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モナ・リザの葛藤

何か非日常の感動に出会って、テレビや雑誌で見たような、とか映画で見たような、ていう例えが出る人を見た時、その人はリアルのものを見たときのそのままの感動を、自分のありふれた日常の中でありふれた媒体を通したときの日常性に邪魔されてないだろうか?とおもうことがあるんです。

これは難しいことなのかもしれない、絵画などの場合、固定されている事象だし、もっと事態は複雑なのではないだろうか?

僕自身も思うところがあって、たとえば2年前モナ・リザをパリのルーブル美術館まで見に行ったけど、モナ・リザの額縁は思っていたよりかなり小さかった。

角度や外の天気によって光の当たり具合も変わってきて見づらい場合もある。

また、いつもかなり多くの人で埋め尽くされていて、目の前でじっくり長時間みるチャンスを得られるかは難しい。

そんな中で教科書や案内書でそのままの綺麗な写真を自分の心行くまで眺めていた時以上のインパクトをどうやって得るだろうか?

何か違いを分けるのだろうか?

上野の博物館で鳥獣絵巻をみるより、京都の高山寺まで行ってその環境の中で見たほうがいい、たとえばゴッホ展なんかで物品だけがこぎれいな各所の博物館を移動していくのを見たってなにもリアルじゃないといったようなことを言ったのは、故、白洲正子さんだったか。

それも大いにあるだろう、いやそういうことなのかもしれない。

ルーブルでたくさんの人のざわざわした声と細部まで見れるかわからない距離で見たモナ・リザの鱗片が頭の中の思い出の全般を占めてて、自分が何かから切り離されてるんじゃないかという感覚があったのです。

切り離された感覚...それをつなげるのは、こちらの想像力ないしは何かそれに勝る能力の役目なのかもしれないなどと思ったのでした。

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