二つの峰の上で糸電話を渡して話そう 日記20221213

ひさしぶりに、最近忙しそうな友人と話して心の安寧が戻ってきた。こういうことを書いていると、一方的に相手を消費してしまっているようで申し訳ないような気もするのだけれど、私自身がそうやって「普段孤独を気取っている人間」が自分と話すことで安心したと言ってもらえるのはそれなりに嬉しく、多分友人も似た人なんじゃあないかなと思っているので日記に残しておこうと思った次第です。

話している中で、「自分もそうだしらくだもそうだけど、いると場がなんとかなるタイプ」と言われ、気恥ずかしいと思いながらも同意した。友人はトークをきちんと回せる・話題提供して突っ込んだりしながら話を進めるタイプで、自分は相手が出してきた話題を受け止めて自分の経験のなかから新しい話題に変化させていくタイプなので、若干違う(攻守でいえば友人が攻、自分が守)けど、まあ飲み会にいたら卓で浮いた人間はあまりつくらないほうかなあと思う。
そして、「そういうハブになる人間って孤独だよな」と言われて、すごい早さで頷いた。もちろんその場ではいろんな人と話して関係性を作って楽しいし、「誰とも友達じゃない、友達いない」という孤独ではないのだけれど、どこかで一歩引いて仲良くなっていくいろんな人を見送っていく寂しさや、それ以外にも個別の感情は個別のもので、誰にも100%理解されることはないという諦めがある。
というか、諦めが9割くらいになっていて、だからこそハブになれる。
自分は誰とも同一の存在ではないから、究極的に言うと人の内側まで踏み入って救い出したいと思うのはごく一部の人間だけなんだ。
そのごく一部を選別してしまう自分にも嫌気がさして、結果的には誰にも深く踏み入らないようなコミュニケーションを取ってしまう。多分、ここを読んでいるくらい熱心に自分のことを知ろうとしてくれている人はそのごく一部に入っていると思うのだけれど、表面上はそう見えないように振舞っていると思う。

だから、高い峰の上で登ってきてくれる人を待ちながら座っていたのだけれど、今日はその峰の上に糸電話を見つけたような気持ちになった。
それを手に取ると、かすかに人の声がして、「そこにいますか」と言われたので「いるよ」と応えた。
なんとなく、そういうイメージの会話をした気がする。
二人とも別のよくわからない孤独の山の上で、もしかしたらそこに誰かいるのかもなと思っていたのだけれど、二人で話してみて初めて「ああ、やっぱりお前もそこにいたのか!」と確認し合い、喜んでいた。
けれど、自分たちはやっぱり別々の山にいて、それぞれの大切にしているものを守りながら生きている。相手の山に登って、同じ山で過ごそうね、とはならない二人なので心地よい。
存在を確認して、自分たちが孤独の存在であることを再認識し、それでもその糸電話のおかげで自分は天啓を得たような、孤独が癒されるような思いをした。

それしかないと依存してしまうのが怖いから、糸電話の存在を感じながらも日々自分はまた山の上で人を見ては、笑っているのだろうと思う。

それから、なんとなくこんな文章を書くと不幸なような気がするのだけれど、自分は孤独というもの自体は不幸だとは思っていないし、魂レベルでは孤独ではないので、少し世間一般の孤独観とはずれているかもしれないです。安心して自分の悩みをすべて吐露できる片割れがおり、そういう意味では真の孤独ではないのだと思う。上に書いたのは、そういう事情を考慮しない人間関係の話でした。

まさかこれほど仲良くなれると思っていなかった、判断基準の似ている人間と出会えると嬉しい。そして、世界の人間たちがこうやって自分の知らない人間関係を構築している果てしなさをなぜか感じた。

人間が好きだ。孤独も好きだ。でも、糸電話からときどきとどくかすかな声に、胸を躍らせてしまう。難儀な性格だ。

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