかして客の読解力を信頼しないという構えにもなる。これは評論家やら昔からのファンやら読書経験の豊富な人間には話が単純すぎるようにも感じられ得ると思うが、結局のところこれは過去2作品からのフィードバックなのだと思う。
というかこの前の地上波天気の子の時点で分かんないなってなってる感想がツイッターで大量に見られた。世間を見下す意図はないが、結局世の中のより幅広い層では読解慣れした人間には呆れられるくらいシンプルなほうがいい、という結論に達したのではないかなと少し思った。だからこそとことん王道パターンに帰結し、天気の子とも同じ形で擦る。結局商売かよ動員数がそんなに偉いかよとなる気持ちも分かるが、この映画の目的として一人でも多くの人に震災のことを触れ直す機会を得てほしいというとこあると思うので…

目についた意見から感想を
①震災というテーマをファンタジーな設定で取り扱うことの是非

この物語は直接的に名前こそ出していないものの、東北、3.11、更地になるような災害という形で東日本大震災を取り扱っている。
それとは別に、閉じ師、後ろ戸、ミミズという形で災厄、特に地震の発生メカニズムをファンタジーに置き換えている。
このような設定が、震災を人の手によって制御できるものに矮小化しているという言説があった。
なるほどなぁ…と思ったものだが、個人的には結局のところこの映画が何よりもエンタメ、つまり見て楽しい映画を目指していて、そのためにファンタジーが必要だったというところで納得してしまう。
まあ、いくらでも飲み込みようはある。

君の名は、災いに打ち勝つ物語
天気の子、災いを受け入れた世界でもなんだかんだ滅びはしないし、失ったなりに人々は逞しく生きていく、そのことを「大丈夫」なんだと形容した話
すずめの戸締まり、災いがあったという事実とそれによって失われたものとちゃんと向き合い直して、忘れ去って無かったことにするのではなく覚えている出発点として「いってきます」と宣言する話

新海誠は作品を観客に委ねない、という話

結局この映画のメッセージって何だったの?

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メモはここで途切れている…

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