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ハマって、そして戻ってこれるか?

だれかの考えに影響されたり歌詞に痺れてしまったり、はたまた〜論に傾倒する事はココロに仮想の傷を作るような事でもあるのでは無いだろうか。

それはある種の肝試しのようなもので、一旦ハマって帰ってこれなくなる可能性もある。

でも例えば、居ないという前提ではあるが、何にも影響されなかった人というのは魅力的に見えないはずだ、という仮説を私は思う。

又、影響された対象の多様さによって一層その魅力は増すのでは無いだろうか?

例:ドラえもん+フロイト+ビートルズ+Gregoire Korganow +村上春樹

これが微妙なところで、様々な分野の物事に影響された→“心に傷を作るリスクを背負った”
人たちは魅力的に見えたりする。

又はそれを受け止める素養があると表現してみたい。

聖書の中身を自分の血肉のように信じるならその人は、その中に書いてある積み上げられた集合知を受け止める素養があるからなんじゃないだろうか、だから信心深い人を魅力的に思うことがある。

影響されるというのは、論理的にというより“身体的”に虜になってしまう状態。

影響される対象がとても論理的だから影響される、ということはあるだろうけど。

影響されるというには自分の世界観や感覚を他人を通して未知の領域に広げる行為でもある。

で、ここで言いたいのは、さらにそこから戻ってこれるだろうか?

という事なんだ。

例えば、タッキーのファンになったりタッキーに憧れて髪型を美容院でタッキーにしてくださいっていう距離感からどれだけ自分の最適な距離感を見つけられるだろうかという事、なんだけど。

ちゃんと自分に戻ってくる事が大事なんじゃ無いかということ。

世俗主義という言葉を最近知ったのだけど、こういう感覚に近いかもしれない。

自分の内面から発してるものを絵の具のセットに例えるなら、今影響されている人が書いている色使いと自分が描こうとしてるものの色使いを全く同じにしようとしないで、ただ違いを認識する、という事なんだけど。

以前揶揄されていた感のあった自分探しという言葉を敢えて取り上げるなら、様々な影響下で自分で違いを認識することによって自己が見えてくるのではないかと予想している。

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